第2話 王子の住む離宮
離宮で迎える初めての朝は、驚くほど静かだった。
窓の外が白み始めたころ、私はいつもの習慣で目を覚ました。王国騎士団に所属していたころは、日の出前に起床して鍛錬を始めるのが日課だったため、環境が変わったからといって簡単に身体が慣れてくれるわけではない。昨夜は慣れない寝台で眠れるか少し心配していたけれど、思いのほかぐっすり眠れたようだった。
与えられた部屋は、王族の離宮にふさわしい上品な造りをしていた。大きな窓からは庭園の木々が見え、寝台の脇には小さな花瓶が置かれている。騎士団の宿舎とは比べものにならないほど居心地のよい部屋だったけれど、私には少々贅沢すぎるようにも感じられた。
(……こんなに静かな朝は、いつ以来かしら)
私は寝台から起き上がると、手早く身支度を整えた。深紅の髪をいつものように高い位置で結び、動きやすい訓練着に着替える。鏡の前で剣帯を締め直したところで、左頬から顎にかけて伸びる傷跡が目に入ったけれど、今朝はそれほど気にならなかった。
部屋を出て廊下を歩いても、まだ使用人たちの姿はほとんど見当たらない。私は昨日ガレスから教えてもらった道順を思い出しながら、屋敷の裏手にある小さな訓練場へ向かった。離宮の護衛隊が使用しているというその場所は、騎士団本部の訓練場ほど広くはないものの、日々の鍛錬には十分な設備が整っていた。
「……さて、始めましょうか」
私は鞘から剣を抜き、ゆっくりと構えを取った。朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、足元の土を確かめるように踏み込む。身体を温めるための基本動作から始め、少しずつ速度を上げていくと、自然と余計な考えが頭から消えていった。
剣を振るっている間だけは、過去のことも、顔の傷のことも考えずに済む。目の前の動きに集中し、次の一撃をどう繰り出すかだけを考える時間は、私にとって何よりも落ち着くものだった。だからこそ、戦場から離れた今でも、この習慣だけは手放すつもりがなかった。
「まあ、セレナ様。こんなに朝早くから鍛錬をなさっていたのですか?」
声のした方を振り返ると、侍女長のマーサが訓練場の入口に立っていた。まだ朝食の時間にもなっていないというのに、すでに身支度を整え、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。私は剣を鞘に収めると、軽く頭を下げた。
「おはようございます、マーサさん。長年の習慣ですので、どうにも身体が勝手に動いてしまいまして」
「おはようございます。ですが、こちらではそれほど無理をなさらなくてもよろしいのですよ。殿下も、セレナ様にはまず離宮での暮らしに慣れていただきたいとおっしゃっていました」
「お気遣いありがとうございます。ただ、剣を振るっている方が落ち着くものですから」
そう答えると、マーサは少しだけ困ったように微笑んだ。私が汗を拭うために取り出した布を見て、朝食の前に湯を用意させましょうかと尋ねてくれる。その細やかな気遣いに、私は思わず恐縮してしまった。
「セレナ様。剣を握っていないときくらい、普通の24歳の女性でいらしてもよろしいのですよ」
「……普通の、女性ですか?」
「ええ。美味しいものを召し上がって、綺麗な花を眺めて、時にはゆっくりお休みになる。それも大切なことでしょう?」
私は返事に迷ってしまった。騎士としてどう振る舞うべきかなら、いくらでも答えられる。けれど、普通の24歳の女性として何を楽しめばいいのかと聞かれると、すぐには思いつかなかった。
(……そういえば、最後に何も考えず休んだのはいつだったかしら)
マーサはそんな私の様子を察したのか、それ以上は何も言わず、朝食の準備ができたら知らせると告げて屋敷へ戻っていった。私はその背中を見送りながら、もう一度庭園の方へ目を向ける。朝日を浴びた木々は穏やかに揺れ、どこからか小鳥のさえずりが聞こえていた。
戦場でも騎士団でもない、新しい場所。
ここでの暮らしは、私が思っていたものとは少し違うのかもしれなかった。
❀ ❀ ❀
