第5話 傷に触れない優しさ
夢の中で、私は再びあの戦場に立っていた。
周囲には黒い煙が立ち込め、遠くから人々の悲鳴が聞こえてくる。剣を握る手は血に濡れ、足元には倒れた兵士たちの姿があった。どれだけ剣を振るっても敵は減らず、守らなければならない人々の声が、次々と耳に飛び込んでくる。
私は必死に走っていた。誰かを助けなければならないという焦りだけが胸を満たし、痛む身体を無理やり動かしていた。そんなとき、背後から聞き慣れた声が響いた。
「セレナ様!」
振り返ろうとした瞬間、視界が赤く染まった。
何が起きたのか確かめようとしても、身体が動かない。伸ばした手は何も掴めず、ただ誰かの名前を叫ぼうとして――。
「……っ!」
私は勢いよく上体を起こした。
薄暗い寝室には、窓から差し込む月明かりだけが広がっている。荒い呼吸を整えながら周囲を見渡し、ようやくここが離宮の自室であることを思い出した。額には冷たい汗が浮かび、寝間着の背中まで湿っている。
(……また、あの夢)
ノエルと剣を交えた日から、すでに数日が経っていた。離宮での生活にも少しずつ慣れ、護衛隊の仕事も順調にこなせている。それなのに、彼が口にした言葉だけが、どうしても頭から離れなかった。
誰かを守れる騎士になりたい。
かつて、あの子も同じことを言っていた。まだ17歳だった従騎士は、いつも私の後ろをついて回り、強くなるために何度も剣を教えてほしいと頼んできた。あの真っ直ぐな眼差しを思い出すたび、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
私は寝台から降りると、窓辺へ歩み寄った。夜の庭園には静かな月明かりが降り注ぎ、木々の影が地面に長く伸びている。数日前、ルシアン殿下と歩いた庭園とは、まるで別の場所のようだった。
窓ガラスに映った自分の顔へ、そっと指を伸ばす。左の頬から顎にかけて残る大きな傷跡は、今ではすっかり塞がっている。それでも、指先でなぞるたび、あの日の痛みが蘇るような気がした。
(……あの日、私がもっと強ければ)
もっと早く敵に気づいていれば。もっと上手く剣を振るえていれば。あの子を危険な場所へ連れていかなければ。
何度考えても、答えは出ない。過去を変えられないことくらい、誰よりもわかっている。それでも、考えることをやめられなかった。
私は傷跡から手を離し、静かに目を閉じた。明日も護衛の仕事がある。こんなところで立ち止まっているわけにはいかないのだから、少しでも身体を休めなければならなかった。
❀ ❀ ❀
翌朝、私はいつもどおり訓練場へ向かった。
まだ朝日が昇りきらない時間帯で、周囲には薄い霧が漂っている。普段なら冷たい空気を吸い込むだけで気持ちが引き締まるのだけれど、今日はどうにも身体が重かった。昨夜はあれからほとんど眠れず、頭の奥に鈍い疲れが残っている。
それでも、剣を握れば自然と身体が動く。私はいつものように素振りを始め、基本の型をひとつずつ確認していった。けれど、何度か剣を振ったところで、思うように身体が動いていないことに気づく。
踏み込みがわずかに遅れ、剣先も普段より安定しない。疲労が動きに出ていることは明らかだった。
「ヴァレンティア殿。今日は少しお疲れのようですが、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは、朝の巡回を終えたガレス殿だった。彼は私の様子を見て、わずかに眉を寄せている。私は剣を下ろし、いつもどおりの表情を作って頭を下げた。
「おはようございます、ガレス殿。少し寝不足なだけですので、問題ありません」
「そうですか。しかし、無理はなさらないでください。護衛は長く続ける仕事ですから、休むことも大切です」
「ありがとうございます。気をつけます」
ガレス殿はそれ以上追及せず、今日の警備について簡単に確認すると、再び巡回へ戻っていった。私はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
