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第3話 見えない景色

 離宮の庭園へ足を踏み入れると、柔らかな秋の風が頬を撫でた。


 午後の日差しを浴びた庭園には、赤や白の薔薇が咲き誇っていた。丁寧に刈り込まれた生垣の向こうには小さな噴水があり、澄んだ水音が静かな空気に溶け込んでいる。王宮の庭園ほど広くはないものの、隅々まで手入れの行き届いた美しい場所だった。

 私は隣を歩くルシアン殿下に腕を貸しながら、周囲へ注意を向けていた。庭園の出入口や生垣の陰、木々の間に人が潜んでいないかを確認するのは、護衛として当然の務めだ。もっとも、ここは警備の整った離宮の敷地内であり、今のところ不審な気配は感じられなかった。


「セレナ殿。そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ。ここは私が何度も歩いている庭園ですから」

「……お気づきでしたか。申し訳ございません、殿下。どうしても周囲を警戒する癖が抜けなくて」

「謝ることではありませんよ。それだけ真剣に私を守ろうとしてくださっているのでしょう? ただ、せっかくのお散歩ですから、あなたにも楽しんでいただきたいんです」


 殿下は穏やかに微笑まれた。目が見えないはずなのに、どうして私が緊張しているとわかったのだろう。そう不思議に思っていると、殿下は私の考えを察したように、小さく笑っておっしゃった。


「あなたの足音が、少し硬く聞こえたものですから。先ほどから何度も立ち止まっていらっしゃいますし、周囲を確認されているのだろうと思いました」

「なるほど……。ですが、護衛としての務めですので、警戒を解くわけにはまいりません」

「では、私が転びそうになったときだけ助けてください。それ以外の時間は、少しだけ肩の力を抜いていただけると嬉しいです」


 冗談めかした口調に、私は思わず笑ってしまった。もちろん、護衛として周囲への注意を怠るつもりはない。けれど、殿下の言葉には、私まで散歩を楽しんでよいのだと思わせてくれる不思議な温かさがあった。

 私は歩幅を少し緩め、改めて庭園を見渡した。赤く色づき始めた木々の間を小鳥が飛び交い、石畳の道には木漏れ日が落ちている。これほど美しい場所だというのに、先ほどまで私は警備上の問題ばかりを探していたらしい。


(……確かに、少しくらい景色を楽しんでもいいのかもしれないわね)


 そう考えていると、殿下が私の腕に添えた手をわずかに動かされた。何かを探すように顔を上げ、風に乗って流れてくる香りを確かめていらっしゃる。


「今日は薔薇の香りが強いですね。今は、どんな花が咲いているのでしょうか?」

「薔薇でございますか? ええと……赤い薔薇と、白い薔薇が咲いております。どちらも、とても綺麗です」

「ふふ。ありがとうございます。セレナ殿は、花についてあまり詳しくないのですね」


 図星を突かれて、私は思わず口を閉じた。騎士団にいたころは、花の種類を覚えるよりも剣の手入れをする方が大切だったし、そもそも庭園をゆっくり眺める機会もほとんどなかった。伯爵令嬢として花の名前くらい覚えておくべきだったのかもしれないけれど、今さら後悔しても仕方がない。


「……お恥ずかしい限りです。剣術のことでしたら多少はお答えできるのですが、花についてはあまり知識がございません」

「恥ずかしがる必要はありませんよ。私だって、知らないことはたくさんありますから」

「ですが、殿下に景色をお伝えするお約束をしたのに、これでは……」

「では、これから一緒に覚えていきましょう。私は香りを、あなたは姿を教えてください」


 殿下は何でもないことのように、そうおっしゃった。私は思わずその横顔を見つめ、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。知らないことを責めるのでも、無理に褒めるのでもなく、一緒に覚えようと誘ってくださる。その言葉が、どうしてか心に残った。


(……一緒に、覚えていく)


