第20話 傷だらけの花嫁
鏡の中に、純白のドレスをまとった女性が映っていた。
長い暗紅色の髪は丁寧に編み込まれ、銀細工の髪飾りでまとめられている。胸元から裾へと広がるドレスには、白い月鈴草の刺繍が銀糸で施され、窓から差し込む朝の光を受けて柔らかく輝いていた。
そして、その女性の左頬には、顎へと続く大きな傷がある。
間違いない。鏡に映っているのは、私だ。
けれど、どうにも実感が湧かなかった。
「セレナ様……! 本当に、本当にお綺麗です!」
背後から、リネットの弾んだ声が聞こえてきた。
振り返ると、彼女は両手を胸の前で組み、今にも泣き出しそうな顔をしている。その隣では、マーサが穏やかに微笑んでいた。
「リネットったら、さっきから何度も同じことを言っているわよ」
「だって、本当なんですもの! あのセレナ様が、こんなに素敵な花嫁姿になるなんて……! 私、嬉しくて……!」
とうとう涙をこぼし始めたリネットに、私は思わず笑ってしまった。
マーサがそっとハンカチを差し出し、優しく声をかける。
「ほらほら、泣いていたらお化粧が崩れてしまいますよ。今日はセレナ様の晴れの日なのですから、笑顔でお送りしなくては」
「は、はい……! でも、マーサさんだって、さっき泣いていたじゃないですか!」
「……あら。見られてしまいましたか」
マーサは少し照れたように笑った。
そんな2人のやり取りを見ていると、自然と胸が温かくなる。
ルシアン様と出会ってから、数か月。
あの事件が解決したあと、私たちは国王陛下から正式に婚姻の許しをいただいた。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。私の顔の傷や、騎士として働いていた経歴を理由に、反対する貴族もいたという。
けれど、ルシアン様は一度も迷われなかった。
そして私も、もう自分の幸せから逃げようとは思わなかった。
(……本当に、今日が来たんだ)
私は鏡へ向き直り、そっと左頬の傷へ触れた。
以前なら、鏡を見るたびに真っ先にこの傷が目に入っていた。
醜いと蔑まれたことも、心ない言葉を浴びせられたことも、忘れたわけではない。
けれど、今の私は、それだけを見つめてはいなかった。
鏡の中の私は、幸せそうに笑っている。
そのことが、何より嬉しかった。
❀ ❀ ❀
式の準備がひと段落したころ、控室の扉が控えめに叩かれた。
マーサが応対すると、廊下にはガレス殿とノエルが立っていた。
2人とも今日は礼装を身にまとい、いつもより少し緊張した様子だった。
「セレナ殿。ご結婚、誠におめでとうございます」
ガレス殿が深く頭を下げる。
私は慌てて立ち上がり、笑顔で応えた。
「ありがとうございます、ガレス殿。どうか、今日はそんなにかしこまらないでください。私たちは、同じ離宮で働いた仲間なのですから」
「ははっ。そう言っていただけると助かります。ですが、今日ばかりは、少々緊張してしまいますな」
ガレス殿は照れくさそうに笑った。
その隣で、ノエルが目を輝かせながら一歩前へ出る。
「セレナ様! 今日は本当におめでとうございます! その……すごくお綺麗です!」
私は思わず頬を緩めた。
ノエルの肩の傷はすっかり回復し、以前と変わらない元気な姿を見せてくれている。
あの街道での戦いを思い出すと、今でも胸が締めつけられることがある。
けれど、こうして彼が笑っている姿を見るたびに、私は心から安堵するのだ。
「ありがとう、ノエル。あなたも、すっかり立派な騎士になったわね」
そう告げると、ノエルは少し照れたように頭を掻いた。
「い、いえ! 俺なんて、まだまだです! でも……セレナ様は、これからも俺の憧れの騎士です。結婚なさっても、それは変わりません!」
私はその言葉に、胸が温かくなるのを感じた。
かつての私は、騎士として強くあることだけが、自分の価値だと思っていた。
けれど、今は違う。
誰かを守ることも、誰かに守られることも、同じくらい大切なのだと知っている。
私はノエルへ微笑みかけた。
「ありがとう。これからも、あなたらしい騎士でいてね」
ノエルは嬉しそうに頷いた。
その笑顔を見つめながら、私はふと、3年前に亡くなった従騎士のことを思い出した。
彼のことを忘れる日は、きっと来ないだろう。
けれど、もう悲しみだけを抱えて生きていくつもりはない。
彼が守ってくれたこの命を、大切に生きていきたい。
そして、いつか胸を張って、幸せになれたと伝えたいと思う。
私は静かに息を整え、2人へ改めて感謝を伝えた。
❀ ❀ ❀