王国騎士団にいたころなら、多少の寝不足で訓練を休むことなど考えもしなかった。けれど、ガレス殿の言葉には、私を責めるような響きが少しもない。それが、かえって不思議に思えた。
結局、その日の自主訓練はいつもより早く切り上げることにした。無理をして護衛の仕事に支障を出すわけにはいかない。そう自分に言い聞かせながら、私は屋敷へ戻った。
朝食の席では、リネットがいつもの明るい笑顔で迎えてくれた。けれど、私の顔を見るなり、その表情が少し曇る。
「セレナ様、今日は少しお元気がないような……。もしかして、昨夜はあまり眠れなかったんですか?」
「ええ、少しだけ。でも、心配するほどではないわ」
「それなら、あとでお茶でもご一緒しませんか? マーサさんが新しいお菓子を用意してくださったんです。甘いものを食べると、少し元気が出ますよ!」
リネットはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。私は思わず頬を緩める。彼女の明るさには、こちらまで気持ちが和らぐような不思議な力があった。
「ありがとう、リネット。でも、今日は殿下の護衛があるから、時間が取れるかどうか……」
「それでしたら、無理にとは言いません。でも、もしお時間ができたら、ぜひ声をかけてくださいね!」
そのやり取りを聞いていたマーサが、温かな紅茶を私の前へ置いてくれた。彼女は私の顔色を確かめるように少しだけ目を細め、それから穏やかな声で話しかけてくる。
「セレナ様。お仕事に熱心なのは結構ですが、ご自身の身体も大切になさってくださいませ。ここでは、少し休んだからといって誰も責めたりいたしませんよ」
「……ありがとうございます、マーサさん。気をつけます」
私は小さく頭を下げ、紅茶を口に運んだ。温かな香りが鼻をくすぐり、少しだけ身体の緊張がほぐれていく。こうして誰かに心配してもらえることが、今の私にはまだ少し不思議だった。
❀ ❀ ❀
午後、私はルシアン殿下の執務室で護衛を務めていた。
殿下は窓際の椅子に腰を下ろし、侍従が読み上げる書物に静かに耳を傾けていらっしゃる。今日は王国の歴史に関する本を読んでいるらしく、時折内容について質問をされながら、熱心に聞き入っておられた。
私は扉の近くに立ち、周囲の気配へ注意を向けていた。けれど、昨夜の夢が頭から離れず、気づけば意識が過去へ向かってしまう。あの戦場の光景が、何度も胸の奥に浮かんでは消えていった。
しばらくして、侍従が書物を閉じた。殿下は礼を述べ、午後の読書を終えることにされた。侍従が退出すると、部屋には私と殿下の2人だけが残される。
「セレナ殿。今日は、少しお疲れのようですね」
突然声をかけられ、私は思わず背筋を伸ばした。殿下は椅子に座ったまま、穏やかな表情でこちらへ顔を向けていらっしゃる。私は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません、殿下。護衛中だというのに、気が緩んでいたようです」
「謝る必要はありませんよ。ただ、いつもよりお返事が少し静かだったので、気になったんです」
「……少し寝不足なだけでございます。仕事に支障はございませんので、どうかご安心ください」
そう答えると、殿下はしばらく黙っていらっしゃった。私は何か尋ねられるのだろうかと思い、無意識に身構えてしまう。
これまで、顔の傷についても、戦場での出来事についても、何度となく質問を受けてきた。英雄と称える者もいれば、好奇心から痛ましい話を聞きたがる者もいた。だからこそ、私は自分の過去について話すことが、あまり得意ではなかった。
「お話しになりたくないこともあるでしょう。ですから、無理に聞くつもりはありません」
殿下はそうおっしゃって、静かに微笑まれた。私は思わず顔を上げる。何も尋ねられなかったことに、少し驚いてしまったからだ。
「……よろしいのですか?」
「もちろんです。誰にだって、話したくないことはあるものですから。あなたがいつか話したいと思われたときに、聞かせていただければ十分ですよ」