朝食のために案内された食堂では、見慣れない若い侍女が待っていた。蜂蜜色の髪を三つ編みにし、明るい緑色の瞳をした少女で、私の姿を見るなり嬉しそうに顔を輝かせる。年齢はまだ20歳にもなっていないだろう。
「初めまして、セレナ様! 私、リネット・フォードと申します。本日からセレナ様のお世話を担当させていただくことになりました!」
「セレナ・ヴァレンティアです。よろしくお願いします、リネットさん」
「はい! あの、実は私、セレナ様にお会いできるのをずっと楽しみにしていたんです!」
リネットはそう言うと、興奮を隠しきれない様子で身を乗り出した。どうやら私が騎士団にいたころの話を、ガレスからいろいろと聞いていたらしい。目を輝かせながら次々と質問をしてくる姿に、私は少し圧倒されてしまった。
「セレナ様って、本当に騎士様を3人まとめて倒してしまうんですか? 昨日ガレス様から聞いたんですけど、王国最強の女騎士様なんですよね!」
「ええと……3人くらいでしたら、訓練でも相手をすることはありますけれど」
「すごいです! 私なんて、重たい荷物を運ぶだけでも大変なのに! あっ、そうだ。セレナ様の髪って、とっても綺麗ですね!」
突然話題が変わり、私は思わず瞬きをした。リネットは私の背後へ回ると、高く結んだ深紅の髪を興味深そうに見つめている。触れてもよいかと尋ねられたので頷くと、彼女は毛先をそっと持ち上げ、感嘆の声を漏らした。
「こんなに綺麗な赤い髪、初めて見ました! 今度、私に結わせてもらえませんか? きっと編み込みにしてもお似合いになると思うんです!」
「私の髪を、ですか? ですが、いつも邪魔にならないよう結んでいるだけですし……」
「だからこそです! せっかくこんなに綺麗なんですから、たまには違う髪型も楽しみましょうよ!」
あまりにも嬉しそうに話すものだから、私は断る理由を見つけられなかった。剣を振るう際に邪魔にならなければ構わないと伝えると、リネットは両手を合わせて喜んでくれる。その無邪気な反応を見ているうちに、私まで少し楽しくなってきた。
(……私の髪を、綺麗だなんて)
以前は社交界で容姿を褒められることもあったけれど、顔に傷を負ってからは、そうした言葉を聞く機会もほとんどなくなっていた。今では誰もが傷を見て気まずそうに視線を逸らすか、同情の言葉を口にする。だからこそ、リネットが何のためらいもなく褒めてくれたことが、思いのほか嬉しかった。
「ありがとうございます、リネットさん。では、今度お願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです! あっ、それと、私のことはリネットと呼んでくださいね。ここではみんな、そう呼んでくれるんです!」
私は小さく微笑み、改めて彼女の名前を呼んだ。リネットはそれだけで嬉しそうに頷くと、朝食の準備を始めてくれる。食卓には焼きたてのパンや温かなスープ、彩りのよい野菜料理が並び、どれも食欲をそそる香りを漂わせていた。
騎士団では食事を短時間で済ませることが多かったため、こうして落ち着いて朝食を取ることにも、まだ少し慣れない。けれど、リネットが楽しそうに料理の説明をしてくれるおかげで、いつもよりゆっくり味わうことができた。
❀ ❀ ❀
朝食を終えた私は、ガレスとともに離宮の警備体制を確認することになった。屋敷の周囲には高い塀が巡らされ、正門のほかにも使用人用の通用門が設けられている。敷地の裏手には庭園や厩舎があり、その先には小さな森が広がっていた。
ガレスは巡回経路や護衛隊の配置について、ひとつずつ丁寧に説明してくれた。王都の騎士団本部ほど人数は多くないものの、護衛にあたる騎士たちはよく訓練されているようだ。すれ違う者たちも姿勢を正して挨拶してくれるので、私はそのたびに軽く礼を返した。
「現在、離宮の護衛隊は私を含めて12名です。昼夜交代で警備にあたり、殿下が外出される際には必ず護衛を同行させています」
「なるほど。庭園の奥にある森へ続く道は、普段から使用されているのでしょうか?」
「いえ、あちらは管理人が時折通る程度です。何か気になることでも?」
「森側の塀は、ほかと比べて少し低いように見えました。念のため、巡回の際に確認していただけると安心かもしれません」
