第7話 初めての乗馬
ルシアン殿下と乗馬の約束を交わしてから、3日が経った。
その間、私はガレス殿や厩務員と相談を重ね、乗馬の準備を進めていた。今回使用するのは、先日厩舎で出会った白馬のリュミエール。穏やかな性格で人を乗せることにも慣れており、2人分の体重を支えられる体格であることも確認している。
さらに、2人乗りに対応した鞍を用意し、当日は厩務員が馬を引き、ガレス殿にも近くで見守ってもらうことにした。場所は離宮の馬場。足場も整っており、万が一の際にもすぐに対応できる。
そして迎えた当日、私は朝から馬場で最終確認を行っていた。
「ヴァレンティア殿、準備は整いました。リュミエールの体調も良好ですし、今日は天候にも恵まれましたね」
ガレス殿がそう言って、穏やかに微笑んだ。私はリュミエールの首筋を撫でながら、改めて馬の様子を確かめる。白馬は落ち着いた様子で鼻を鳴らし、私の手に顔を寄せてきた。
「ええ。この子なら、きっと大丈夫でしょう。あとは殿下に楽しんでいただければよいのですが」
「殿下も、今日をとても楽しみにしていらっしゃいましたよ。昨日も厩舎の様子を尋ねておられました」
「……そうなのですね」
その話を聞いて、私は少し嬉しくなった。殿下が久しぶりの乗馬を心待ちにしていらっしゃることが伝わってきたからだ。
ほどなくして、マーサに付き添われた殿下が馬場へいらっしゃった。動きやすい乗馬服に身を包み、白い杖で足元を確かめながら歩いてこられる。銀色の髪が朝日に照らされ、柔らかく輝いていた。
「おはようございます、セレナ殿。今日はよろしくお願いします」
「おはようございます、殿下。準備は整っております。まずはゆっくり歩くところから始めましょう」
私は殿下に乗馬の手順を説明した。今回は私が後ろに乗って手綱を取り、厩務員が馬を引くこと。最初は馬場をゆっくりと一周し、殿下の体調や姿勢を確認しながら進めること。少しでも不安があれば、すぐに中止できるようにしていること。
殿下はひとつひとつ丁寧に耳を傾け、最後に嬉しそうに頷かれた。
「ありがとうございます。そこまで考えてくださったのですね。セレナ殿と一緒なら、安心して楽しめそうです」
その言葉に、私は自然と背筋が伸びた。殿下から向けられる信頼は、騎士として何より嬉しいものだった。けれど、今日はそれだけではない。先日、自分から同乗を提案したときのことを思い出し、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなっていた。
❀ ❀ ❀
乗馬の準備が整うと、私は殿下をリュミエールのそばへ案内した。
馬の位置や鞍の高さを言葉で伝え、ガレス殿と厩務員にも補助をお願いする。殿下は私の説明を聞きながら、慎重に足を運ばれた。久しぶりの乗馬とはいえ、幼いころの経験が残っているのか、動きに大きな迷いはない。
「殿下、左足をこちらの鐙へお願いいたします。私が身体をお支えしますので、ゆっくりと」
「わかりました。……こうでしょうか?」
「はい。そのまま鞍へ腰を下ろしてください。大丈夫です、しっかり支えております」
ガレス殿たちの補助もあり、殿下は無事に馬の背へ乗ることができた。私は姿勢が安定していることを確認してから、今度は自分も後ろへ乗り込む。
慣れた動作で鞍に腰を下ろした瞬間、私は思わず息を止めてしまった。
(……近いわね。思っていたより、ずっと)
目の前には、殿下の背中があった。
普段は少し距離を置いて護衛しているけれど、今は手を伸ばせばすぐに触れられるほど近い。柔らかな銀色の髪が風に揺れ、ほんのりと清潔な石鹸の香りが漂ってくる。
もちろん、護衛として誰かの身体を支えた経験は何度もある。負傷した兵士を馬に乗せて運んだこともあれば、訓練で同僚と同乗したこともあった。それなのに、どうして今日はこんなにも落ち着かないのだろう。
私は小さく息を整え、殿下の両側から手綱を取った。
「殿下、お座り心地はいかがでしょうか? 鐙の位置など、気になるところはございませんか?」
「ええ、大丈夫です。久しぶりなので少し緊張していますが、とても楽しみですよ」
殿下は嬉しそうに笑われた。その声を聞いて、私はようやく気持ちを切り替える。今は殿下に安全に乗馬を楽しんでいただくことが最優先だ。余計なことを考えている場合ではない。
私は厩務員へ合図を送り、リュミエールをゆっくりと歩かせてもらうことにした。
❀ ❀ ❀
リュミエールが一歩を踏み出すと、鞍を通して穏やかな揺れが伝わってきた。
白馬は落ち着いた足取りで馬場を進み、厩務員の誘導に従ってゆっくりと歩いていく。私は殿下の姿勢を確認しながら、馬の動きに合わせて身体を動かすよう説明した。
「殿下、無理に身体を固くなさらず、馬の揺れに合わせて少しだけ腰を動かしてみてください。そうすると、ずっと楽になります」
