第8話 王子の贈り物
ルシアン殿下と乗馬を楽しんでから、数日が経った。
離宮での生活は相変わらず穏やかで、私は毎朝の訓練と護衛の仕事をこなしながら、少しずつ新しい環境に馴染んでいた。ガレス殿や他の騎士たちとも気軽に言葉を交わせるようになり、マーサやリネットと一緒にお茶を飲む時間も増えている。
以前の私なら、仕事以外の時間を誰かと過ごすことなど、ほとんど考えなかっただろう。けれど、今はそんな何気ない日常が心地よく感じられる。特に、殿下と過ごす時間は、いつの間にか私にとって大きな楽しみになっていた。
もっとも、最近は少し困ったこともある。
ふとした瞬間に、先日の乗馬を思い出してしまうのだ。馬の背から感じた秋の風や、殿下が楽しそうに笑っていらっしゃったこと。それだけならよいのだけれど、どうしても最後に、殿下を支えたときの距離の近さまで思い出してしまう。
(……あれは護衛として当然のことだったのに)
何度そう言い聞かせても、殿下の穏やかな声が耳に蘇る。あなたがそばにいてくださると、安心します。あの言葉を思い出すたび、なぜだか胸の奥が少しだけ温かくなってしまう。
私は小さく息を吐き、手にしていた木剣を構え直した。今は訓練中なのだから、余計なことを考えている場合ではない。
「セレナ様、最近なんだか楽しそうですね!」
突然声をかけられ、私は思わず動きを止めた。振り返ると、訓練を終えたノエルが、いつもの明るい笑顔でこちらを見ている。
「……そうかしら? 自分では特に変わったつもりはないのだけれど」
「いや、絶対に変わりましたよ! 最初にいらっしゃったころは、もっとこう、近寄りがたい雰囲気だったというか……。今は前よりずっと、笑っていらっしゃる気がします!」
ノエルはそう言って、嬉しそうに笑った。私は少し驚きながら、自分の頬に手を当てる。そんなに表情が変わったのだろうか。少なくとも、以前より笑う機会が増えたことは確かだった。
「それなら、きっと離宮の皆さんのおかげね。ここは、とても居心地がよいから」
「そう言ってもらえると嬉しいです! あ、でも訓練では手加減しないでくださいね。次こそは一本取ってみせますから!」
ノエルは元気よくそう宣言すると、再び木剣を構えた。私は思わず微笑み、彼の構えを確かめる。以前より肩の力が抜け、動きも少しずつよくなっているようだった。
彼の真っ直ぐな眼差しを見ると、今でも胸の奥が少し痛むことがある。けれど、以前のように過去の記憶に囚われるばかりではなくなっていた。
私は木剣を構え、ノエルへ声をかけた。
「ええ。遠慮なくかかってきなさい。今日も、しっかり相手をするわ」
❀ ❀ ❀
午後、私はマーサから、ルシアン殿下が執務室で待っていらっしゃると伝えられた。
特に急ぎの用事があるとは聞いていなかったため、何か護衛に関する相談だろうかと考えながら、執務室へ向かう。扉を叩いて入室すると、殿下はいつもの椅子に腰を下ろし、穏やかな表情で私を迎えてくださった。
ただ、今日は少しだけ様子が違っていた。
殿下の手元には、小さな箱が置かれていたのだ。綺麗な布で包まれたその箱は、書類や書物とは明らかに違うもので、私は思わず視線を向けてしまった。
「お呼びでしょうか、殿下」
「ええ。来てくださってありがとうございます、セレナ殿。実は、あなたにお渡ししたいものがあるんです」
殿下はそうおっしゃると、手元の箱へそっと触れられた。私は少し驚きながら、殿下の前へ進む。何か重要な書類でも預かるのだろうかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
「先日の乗馬のお礼に、あなたへ贈り物を用意したんです」
「……贈り物、でございますか?」
思いがけない言葉に、私は目を瞬かせた。乗馬の準備は確かに私が中心となって進めたけれど、それは護衛として当然の仕事だった。殿下に喜んでいただけただけで十分なのに、わざわざ贈り物まで用意してくださるとは思ってもいなかった。
「殿下、お気持ちは大変嬉しいのですが、どうかお気遣いなさらないでください。あれは私の仕事でもありますし、何より私自身も楽しませていただきましたので」