私の言葉に、ガレスは真剣な表情で頷いた。すぐに手帳を取り出し、巡回経路の見直しを検討すると約束してくれる。こちらの意見を素直に受け止めてくれる姿勢に、私は彼が護衛隊長として信頼されている理由を理解した気がした。
「ヴァレンティア殿は、もっと厳しい方だと思っていました」
「厳しい、ですか?」
「ええ。王国最強と呼ばれる方ですから、我々のような小さな護衛隊では物足りないのではないかと。しかし、こうして現場の話を丁寧に聞いていただけるとは思いませんでした」
「私も騎士団で多くの部下を預かってきましたから。現場の意見を聞かずに命令を出しても、よい結果にはつながりません。それに、ここでの経験はガレス殿の方がずっと豊富でしょう?」
そう答えると、ガレスは少し驚いたように目を見開き、それから穏やかに笑った。どうやら、私に対して抱いていた印象が変わったらしい。私としては当然のことを話したつもりだったけれど、こうして仕事仲間として認めてもらえるのは嬉しいものだった。
「それにしても、殿下は普段からあまり護衛を必要とされないのでしょうか?」
「そうですね。殿下はご自身でできることは、なるべくご自身でなさろうとします。慣れた場所であれば、杖を使ってお1人で歩かれることもありますよ」
「……お1人で、ですか?」
「ええ。もちろん危険がないよう配慮はしておりますが、殿下は必要以上に手を貸されることを好まれません。ご自身のことは、ご自身で決めたいとお考えなのです」
私は昨日お会いしたルシアン殿下の姿を思い出した。穏やかな笑みを浮かべ、私の手を握ってくださった青年。目が見えないという不自由を抱えながらも、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていらっしゃった。
(……思っていた以上に、芯の強い方なのかもしれないわね)
ガレスの話を聞いているうちに、私は殿下についてもっと知りたいと思うようになっていた。護衛としてお仕えする以上、日頃の行動やお考えを理解しておくことは大切だ。けれど、それだけではない、もう少し個人的な興味も芽生え始めているような気がした。
❀ ❀ ❀
午前中の警備確認を終えた私は、ルシアン殿下の執務室へ向かった。マーサに案内されて扉を開けると、室内では殿下が侍従から何やら報告を受けていらっしゃった。机の上には何枚もの書類が並べられ、窓辺には昨日と同じように柔らかな日差しが差し込んでいる。
「北側の村の収穫量についてですが、今月は先月よりも増加しているとの報告が届いております」
「そうですか。ですが、先月の報告では、あの村は長雨の影響で作物の生育が遅れていると聞きました。今回の数字が増えているのは、何か理由があるのでしょうか?」
殿下の問いかけに、侍従は慌てて書類を確認し始めた。しばらく紙をめくる音が続いたあと、どうやら集計の際に別の村の数字が混ざっていたことがわかったらしい。侍従が恐縮して謝罪すると、殿下は責めることなく、次から気をつけてくれればよいと穏やかに答えられた。
「間違いは誰にでもあります。ただ、村の人々の暮らしに関わることですから、数字は正確に把握しておきたいのです。修正した報告を、また聞かせてください」
「かしこまりました、殿下。すぐに確認してまいります」
侍従が退出すると、殿下は私の方へ顔を向けられた。足音で気づかれたのだろうか。私はまだ挨拶もしていなかったというのに、殿下はすでにこちらの存在を把握していらっしゃるようだった。
「セレナ殿ですね。おはようございます。離宮での初めての夜は、よく眠れましたか?」
「おはようございます、殿下。はい、おかげさまでゆっくり休ませていただきました」
「それはよかった。マーサが用意した部屋なら、きっと快適だろうと思っていました。何か不便なことがあれば、遠慮なく伝えてくださいね」
私は礼を述べながら、先ほどのやり取りについて尋ねてもよいものか迷っていた。殿下はそんな私の様子を察したのか、少しだけ首を傾げて微笑まれる。
「何か気になることでもありましたか?」