「なるほど……。こうでしょうか?」
「はい、とてもお上手です。リュミエールも落ち着いておりますので、ゆっくり慣れていきましょう」
殿下は私の言葉に従い、少しずつ身体の力を抜いていかれた。最初こそ緊張していらっしゃったけれど、馬場を半周するころには、すっかり穏やかな表情になっている。
「……懐かしいですね。馬の背って、こんなにも温かかったんですね」
「はい。リュミエールも、とても落ち着いて歩いてくれていますよ。きっと殿下がいらっしゃることを、喜んでいるのだと思います」
「ふふ。そうだと嬉しいですね。昔も、こうして馬に乗せてもらうのが大好きでした」
殿下の声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。私はその横顔を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じる。
馬場の周囲には秋の草花が咲き、遠くの林では木々が少しずつ色づき始めていた。風が吹くたび、木の葉が擦れ合う音が響き、馬の蹄が柔らかな土を踏む音と重なっていく。
「殿下、今日はとてもよいお天気です。馬場の向こうにある林も、少しずつ秋の色に変わり始めています」
「そうなのですね。風も気持ちがよいですし、木々の音もよく聞こえます。馬に乗っていると、いつもとは少し違って感じられますね」
「ええ。馬の背からですと、普段より少し高い場所から風を感じられますから」
私はそう答えながら、以前一緒に庭園を歩いたときのことを思い出した。あの日、殿下は私に、見えている景色を教えてほしいとおっしゃった。今もこうして、私が目にしたものを伝え、殿下が感じたものを教えてくださっている。
同じ場所にいても、感じ方は少しずつ違う。けれど、その違いを言葉にして分け合うことが、今の私にはとても楽しかった。
❀ ❀ ❀
馬場を何周かしたところで、殿下が少しだけ顔を上げられた。
「セレナ殿。もし大丈夫でしたら、もう少し広いところまで行ってみてもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます。ただし、馬の状態を確認してからにいたしましょう」
私は厩務員とガレス殿に声をかけ、リュミエールの様子を確かめた。呼吸も落ち着いており、歩き方にも問題はない。殿下の姿勢も安定していたため、馬場の外周をゆっくりと歩くことにした。
厩務員が手綱を引き、リュミエールは再び歩き始める。先ほどより少し広い場所へ出ると、周囲の景色が開け、秋の風が心地よく吹き抜けていった。
「……不思議ですね。いつも歩いている場所なのに、こんなにも違って感じられるなんて」
殿下は嬉しそうに笑われた。私はその声を聞きながら、自然と頬を緩める。殿下がこうして楽しんでくださっていることが、何より嬉しかった。
「殿下、今は馬場の外周を歩いております。右手には小さな林があり、左手には広い草地が続いています。遠くには離宮の屋根も見えますよ」
「ありがとうございます。セレナ殿の説明を聞いていると、どんな場所を歩いているのか、よくわかります」
殿下は少し間を置いてから、穏やかな声で続けられた。
「あなたのおかげで、またひとつ好きなものが増えました。久しぶりの乗馬が、こんなにも楽しいものになるとは思っていませんでしたよ」
「……そう言っていただけると、私も嬉しいです」
私は素直にそう答えた。殿下の願いを叶えることができた。その事実が、騎士としての誇りとは少し違う、柔らかな喜びを胸の奥に広げていく。
誰かを守るために剣を握ることも大切だけれど、こうして誰かの笑顔のために力を使うことも、きっと同じくらい大切なのだろう。
そんなことを考えながら、私はリュミエールの歩みに合わせて手綱を保っていた。
❀ ❀ ❀
それは、馬場の外周を歩いていたときのことだった。
近くの木立から、小鳥が突然羽ばたいた。乾いた羽音が響き、リュミエールが驚いたように首を上げる。大きく暴れるほどではなかったけれど、馬の動きが一瞬だけ変わり、殿下の身体がわずかに傾いた。
私はすぐに手綱を安定させ、空いている腕を殿下の身体へ回した。
「殿下、大丈夫ですか?」
殿下の身体を支えながら声をかけると、すぐに返事があった。
「ええ。少し驚きましたが、問題ありません。ありがとうございます」
リュミエールもすぐに落ち着きを取り戻し、厩務員が優しく声をかけながら歩みを止めた。私は殿下の姿勢を確認し、怪我がないことを確かめる。
幸い、何も問題はなかった。殿下も落ち着いていらっしゃるし、リュミエールも普段どおりの様子に戻っている。
私はほっと息を吐いた。
そして、その瞬間になって、ようやく自分の姿勢に気づいた。
(……っ!)