その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んでいった。殿下は私の事情を知らない。それでも、無理に踏み込まず、私自身の気持ちを尊重してくださっている。
私は何か言おうとしたけれど、上手く言葉が見つからなかった。そんな私の様子を察したのか、殿下は少しだけ声を明るくされた。
「そうだ。ちょうどお茶が飲みたいと思っていたんです。セレナ殿も、少し休憩しませんか?」
❀ ❀ ❀
ほどなくして、マーサが紅茶と焼き菓子を運んできてくれた。
執務室の小さな丸テーブルには、温かな紅茶が入ったカップと、可愛らしい花の形をした焼き菓子が並べられている。私は護衛中だからと遠慮したのだけれど、殿下は楽しそうに笑って、向かいの席を勧めてくださった。
「では、私の護衛として、隣でお茶を飲んでいてください。何かあれば、すぐに動いていただければ大丈夫ですから」
「……殿下は、随分と上手に私を休ませようとなさいますね」
「ふふ。そうでしょうか? 私はただ、あなたとお茶を飲みたいだけなのですが」
そう言われてしまうと、これ以上断る理由が見つからなかった。私は苦笑しながら椅子に腰を下ろし、温かな紅茶を口に運ぶ。優しい香りが広がり、身体の奥に残っていた疲れが少しずつ和らいでいくようだった。
殿下は焼き菓子をひとつ手に取り、その形を指先で確かめていらっしゃった。マーサが花の形だと説明すると、嬉しそうに微笑まれる。
「花の形ですか。それは素敵ですね。そういえば、セレナ殿。庭園の月鈴草は、まだ咲いていますか?」
「はい。昨日も少し見てまいりましたが、綺麗に咲いておりました。殿下に教えていただいてから、あの花を見つけるのが楽しみになったんです」
「それは嬉しいですね。私も、あの香りが大好きなんです。秋になると、庭園を歩くのがますます楽しみになります」
殿下は楽しそうに話してくださった。私も自然と庭園の様子を思い出し、最近覚えた花の名前について話してみる。殿下はひとつひとつ丁寧に耳を傾け、ときには私の知らない花の特徴まで教えてくださった。
そんな何気ない会話を続けているうちに、いつの間にか胸の奥にあった重たいものが少しずつ薄れていった。過去のことを忘れたわけではない。ただ、今この時間だけは、あの戦場から離れていられるような気がした。
やがて会話が途切れ、部屋に静かな時間が流れた。窓の外からは小鳥の声が聞こえ、温かな紅茶の香りが漂っている。私はカップを両手で包みながら、その穏やかな空気に身を委ねていた。
(……不思議。この方といると、何も話していなくても落ち着く)
王国騎士団にいたころ、誰かと2人きりで過ごす時間は、どこか緊張するものだった。上官としての振る舞いを求められ、常に気を張っていなければならなかったからだ。けれど、殿下の前では、無理に話題を探す必要も、強い騎士を演じる必要もない。
ただ、そこにいるだけでよいのだと思える。
そんな時間を過ごせることが、今の私には何よりありがたかった。
❀ ❀ ❀
「セレナ殿。あなたは、いつも誰かのために頑張っていらっしゃいますね」
しばらくして、殿下が静かに口を開かれた。私は少し驚きながら、手にしていたカップをテーブルへ戻す。
「……騎士として、当然のことでございます。誰かを守るために剣を握っておりますので」
「ええ。あなたがそういう方だということは、よく存じております。ですが、あなた自身が休むことも、大切にしていただきたいんです」
殿下は穏やかな声で、そうおっしゃった。私は返事に詰まってしまう。誰かを守ることばかり考えてきた私にとって、自分自身を大切にするという考えは、どこか遠いものだったからだ。
騎士として強くあること。どんな状況でも冷静でいること。誰かが助けを求めていれば、迷わず剣を取ること。それが私の役目であり、そうしなければならないのだと思っていた。
「ここでは、あなたが少し疲れていても、誰も責めたりしませんよ。ガレスもマーサも、リネットも、きっと同じことを言うでしょう」