「……失礼ながら、先ほどの報告について少し驚いておりました。先月の数字まで正確に覚えていらっしゃるのですね」
「数字を覚えるのは、昔から得意なんです。私は書類を直接読むことができませんから、こうして耳で聞いたことを覚えるようにしているんですよ」
殿下は何でもないことのようにおっしゃったけれど、それが簡単なことではないのは私にもわかる。騎士団でも兵糧や装備の管理に関する報告を受けることがあったが、複数の村の収穫量を細かく覚えておくなど、相当な集中力が必要なはずだ。
「それに、数字の向こうには人々の暮らしがありますから。収穫が減れば、冬を越すのが難しくなる村もあるでしょう。そういうことを見落としたくないんです」
その言葉を聞いた瞬間、私は思わず殿下の横顔を見つめてしまった。目の前にある書類を読むことはできなくても、その内容を理解し、遠く離れた村の人々を案じていらっしゃる。王宮では表舞台に出ることの少ない第三王子だと聞いていたけれど、決して何もなさらずに暮らしているわけではないのだ。
やがて殿下は椅子から立ち上がると、机の脇に置いてあった白い杖を手に取られた。私は反射的に近づこうとしたけれど、殿下は慣れた様子で杖を動かしながら、ゆっくりと扉の方へ歩き始める。その足取りには迷いがなく、家具の位置もしっかり把握していらっしゃるようだった。
「殿下、お手をお貸しいたしましょうか?」
「ありがとうございます。でも、この部屋のことはよく覚えているんです。困ったときには、こちらからお願いしますね」
そう言って微笑まれ、私は伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。護衛として危険を取り除くことは大切だけれど、必要のない手助けまで押しつけるべきではないのだろう。殿下はご自身の足で歩き、ご自身の意思で行動することを大切にしていらっしゃるのだから。
(……私は、この方のことをまだ何も知らないのね)
目が見えないという事実だけで、無意識のうちに守られるべき存在だと決めつけていたのかもしれない。けれど、殿下には私の知らない知識も経験もあり、何よりご自身の考えがある。私は改めて、この方を1人の人間として理解していきたいと思った。
❀ ❀ ❀
昼食の時間になると、私は殿下と同じ食卓へ招かれた。専属護衛としてすぐそばに控えるつもりだったけれど、殿下はせっかくなのだから一緒に食事をしようとおっしゃる。王族の方と同席することに戸惑いはあったものの、何度も勧められては断るわけにもいかなかった。
食卓には香ばしく焼かれた肉料理や、季節の野菜を使った温かなスープが並んでいる。マーサが料理の説明をすると、殿下は嬉しそうに頷き、リネットにも何やら話しかけられた。
「そういえばリネット。先日、お母様のお誕生日だと話していましたね。贈り物は喜んでいただけましたか?」
「はい! 殿下が教えてくださったお店で、綺麗な髪飾りを買ったんです。母もとっても喜んでくれました!」
「それはよかった。きっと、あなたが選んでくれたことが何より嬉しかったのでしょうね」
リネットは満面の笑みを浮かべ、何度も頷いている。殿下も楽しそうに笑っていらっしゃり、その様子を見守るマーサの表情も穏やかだった。王宮では主従の立場を厳しく区別することが多いけれど、この離宮には家族のような温かさがあるらしい。
もちろん、使用人たちは礼儀を忘れているわけではない。殿下も彼らの仕事を尊重しながら、1人ひとりのことをよく覚えていらっしゃる。そんな関係を築いているからこそ、皆が自然と笑顔になれるのだろう。
「セレナ殿は、普段どのようなものを召し上がるのですか?」
「私、ですか? 騎士団では食べられるときに食べられるものをいただいておりましたので、あまり好き嫌いはございません」
「そうなのですね。では、特にお好きな料理はありますか?」
私は少し考え込んでしまった。嫌いな食べ物なら思いつくかもしれないけれど、好きな料理となると、すぐには答えが浮かばない。これまで食事は身体を動かすために必要なものだと考えていたので、味を楽しむことをあまり意識してこなかったのだ。
「……申し訳ございません。すぐには思いつかなくて」