 これまでの私は、誰かに剣を教えることはあっても、誰かと並んで新しいことを学ぶ機会は少なかった。騎士団では常に強くあることを求められ、部下たちの前で弱音を吐くこともできなかったからだ。けれど、この方の前では、知らないことを知らないと言ってもよいのかもしれない。

 私はもう一度薔薇へ目を向け、今度は少し丁寧にその姿を観察した。赤い薔薇は幾重にも花びらを重ね、白い薔薇は柔らかな日差しを受けて淡く輝いている。普段なら気にも留めなかった細かな違いが、少しずつ目に入ってきた。


「赤い薔薇は、花びらが何枚も重なっていて、とても華やかです。白い薔薇は、それよりも少し小ぶりで……日差しを浴びると、まるで薄い絹のように見えます」

「薄い絹、ですか。それは素敵ですね。きっと、柔らかな花なのでしょう」

「はい。触れれば壊れてしまいそうなほど繊細です。……あまり上手な説明ではありませんが」

「いいえ。あなたが一生懸命伝えようとしてくださっていることが、何より嬉しいです」


 その言葉に、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。剣の腕を褒められることには慣れているけれど、こんなふうに自分の言葉を喜んでもらえる経験は、ほとんどなかった。私は照れくささをごまかすように前を向き、殿下の歩幅に合わせて石畳を進んだ。


❀ ❀ ❀


 庭園の奥へ進むと、薔薇の香りに混じって、どこか甘く優しい香りが漂ってきた。私は周囲を見渡したけれど、すぐにはその正体がわからない。すると殿下が足を止め、少しだけ顔を上げられた。


「……この辺りには、白い花が咲いていませんか?」

「白い花、でございますか? 少々お待ちください」


 私は近くの花壇へ目を向けた。色とりどりの草花に混じって、小さな白い花がいくつも咲いている。釣鐘のような形をした花が細い茎から下がり、風が吹くたびに静かに揺れていた。


「はい。小さな白い花が咲いております。鈴のような形をしていて、とても可愛らしい花です」

「それなら、きっと月鈴草ですね。秋になると、この辺りにたくさん咲くんです」

「月鈴草……。初めて聞く名前です」

「私が幼いころから、この庭園に咲いている花なんですよ。風が吹くと、ほんの少し甘い香りがするんです」


 殿下に言われて、私は改めて風の匂いを確かめた。確かに、薔薇とは違う、柔らかく甘い香りが漂っている。先ほどまでは気づかなかったその香りが、一度意識すると不思議なほどはっきり感じられた。


「……本当ですね。とても優しい香りがします」

「でしょう? 私はこの花が好きなんです。秋が来たことを教えてくれるので」


 殿下は嬉しそうに微笑まれた。私はその横顔を見つめながら、少し不思議な気持ちになっていた。目の前に咲いている花を見ていたのは私の方なのに、その花の存在を教えてくれたのは殿下だったからだ。

 さらに耳を澄ませば、噴水の水音や木々のざわめき、小鳥のさえずりが聞こえてくる。これまでも同じ音は聞こえていたはずなのに、私はそれらを庭園の景色として意識したことがなかった。


「私には花の色も、空の青さもわかりません。けれど、ここには私の好きなものがたくさんあるんです」


 殿下はそうおっしゃって、静かに顔を上げられた。淡い青色の瞳は、私が見ている景色を映してはいない。それでも、その表情はとても穏やかで、心からこの場所を愛していらっしゃることが伝わってきた。

 私はこれまで、目が見えないということは、世界の美しさを知ることができないのだと思っていた。けれど、それは私の勝手な思い込みだったのかもしれない。殿下は殿下なりの方法で、この庭園を楽しんでいらっしゃるのだ。


(……私の方こそ、知らないことばかりだったのね)


 私はそっと月鈴草へ目を向けた。小さな白い花は風に揺れ、今にも音を立てそうなほど軽やかに動いている。殿下に教えていただかなければ、きっと私はこの花の存在に気づかないまま通り過ぎていただろう。