「……皆さん、本当にお優しいのですね」
「優しいのは、あなたも同じですよ。だからこそ、少しはご自身にも優しくしてあげてください」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。私はこれまで、自分に厳しくあることが正しいのだと思っていた。少しでも気を緩めれば、また誰かを失ってしまうのではないか。そんな恐れが、いつも心のどこかにあった。
けれど、殿下は私に休んでもよいとおっしゃる。弱さを見せても、疲れを感じても、それで価値がなくなるわけではないのだと、静かに伝えてくださっているようだった。
(……私は、少し疲れていたのかもしれない)
そう認めた瞬間、胸の奥にあった緊張が、ふっと緩んだような気がした。今までなら、疲れていることを認めるだけでも、どこか負けたような気持ちになっていただろう。けれど、今は不思議とそんなふうには思わなかった。
私は小さく息を吐き、殿下へ顔を向けた。
「……ありがとうございます、殿下。少しだけ、気持ちが楽になりました」
「それなら、よかったです。あなたには、これからも元気でいていただきたいですから」
殿下は嬉しそうに微笑まれた。私はその表情を見つめながら、胸の奥に温かなものが広がっていくのを感じていた。
❀ ❀ ❀
お茶の時間が終わるころには、窓の外の日差しが少し傾き始めていた。
私は空になったカップを片づけようと立ち上がり、殿下へ礼を述べる。すると、殿下は何かを思い出したように顔を上げられた。
「そういえば、セレナ殿。あなたは馬がお好きですか?」
「馬、でございますか? はい。幼いころから乗馬を習っておりましたし、騎士団でも愛馬の世話をするのが好きでした」
「それは素敵ですね。実は、私も馬が好きなんです。最近はなかなか会いに行けていないのですが、離宮の厩舎にも何頭かいるんですよ」
殿下は懐かしそうに微笑まれた。私はその言葉を聞いて、少し嬉しくなった。馬の世話は、私にとって剣術以外に心から楽しめる数少ない時間だったからだ。
騎士団にいたころも、訓練を終えたあとに厩舎へ立ち寄り、愛馬の毛並みを整えたり、餌を与えたりするのが好きだった。馬は言葉を話さないけれど、こちらの気持ちを不思議と感じ取ってくれる。疲れているときほど、その温かな体温に救われたものだった。
「それでしたら、よろしければ明日、一緒に厩舎へ行きませんか? 私も離宮の馬たちに会ってみたいと思っていたところなんです」
「本当ですか? それは嬉しいですね。では、明日はあなたに案内していただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます。馬のことでしたら、少しはお役に立てると思いますので」
そう答えると、殿下は嬉しそうに笑われた。私はその声を聞きながら、自然と頬が緩むのを感じた。明日はどんな馬たちに会えるのだろう。殿下はどんなふうに馬と触れ合われるのだろう。そんなことを考えているだけで、少し胸が弾んでくる。
執務室を出たあと、私は廊下の窓から庭園を眺めた。月鈴草の咲く花壇には柔らかな日差しが降り注ぎ、白い花々が風に揺れている。今朝まで胸の奥にあった重たいものは、まだ完全には消えていない。それでも、少しだけ呼吸がしやすくなったような気がした。
(……明日が、楽しみだわ)
そんなふうに思えた自分に、私は少し驚いてしまった。
これまでの私は、毎日を無事に終えることばかり考えていた。誰かを守り、与えられた役目を果たし、失敗しないように気を張って生きてきた。けれど、この離宮へ来てからは、少しずつ違う気持ちが芽生え始めている。
明日は何をしよう。どんな景色を見よう。誰と、どんな話をしよう。
そんな何気ないことを楽しみにできる自分が、今は少しだけ嬉しかった。
私は窓の外に広がる穏やかな景色を眺めながら、静かに微笑んだ。
過去の後悔が消えることは、きっとない。それでも、この離宮には、何も話さずともそばにいてくれる人がいる。
その温かな優しさに、私は少しずつ救われ始めていた。




