第6話 馬と王子と女騎士
離宮の厩舎へ向かう道を歩きながら、私はいつもより少しだけ浮き立った気持ちになっていた。
昨日、ルシアン殿下と約束した厩舎の見学。騎士団にいたころは毎日のように馬と接していたけれど、離宮へ来てからはまだ一度も厩舎を訪れていなかった。どんな馬たちが暮らしているのだろうと考えるだけで、自然と足取りが軽くなる。
隣を歩く殿下は、白い杖で足元を確かめながら、私の腕に軽く手を添えていらっしゃる。厩舎へ続く道は途中から石畳ではなくなるため、私は地面の状態や段差を伝えながら、ゆっくりと歩みを進めた。
「セレナ殿。今日は、いつもより楽しそうですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ。足取りが軽いですし、先ほどから何度も厩舎の方へ顔を向けていらっしゃるような気がします」
「顔を向けていることまでおわかりになるのですか?」
「それは想像ですよ。ですが、昨日から楽しみにしていらっしゃったのでしょう?」
殿下は楽しそうに微笑まれた。私は少し恥ずかしくなりながらも、素直に頷く。実際、昨夜は久しぶりに馬と触れ合えることが楽しみで、厩舎にはどんな馬がいるのだろうと考えていたのだから、否定する理由もなかった。
「はい。騎士団にいたころは、毎日のように馬の世話をしておりましたので。久しぶりに触れ合えると思うと、少し嬉しくて」
「ふふ。それはよかった。私も、あなたと一緒に馬たちに会えるのを楽しみにしていたんです」
そう言ってくださる殿下の声は、とても穏やかだった。私はその横顔を見つめながら、昨日まで胸の奥に残っていた重たいものが、少しずつ薄れていくのを感じていた。
やがて厩舎が見えてくると、干し草の香りが風に乗って漂ってきた。木造の建物の中からは馬のいななきが聞こえ、蹄が床を踏む音も響いている。その懐かしい空気に、私は思わず頬を緩めた。
❀ ❀ ❀
厩舎の中には、全部で6頭の馬が飼育されていた。
栗毛の大きな馬や、黒く艶やかな毛並みをした馬など、それぞれ体格も性格も違うようだ。馬房は清潔に保たれ、餌や水もきちんと用意されている。世話を担当する厩務員に挨拶をすると、彼は快く見学を許してくれた。
私は殿下に馬たちの様子を伝えながら、ゆっくりと厩舎の奥へ進んだ。すると、一番奥の馬房から、真っ白な馬がこちらへ顔を向けてきた。
「……まあ。とても綺麗な白馬ですね」
思わず声が漏れてしまった。白馬は私たちに興味を示したのか、ゆっくりと鼻先を伸ばしてくる。柔らかな白い毛並みと穏やかな瞳が印象的で、見ているだけで優しい気持ちになれるような馬だった。
「その子はリュミエールといいます。とても人懐っこい牝馬で、昔からこの離宮にいるんですよ」
厩務員がそう教えてくれた。私はゆっくりと手を差し出し、リュミエールが自分から近づいてくるのを待つ。すると、白馬は迷うことなく鼻先を寄せ、私の手のひらへ柔らかく触れてきた。
「いい子ね。とても綺麗な毛並みをしているわ。きちんとお世話してもらっているのね」
私はそっと額を撫で、それから首筋へ手を滑らせた。リュミエールは気持ちよさそうに目を細め、もっと撫でてほしいと言わんばかりに顔を寄せてくる。その仕草があまりにも可愛らしくて、私は思わず笑ってしまった。
「ふふ。セレナ殿は、馬に話しかけるとき、とても優しい声になるのですね」
殿下の言葉に、私ははっとして顔を上げた。どうやら、夢中になって馬へ話しかけているところを聞かれていたらしい。騎士団にいたころは、馬の世話をしている姿を見られても特に気にしたことはなかったけれど、殿下の前だと思うと、なぜだか少し恥ずかしかった。
「……お恥ずかしいところをお聞かせしてしまいました」
「どうしてですか? とても素敵だと思いますよ。あなたが馬を大切に思っていらっしゃることが、よく伝わってきます」
殿下は嬉しそうに微笑まれた。その言葉に、私は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。剣を握っているときとは違う自分を見せることに、まだ少し戸惑いはある。けれど、殿下はそんな私の姿も自然に受け止めてくださるのだ。
「セレナ殿。私もリュミエールに触れてみてもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます。リュミエールも落ち着いておりますし、きっと喜ぶと思います」
私は厩務員に確認してから、殿下を馬房の前へ案内した。リュミエールは人に慣れているけれど、馬は突然の動きに驚くこともある。私は殿下に馬の位置を伝え、ゆっくりと手を伸ばしていただくことにした。