「ええ。それはわかっています。ですが、これは王子としての褒美ではなく、私個人からの贈り物なんです」
殿下は少しだけ声を和らげ、続けられた。
「あなたが私の願いを叶えてくださったことが、とても嬉しかったんです。ですから、私も何か、あなたに喜んでいただけることをしたいと思いまして」
その言葉に、私は返事を忘れてしまった。
王子から騎士への褒賞ではなく、ルシアン殿下個人から、私への贈り物。そう考えた途端、胸の奥が小さく高鳴った。誰かが私のために何かを用意してくれたというだけで、こんなにも嬉しくなるものなのだろうか。
私は少し戸惑いながらも、殿下のご厚意を受け取ることにした。
「……ありがとうございます、殿下。では、ありがたく頂戴いたします」
「ふふ。気に入っていただけると嬉しいのですが」
殿下はそうおっしゃって、小さな箱を私の方へ差し出された。
❀ ❀ ❀
私は両手で箱を受け取り、そっと蓋を開けた。
中に収められていたのは、細長い深紅のリボンだった。落ち着いた色合いの布地は柔らかな光沢を帯び、端には銀糸で小さな花の刺繍が施されている。華美すぎない上品な仕上がりで、見た瞬間に思わず息を呑んでしまった。
「……とても、綺麗です」
私はそっとリボンを手に取り、指先で布地の感触を確かめた。しっかりとした織り方でありながら、手触りは柔らかい。これなら剣の柄や鞘に結んでも邪魔にならず、長く使うことができそうだった。
そして、端に刺繍された花を見た瞬間、私は小さく目を見開いた。
「殿下……この花は、もしかして月鈴草でしょうか?」
「ええ。以前、庭園を一緒に歩いたときに教えていただいた花です。あの日のことが、とても印象に残っていたものですから」
殿下は嬉しそうに微笑まれた。私は改めて刺繍を見つめる。小さな白い花を思わせる銀糸の模様は、あの日、庭園で見た月鈴草によく似ていた。
殿下は花の姿をご覧になったことはない。けれど、香りや名前を覚えていらっしゃって、私との思い出として大切にしてくださっていたのだ。
「色は、リネットに相談して選びました。あなたの髪に似合う色を教えてもらったんです。それから、月鈴草の刺繍もお願いしました」
「……私の髪に、でございますか?」
「ええ。私はあなたの髪の色を見ることはできませんが、リネットがとても綺麗な深紅だと教えてくれました。きっと、あなたによく似合うと思うんです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私は自分の髪を、特別綺麗だと思ったことはなかった。幼いころから剣術ばかりに夢中で、髪も邪魔にならないよう高い位置で結ぶことが多かった。騎士団に入ってからは、装飾品を身につける機会もほとんどなくなっていた。
それでも、殿下は私の髪に似合う色を考え、こうして贈り物を用意してくださったのだ。
(……こんな私に、こんな綺麗なものをいただいてもいいのかしら)
思わず、そんな考えが浮かんでしまった。
顔に傷を負ってから、私は以前にも増して装飾品を避けるようになっていた。綺麗なものを身につけても、結局は傷に目を向けられてしまう。そう思うと、自然と手が伸びなくなっていたのだ。
けれど、殿下が選んでくださったのは、私の剣に結ぶためのリボンだった。
騎士としての私を否定することなく、それでいて、ただの武具ではない美しさを添えてくれるもの。まるで、私が大切にしてきたものを、そのまま受け止めてくださっているようだった。
「セレナ殿。……もしかして、あまりお好みではありませんでしたか?」
殿下が少し不安そうに尋ねられた。私は慌てて顔を上げる。そんなことは決してない。むしろ、嬉しすぎて、どう言葉にすればよいのかわからなくなっていただけだった。
「い、いえ! とんでもございません。とても綺麗で……本当に、嬉しいです。ただ、こんな素敵なものをいただくのは、少し慣れていなくて」
「そうでしたか。それなら、よかったです」
殿下はほっとしたように微笑まれた。そして、少しだけ照れたような声で続けられる。
「あなたが喜んでくださることが、私には何より嬉しいんです」
私はその言葉を聞きながら、リボンをそっと胸元へ寄せた。