「謝ることではありませんよ。それなら、これから少しずつ見つけていきましょう。ここの料理人はとても腕がいいんです。きっと、お気に入りの料理が見つかりますよ」
殿下は楽しそうにそうおっしゃった。私は思わず微笑み、ありがとうございますと答える。好きなものを見つけるという、あまりにも当たり前のことが、なぜだか今の私には新鮮に感じられた。
(……好きなもの、か。そんなこと、随分と長い間考えていなかったわね)
騎士団では、常に誰かを守ることを優先してきた。自分が何を食べたいのか、どんな場所へ行きたいのか、そうしたことを考える余裕もなかった。けれど、この離宮では、そんな小さなことまで大切にしてもよいのかもしれない。
私は目の前のスープをひと口飲み、その優しい味わいに思わず頬を緩めた。すると、隣に控えていたリネットが嬉しそうに笑っているのが見えたので、少しだけ恥ずかしくなってしまった。
❀ ❀ ❀
昼食を終えたあと、殿下は私に向かって穏やかに微笑まれた。どうやら、何か楽しみにしていらっしゃることがあるらしい。私は姿勢を正し、次のご予定について尋ねようとした。
「セレナ殿。昨日のお約束、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろんでございます。庭園をご案内するお約束ですね」
「ええ。今日はとてもよいお天気だと聞きました。あなたと一緒に歩けるのを楽しみにしていたんです」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。昨日交わした何気ない約束を、殿下は本当に楽しみにしてくださっていたらしい。私にとっては護衛任務の一環であっても、殿下にとっては大切な時間なのだと思うと、自然と背筋が伸びた。
「では、準備を整えてまいります。庭園の警備についても、ガレス殿に確認しておきますので」
「ありがとうございます。でも、あまり大げさな準備は必要ありませんよ。いつもの散歩道ですから」
殿下はそうおっしゃると、椅子の脇に置かれていた白い杖を手に取られた。私は少し離れた場所からその動きを見守り、必要になればすぐに手を貸せるようにしておく。殿下は慣れた足取りで扉の近くまで進むと、そこで立ち止まられた。
「セレナ殿。よろしければ、あなたの腕をお借りしても?」
突然の申し出に、私は一瞬だけ戸惑ってしまった。昨日は握手をしたばかりだというのに、今日は腕を組んで歩くことになるのだろうか。もちろん護衛として当然のことだとわかっているけれど、なぜだか少し緊張してしまう。
(……落ち着きなさい、セレナ。これは護衛のお仕事でしょう?)
私は小さく息を整えると、殿下の隣へ歩み寄った。杖を持つ手とは反対側に立ち、そっと腕を差し出す。殿下は私の動きを確かめるように手を伸ばし、優しく腕に触れられた。
「はい。喜んでお供いたします」
「ありがとうございます。今日は、あなたの見ている世界を少しだけ分けていただけると嬉しいです」
殿下の言葉に、私は思わずその横顔を見つめた。淡い青色の瞳は前を向いているけれど、そこに不安そうな様子はない。むしろ、これから始まる散歩を心から楽しみにしていらっしゃるようだった。
私はその表情を見て、自然と微笑んでしまった。昨日までの私なら、庭園を歩くことにこれほど心を弾ませることなどなかっただろう。けれど、殿下と一緒なら、いつもとは違う景色が見えるような気がした。
(……この方と歩く庭園は、どんな景色に見えるのかしら)
そう考えながら、私は殿下の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。廊下の先にある大きな窓からは、午後の柔らかな日差しが差し込んでいる。その向こうには、色とりどりの花々が咲き誇る庭園が広がっていた。
王国最強の女騎士として剣を握り続けてきた私にとって、花を眺めながら誰かと歩く時間など、これまでほとんど縁のないものだった。けれど、今はその時間が少しだけ楽しみになっている。
この離宮での暮らしは、どうやら私が思っていたよりも、ずっと温かなものになりそうだった。