「殿下、リュミエールは今、こちらへ顔を向けております。私の声のする方へ、ゆっくり手を伸ばしてみてください」
「わかりました。……リュミエール、久しぶりですね。私のことを覚えていてくれていますか?」
殿下が穏やかに声をかけると、リュミエールは小さく鼻を鳴らした。そして、自分から殿下の手へ鼻先を寄せる。柔らかな感触に、殿下は嬉しそうに笑われた。
「ふふ。覚えていてくれたのでしょうか。相変わらず、温かいですね」
「とても嬉しそうにしておりますよ。殿下の手に、もっと触れたがっているようです」
「それなら、もう少し撫でさせてもらいましょうか」
殿下はリュミエールの額へそっと手を添え、ゆっくりと撫でていらっしゃった。その表情はとても穏やかで、見ている私まで嬉しくなってしまう。王宮では目が見えないことを理由に、さまざまなことを制限されてきたと聞いている。けれど、こうして馬と触れ合う姿は、どこにでもいる動物好きの青年と変わらなかった。
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しばらくリュミエールと触れ合っていると、白馬が突然、私の方へ鼻先を伸ばしてきた。
何かと思って顔を向けると、リュミエールは私の髪に興味を示しているらしい。高い位置で結んだ深紅の髪が揺れるたび、鼻先を近づけてくる。私は思わず笑いながら、そっと顔を離した。
「こら、リュミエール。これは食べ物じゃないのよ?」
けれど、リュミエールは諦める様子がない。私が髪を押さえると、今度は肩口へ鼻先を寄せ、何とか触れようとしてくる。どうやら、揺れる髪がよほど気になるらしい。
私は馬の気を逸らそうと首筋を撫でてみたけれど、リュミエールは器用に顔を動かし、再び私の髪を狙ってきた。剣を持った相手なら動きを読むこともできるけれど、こんな可愛らしい攻撃にはどう対処すればよいのかわからない。
「ちょ、ちょっと待って。そんなに引っ張ったら、髪がほどけてしまうわ」
私が慌てて髪を押さえると、隣から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「ふふ。王国最強の女騎士にも、苦手な相手がいるのですね」
「……殿下。どうやら、この子には剣術が通用しないようです」
「それは大変ですね。私ではお助けできそうにありませんが、応援しておりますよ」
殿下は声を弾ませながら、そんなことをおっしゃった。私は思わず苦笑してしまう。普段なら、誰かにからかわれることはあまり得意ではない。けれど、殿下の冗談には少しも嫌な気持ちがしなかった。
むしろ、こうして笑い合えることが嬉しかった。
結局、厩務員がリュミエールの気を逸らしてくれたおかげで、私の髪は無事に守られた。私は少し乱れた髪を結び直しながら、白馬へ小さく笑いかける。
「もう。可愛い顔をして、なかなか手強い子ね」
リュミエールは何も知らないような顔で鼻を鳴らした。その仕草がまた可愛らしくて、私は結局、もう一度額を撫でてしまった。
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厩舎の見学を終えたあと、私たちは近くの放牧場へ向かった。
木製の柵に囲まれた広い場所には、柔らかな草が生い茂っている。遠くには小さな林が広がり、秋の風が木々の葉を揺らしていた。私は殿下に周囲の様子を説明しながら、柵に沿ってゆっくりと歩いた。
すると、殿下が懐かしそうな声で話し始められた。
「実は、私も幼いころに何度か馬に乗せてもらったことがあるんです」
「そうなのですか? それは初めて伺いました」
「ええ。まだ小さかったころ、馬の背に乗せてもらったことがありまして。最初は揺れるのが怖かったのですが、慣れてくると、とても楽しかったんです」
殿下はそのときのことを思い出しているのか、少し楽しそうに微笑まれた。私は隣を歩きながら、静かに耳を傾ける。幼い殿下が馬の背に乗り、初めての揺れに驚いている姿を想像すると、自然と頬が緩んでしまった。
「馬に乗っていると、いつもより世界が広くなったような気がしたんです。風が近くなって、地面から伝わる音も少し違って聞こえて……。あの感覚が、とても好きでした」
「わかります。馬の背から感じる風は、歩いているときとは違いますものね」
「そうなんです。けれど、王宮では危険だと反対されることが多くて。離宮へ移ってからも、なかなか機会がありませんでした」
殿下はそうおっしゃったけれど、その声に悲しげな響きはなかった。むしろ、懐かしい思い出を大切にしているような、穏やかな口調だった。
私は少し考え込んだ。確かに、目の見えない方が馬に乗るには、十分な準備と補助が必要になる。けれど、それは決して不可能なことではない。馬の性格や乗る場所を選び、周囲が適切に支えれば、安全に楽しむ方法はあるはずだ。