 そのことが、少しだけ嬉しかった。


❀ ❀ ❀


 しばらく歩いたところで、私たちは庭園の中央にあるベンチへ腰を下ろした。近くには大きな木があり、枝葉の隙間から柔らかな日差しが降り注いでいる。私は殿下の隣に座りながら、周囲の様子を確認した。

 護衛としての習慣は相変わらず抜けないけれど、先ほどよりも気持ちはずっと落ち着いていた。殿下もそれに気づかれたのか、どこか満足そうに微笑んでいらっしゃる。


「セレナ殿。少しお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「はい。何でしょうか、殿下」

「あなたは、どうして剣を始められたのですか?」


 思いがけない質問に、私は少し考え込んだ。剣を握る理由なら、これまで何度も尋ねられてきた。王国を守るため、民を守るため、騎士としての責務を果たすため。そうした答えなら、いくらでも用意できる。

 けれど、殿下が尋ねていらっしゃるのは、もっと昔のことなのだろう。私がまだ騎士になる前、初めて木剣を握ったころの話だった。


「……幼いころ、父に連れられて騎士団の訓練を見学したことがあるんです。そのとき、騎士たちが剣を振るう姿を見て、とても格好いいと思いました」

「それが、きっかけだったのですね」

「はい。最初は父も遊びのつもりだったようですが、私があまりに熱心に練習するものですから、とうとう正式に剣術を習わせてくれました」


 思い返せば、あのころは毎日が楽しかった。木剣を握るだけで胸が躍り、新しい技を覚えるたびに嬉しくて仕方がなかった。男の子たちに負けるのが悔しくて、日が暮れるまで何度も素振りを繰り返したこともある。

 父はそんな私を見て苦笑しながらも、いつも応援してくれていた。母は怪我をするたびに心配していたけれど、剣術をやめなさいとは一度も言わなかった。あのころの私は、ただ強くなることが楽しかったのだ。


「……そういえば、あのころは剣を振るうだけで楽しかったのですね」


 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。殿下はしばらく黙って私の話を聞いていらっしゃったけれど、やがて穏やかな声でおっしゃった。


「セレナ殿は、剣がお好きなのですね」


 私は思わず顔を上げた。あまりにも単純な言葉だったけれど、胸の奥に何かが触れたような気がした。剣が好きだなんて、もう何年も考えたことがなかったからだ。

 いつからだろう。剣を握ることが、誰かを守る責任と結びつくようになったのは。強くなければならない、誰も失ってはならない、そんな思いばかりが先に立ち、純粋に剣を楽しんでいたころの気持ちを忘れてしまっていた。


(……そうね。私は、剣が好きだったんだわ)


 胸の奥に、懐かしい温もりが広がっていく。あの日の出来事を忘れたわけではないし、失った命への後悔が消えることもない。それでも、剣を好きだった自分まで否定する必要はないのかもしれない。

 私はそっと膝の上で手を握り、殿下へ顔を向けた。


「はい。……私は、剣が好きです。きっと、今でも」

「それはよかった。いつか、あなたが剣を振るう音を聞いてみたいですね」

「私の剣を、でございますか?」

「ええ。きっと、とても力強くて美しい音がするのでしょうね」


 殿下は楽しそうに微笑まれた。私はその言葉に、少しだけ胸が弾むのを感じた。これまで剣を振るう姿を見せることはあっても、音を聞いてみたいと言われたことはなかったからだ。

 けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、殿下に自分の剣を知っていただけることが、少し楽しみに思えた。


❀ ❀ ❀


 休憩を終えた私たちは、庭園の奥にある小さな東屋へ向かうことにした。石畳の道は途中から緩やかな曲線を描き、両側には背の低い草花が植えられている。私は殿下の歩幅に合わせながら、足元に危険なものがないか注意していた。

 途中、地面に落ちていた細い枝に殿下の杖が触れた。私はすぐにその存在を伝え、少し右側へ進めば避けられることを説明する。殿下は頷くと、私の案内に従ってゆっくりと歩みを進められた。