これまで、騎士団では勲章や褒賞をいただくこともあった。功績を認められることは誇らしかったし、努力が報われたと感じる瞬間でもあった。けれど、誰かが私の好みや気持ちを考えて、こうして贈り物を選んでくれたことは、ほとんどなかった。
だからこそ、この小さなリボンが、何よりも特別なものに思えた。
❀ ❀ ❀
「殿下。もしよろしければ、今ここで剣に結んでもよろしいでしょうか?」
私はリボンを手にしたまま、殿下へ尋ねた。すると、殿下は嬉しそうに頷かれる。
「もちろんです。ぜひ、そうしてください」
私は椅子へ腰を下ろし、愛剣を鞘に収めたまま膝の上へ置いた。そして、柄の根元にリボンを結びつける。邪魔にならないよう長さを調整しながら、丁寧に形を整えていく。
深紅の布が、使い込まれた剣に柔らかな彩りを添えた。銀糸で刺繍された月鈴草が小さく揺れ、光を受けて上品に輝いている。私は思わず見入ってしまった。
これまで、私の剣はただ戦うためのものだった。傷つき、血に濡れ、それでも誰かを守るために握り続けてきたもの。けれど、今はその剣に、殿下との温かな思い出が結ばれている。
「殿下、とても綺麗です。私の剣に、よく似合っています」
「それはよかった。……あなたが剣を握るとき、少しでも嬉しい気持ちになってくださればと思ったんです」
殿下は穏やかに微笑まれた。その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じる。
剣を握ることは、私にとって誇りであり、同時に後悔を思い出す行為でもあった。守れなかった命のことを忘れないために、私はこれまで何度も剣を握り直してきた。
けれど、これからは少しだけ違うのかもしれない。
このリボンを見るたびに、殿下と庭園を歩いたことや、一緒に馬に乗ったことを思い出すだろう。そして、私のために贈り物を選んでくださった、その優しい気持ちを思い出すのだ。
私は剣をそっと抱き寄せ、殿下へ深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、殿下。大切にいたします」
「ええ。そうしていただけると、私も嬉しいです」
殿下の声は、いつもどおり穏やかだった。けれど、私の胸の奥には、これまで感じたことのないような温かな気持ちが広がっていた。
❀ ❀ ❀
その夜、私は自室で剣の手入れをしていた。
いつもなら刃の状態を確認し、汚れを落として油を塗れば、それで終わりだ。けれど、今日は何度も柄の根元へ視線が向いてしまう。深紅のリボンが揺れるたび、昼間の出来事が思い出されるのだ。
殿下が私のために色を選び、月鈴草の刺繍を考えてくださったこと。そして、私が喜ぶことが何より嬉しいとおっしゃってくださったこと。
そのひとつひとつを思い返すたび、自然と頬が緩んでしまう。
(……こんなに嬉しいものなのね。誰かが、私のことを考えてくれるというのは)
私はリボンへそっと指を伸ばし、柔らかな布地に触れた。たった一本の小さなリボンなのに、まるで大切な宝物を手に入れたような気持ちだった。
ふと、部屋の鏡に目が向く。
そこには、いつもどおりの自分の姿が映っていた。長い深紅の髪に、紫色の瞳。そして、左の頬から顎にかけて残る大きな傷跡。
以前なら、鏡を見るたびに傷へ目が向き、すぐに視線を逸らしていただろう。けれど、今日は不思議と、そんな気持ちにはならなかった。
私は鏡に映る自分を見つめながら、そっと剣を抱き寄せた。
(……殿下は、私の髪に似合う色を選んでくださったのよね)
殿下は私の顔をご覧になったことがない。傷のことも、きっと詳しくはご存じないだろう。それでも、私のために何かを選び、喜んでほしいと願ってくださった。
その事実が、今は何より嬉しかった。
私は鏡から視線を戻し、剣をそっと鞘へ収めた。深紅のリボンが小さく揺れ、銀糸の月鈴草が静かに光る。
傷のある私にも、こんなに大切にしたいものができた。
そう思うと、胸の奥が温かくなり、自然と微笑みがこぼれた。
私は剣をいつもの場所へ置き、明日もまた殿下にお会いできることを楽しみにしながら、静かに灯りを消した。