私は殿下を支えるため、背後から抱き寄せるような格好になっていた。
片腕は殿下の身体に回され、私の胸元と殿下の背中が触れそうなほど近づいている。普段なら何とも思わないはずの距離なのに、今はなぜだか心臓が大きく跳ねた。
慌てて腕を緩めようとすると、殿下が少しだけ顔をこちらへ向けられた。
「……セレナ殿。随分と、近くにいらっしゃるのですね」
「も、申し訳ございません! お身体をお支えするために、つい……!」
私は思わず早口になってしまった。けれど、殿下は少しも気にした様子を見せず、穏やかに微笑まれる。
「謝らないでください。とても心強かったですよ。……それに、あなたがそばにいてくださると、安心します」
その言葉に、私は返事を忘れてしまった。
殿下の声はいつもどおり優しかったけれど、どこか少しだけ照れたような響きが混じっている気がした。私の勘違いかもしれない。それでも、その穏やかな声が耳に残り、胸の奥が落ち着かなくなる。
私は何とか気持ちを整え、ゆっくりと腕を戻した。
「……ありがとうございます、殿下。ですが、今後も何かございましたら、遠慮なくお申しつけください。必ずお支えいたしますので」
「ええ。頼りにしています、セレナ殿」
殿下はそうおっしゃって、静かに微笑まれた。
私は前方へ視線を戻し、手綱を握り直す。馬場には穏やかな風が吹き、リュミエールも落ち着いた様子で立っている。それなのに、私の心臓だけが、なかなか普段の速さに戻ってくれなかった。
❀ ❀ ❀
乗馬を終えたころには、午前の日差しが少し強くなっていた。
私はガレス殿たちの補助を受けながら殿下を馬から降ろし、最後に自分も地面へ降り立った。リュミエールは今日の仕事を終えて満足したのか、穏やかに鼻を鳴らしている。
私は白馬の首筋を撫で、優しく声をかけた。
「ありがとう、リュミエール。今日は本当によく頑張ってくれたわね」
殿下も私の隣へいらっしゃり、リュミエールの額をそっと撫でられた。白馬は嬉しそうに鼻先を寄せ、殿下の手に触れている。
「リュミエール、ありがとう。久しぶりに馬に乗れて、とても楽しかったですよ」
殿下の声には、心からの喜びが滲んでいた。私はその様子を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じる。準備には少し時間がかかったけれど、こうして殿下に喜んでいただけたのなら、何よりだった。
「セレナ殿。今日は、私のわがままを叶えてくださってありがとうございました」
「わがままなどではございません。私も、殿下と一緒に乗れて楽しかったです」
そう答えてから、私は少しだけ驚いてしまった。自分でも気づかないうちに、本音がこぼれていたからだ。
もちろん、乗馬は楽しかった。久しぶりに馬の背に乗り、秋の風を感じる時間は、とても心地よかった。けれど、それ以上に、殿下が楽しそうに笑っていらっしゃる姿を見ることが嬉しかったのだ。
「それなら、またいつかご一緒していただけますか?」
殿下は少し嬉しそうに微笑まれた。私は迷うことなく頷く。
「もちろんでございます。次は、もう少し長く乗れるように準備いたしましょう」
「ふふ。それは楽しみですね。では、また約束ですよ」
その言葉を聞いて、私は自然と微笑んだ。けれど、ふと先ほどの出来事を思い出し、頬が少しだけ熱くなる。
殿下の背中に触れた感触。すぐ近くで聞こえた穏やかな声。そして、私がそばにいると安心するとおっしゃってくださったこと。
どれも、護衛としては何も特別なことではないはずだった。それなのに、思い返すたび、胸の奥が小さく高鳴ってしまう。
(……殿下と過ごす時間が、こんなにも楽しみになるなんて)
私はリュミエールの首筋を撫でながら、そっと息を吐いた。
この離宮へ来たばかりのころは、ただ与えられた任務を果たすことだけを考えていた。けれど、今は違う。殿下と庭園を歩くことも、一緒にお茶を飲むことも、こうして馬に乗ることも、いつの間にか私にとって大切な時間になっていた。
そして、次はどんな時間を過ごせるのだろうと、自然に考えてしまう。
私は隣で微笑んでいらっしゃる殿下へ、そっと目を向けた。銀色の髪が秋の風に揺れ、穏やかな表情が朝日に照らされている。
その姿を見つめていると、また胸の奥が小さく跳ねた。
この不思議な気持ちが何なのか、今の私にはまだわからなかった。