「……セレナ殿。ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
殿下が少しだけ声を改められた。私は足を止め、殿下へ顔を向ける。
「もちろんでございます。私にできることでしたら、何でもお申しつけください」
「……久しぶりに、馬に乗ってみたいんです」
その言葉に、私は少し驚いてしまった。けれど、殿下はすぐに続けられた。
「もちろん、危険があることはわかっています。ですから、あなたに相談したかったんです。安全に乗れる方法がないか、一緒に考えていただけませんか?」
私は殿下の横顔を見つめながら、静かに考えた。殿下はただ無理な願いをおっしゃっているわけではない。危険を理解したうえで、それでも挑戦してみたいと、自分の意思を伝えてくださっているのだ。
それならば、私がすべきことは最初から否定することではない。どうすれば願いを叶えられるのか、騎士として、そして馬を知る者として考えることだろう。
「……承知いたしました。まずはガレス殿や厩務員の方と相談し、安全に乗れるよう準備いたします」
「本当ですか? ありがとうございます、セレナ殿」
「ただし、いくつか条件がございます。馬の体調や当日の天候を確認し、広い馬場で行うこと。それから、万が一に備えて補助の人員も必要です」
「ええ。もちろんです。あなたの判断に従います」
殿下は嬉しそうに微笑まれた。その声を聞いていると、私まで少し胸が弾んでくる。久しぶりの乗馬を楽しみにしていらっしゃることが、言葉の端々から伝わってきたからだ。
私は改めて厩舎の方へ目を向けた。リュミエールは穏やかな性格で、人を乗せることにも慣れているという。厩務員に詳しく確認する必要はあるけれど、あの子なら殿下を乗せても落ち着いて歩いてくれるかもしれない。
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「それから、殿下。もうひとつ、ご提案がございます」
私は少し考えた末、殿下へ声をかけた。安全に乗馬を楽しんでいただくためには、馬を引く者だけでなく、すぐそばで身体を支えられる者がいた方がよい。特に久しぶりの乗馬であれば、馬上で姿勢を保つことにも不安があるだろう。
「殿下の後ろに私が乗り、手綱を取らせていただければ、より安全にご案内できるかと思います」
「……それは、あなたと同じ馬に乗るということですか?」
「はい。私がすぐ後ろにおりますので、万が一の際もお支えできます。もちろん、馬の体格や状態を確認したうえでの話ですが」
殿下は少し驚いたように黙っていらっしゃった。私は何か問題があっただろうかと考えたけれど、やがて殿下は楽しそうに微笑まれた。
「それは、心強いですね。……今から、とても楽しみです」
「ありがとうございます。では、準備が整いましたら、改めてご報告いたします」
私はそう答えて頭を下げた。護衛としては、ごく自然な提案をしたつもりだった。馬の背は地面よりも不安定であり、殿下の安全を考えれば、経験のある私が同乗するのがよいだろう。
けれど、少ししてから、ふと気づいてしまった。
(……あら? 殿下と同じ馬に乗るということは、かなり近い距離になるのでは……?)
乗馬の際、後ろに座る者は前の人を支えるため、自然と身体が近くなる。手綱を取るなら、殿下の両側から腕を伸ばすことにもなるだろう。もちろん、護衛として必要な行動であり、何もおかしなことではない。
それなのに、なぜだか急に頬が熱くなってきた。
「セレナ殿? どうかなさいましたか?」
「い、いえ! 何でもございません!」
思わず声が大きくなってしまい、私は慌てて口を閉じた。殿下は少し不思議そうに首を傾げていらっしゃる。私は何でもないことを繰り返しながら、そっと視線を逸らした。
どうしてこんなことで動揺しているのだろう。これまで騎士団では、負傷した兵士を馬に乗せて運ぶこともあったし、訓練で誰かと同乗した経験もある。それなのに、殿下と一緒に乗ることを想像しただけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて。
(……私、どうしてしまったのかしら)
私は胸の奥に生まれた小さな戸惑いを抱えたまま、殿下とともに屋敷へ向かった。
隣を歩く殿下は、久しぶりの乗馬を心から楽しみにしていらっしゃるようだった。その穏やかな笑顔を見ていると、私も自然と嬉しくなる。
けれど、時折殿下の横顔へ目を向けるたび、先ほどの想像が頭をよぎってしまうのだった。
どうやら、次の乗馬は私にとっても、少し特別な時間になりそうだった。