「ありがとうございます、セレナ殿。あなたは説明がお上手ですね」

「いえ、そのようなことは……。騎士として、周囲の状況を伝えることには慣れておりますので」

「必要なことを、必要なときに伝えてくださる。私にとっては、とてもありがたいことなんですよ」


 殿下の言葉に、私は少し照れくさくなってしまった。剣術の腕を褒められることには慣れているけれど、こんな何気ない行動を喜んでいただけるとは思っていなかったからだ。私は小さく礼を述べながら、殿下の歩調に合わせて歩き続けた。


「セレナ殿。これからも、私にいろいろな景色を教えていただけませんか?」

「もちろんでございます。私でよろしければ、いつでもお供いたします」

「ありがとうございます。あなたと歩くと、いつもの庭園が少し違って感じられるんです」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。私はこれまで、剣の腕を必要とされることはあっても、それ以外の自分を求められることはほとんどなかった。けれど、殿下は私の言葉や、何気ない気遣いを喜んでくださっている。

 それが、どうしようもなく嬉しかった。


(……私にも、剣以外にできることがあるのね)


 私はそっと殿下の横顔を見つめた。銀色の髪が風に揺れ、淡い青色の瞳が穏やかに前を向いている。その姿を見ていると、これまで自分がどれほど狭い世界で生きてきたのか、少しずつわかってくるような気がした。


❀ ❀ ❀


 庭園を一周するころには、空が少しずつ夕暮れの色に染まり始めていた。西の空には淡い橙色が広がり、木々の影が石畳の上に長く伸びている。私は殿下にその様子を伝えながら、ゆっくりと屋敷へ向かった。

 殿下は時折足を止め、風の音や花の香りを楽しんでいらっしゃった。私もそのたびに周囲へ目を向け、今まで気づかなかった小さな美しさを見つけることができた。たった数時間の散歩だったけれど、こんなにも穏やかな時間を過ごしたのは久しぶりだった。


「セレナ殿。今日はありがとうございました。あなたのおかげで、とても楽しい時間を過ごせました」

「こちらこそ、ありがとうございました。私も……とても楽しかったです」


 そう答えると、殿下は嬉しそうに微笑まれた。私はその表情を見て、胸の奥が少しだけくすぐったくなるのを感じた。誰かと過ごす時間を楽しいと思うこと自体、随分と久しぶりだったのかもしれない。


「そういえば、明日は護衛隊の訓練があると聞きました。セレナ殿も参加されるのですか?」

「はい。ガレス殿からお誘いをいただいておりますので、参加する予定です」

「それは楽しみですね。よろしければ、私も見学させていただいてよいでしょうか?」


 私は少し驚いてしまった。目の見えない殿下が剣術の訓練を見学しても、楽しめるものなのだろうか。そんな疑問が顔に出てしまったのか、殿下は小さく笑っておっしゃった。


「剣がぶつかる音や、皆さんの声を聞くだけでも楽しいものですよ。それに、あなたがどんなふうに剣を振るうのか、ぜひ知りたいんです」

「……私の剣でよろしければ、喜んでお見せいたします」

「ありがとうございます。明日が楽しみですね」


 殿下はそうおっしゃって、柔らかく微笑まれた。私はその横顔を見つめながら、胸の奥に小さな期待が芽生えるのを感じていた。これまで戦場で振るってきた剣を、誰かに見せたいと思ったことはほとんどなかったのに、なぜだか今は、殿下に自分の剣を知っていただきたいと思っている。


(……殿下に、私の剣を知っていただけるのね)


 私はそっと微笑み、殿下の歩幅に合わせて屋敷へと向かった。夕暮れの風が庭園を通り抜け、月鈴草の甘い香りを運んでくる。今日初めて知ったその香りは、きっとこれからも私の記憶に残るのだろう。

 目の見えない王子と過ごした、初めての庭園散歩。

 それは、私がこれまで知らなかった景色を見つける、小さな始まりだった。


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