式の時間が近づき、控室には再び私とマーサ、リネットの3人だけになった。
リネットが最後の仕上げとして、薄いヴェールを持ってくる。
私はそれを見つめ、少しだけ考え込んだ。
かつての私なら、きっと顔を隠すために使っていただろう。
傷を見られることが怖くて、誰かの視線から逃げようとしていたはずだ。
けれど、今日は違う。
「……セレナ様。ヴェールは、いかがなさいますか?」
マーサが静かに尋ねてきた。
私は鏡に映る自分を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「今日は、顔を隠さずにいたいんです」
マーサは少しだけ目を細め、優しく頷いた。
「……かしこまりました。では、後ろへ流す形にいたしましょう」
リネットも笑顔になり、私の髪へヴェールを留めてくれた。
薄い布が背中へ流れ、ドレスの銀糸と重なって柔らかく輝く。
私は鏡の中の自分を見つめ、そっと左頬へ触れた。
(……この傷も、私の一部だから)
傷を負った日の痛みも、失った命への後悔も、消えることはない。
それでも、今の自分を否定する理由にはならないのだ。
私は小さく息を吐き、鏡の中の自分へ微笑みかけた。
すると、マーサがそっと私の肩へ手を置いた。
「……セレナ様。本当に、幸せそうなお顔をなさっていますね」
その言葉に、私は少しだけ照れながら頷いた。
「……はい。今、とても幸せです」
マーサは優しく微笑み、私の肩を軽く叩いてくれた。
その温もりに背中を押されるようにして、私はゆっくりと立ち上がった。
❀ ❀ ❀
王宮の礼拝堂には、多くの人々が集まっていた。
高い天井から柔らかな光が差し込み、白い花々が並ぶ通路を照らしている。
私は入口に立ち、静かに息を整えた。
扉が開かれると、参列者たちの視線が一斉にこちらへ向けられる。
その中には、かつて私を醜いと蔑んだ貴族たちの姿もあった。
小さなささやき声が聞こえる。
私の傷を見て、驚いている者もいるのだろう。
けれど、不思議と怖くはなかった。
私はもう、誰かの評価だけで自分の価値を決めようとは思わない。
私の視線の先には、ただひとり、大切な方がいらっしゃるのだから。
祭壇の前には、白い礼装をまとったルシアン様が立っていた。
銀色の装飾が施された礼装は、彼の柔らかな雰囲気によく似合っている。
ルシアン様はガレス殿の案内を受け、所定の位置で静かに待っていらっしゃった。
私はゆっくりと歩き始める。
一歩、また一歩。
近づくにつれて、胸の鼓動が速くなっていく。
やがて、私の足音に気づかれたのか、ルシアン様が穏やかに微笑まれた。
「……セレナ。来てくださったのですね」
私はその声を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。
彼の前へ立ち、そっと手を差し出す。
「はい。お待たせしました、ルシアン様」
ルシアン様は私の手を取り、優しく握り返してくださった。
その温もりに、自然と笑みがこぼれる。
かつて私は、騎士としてこの方をお守りするために隣へ立っていた。
けれど、今日は違う。
私は、彼の妻になるために、ここへ来たのだ。
❀ ❀ ❀
司祭の声が、礼拝堂に静かに響いた。
私たちは手を取り合い、これからの人生をともに歩むことを誓う。
ルシアン様は私の手を優しく握りながら、穏やかな声で言葉を紡がれた。
「私は、あなたとともに生きていきたい。嬉しい日も、悲しい日も、あなたの声を聞き、あなたの手を取って歩んでいきたいと思っています」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
私は少しだけ息を整え、彼へ向き直る。
「私は、あなたを守ることだけが、自分の役目だと思っていました。でも、あなたと出会って、誰かに支えられる幸せも知りました」
ルシアン様の手を、そっと握り返す。
これまでの私は、誰かを守るために強くなろうとしてきた。
けれど、これからは、ひとりで何もかも背負う必要はない。
私には、この方がいる。
そして、私もまた、この方の支えになりたい。
「これからは、守るだけではなく、支え合って生きていきたいです。あなたの妻として、ずっと隣にいさせてください」
ルシアン様は穏やかに微笑まれた。
私たちは指輪を交換する。
小さな銀色の指輪には、月鈴草の模様が刻まれていた。
離宮の庭園で、初めて一緒に花を眺めた日のことを思い出す。
あのときは、こんな未来が待っているなんて、想像もしていなかった。
司祭が婚姻の成立を宣言すると、礼拝堂には温かな拍手が広がった。
私は思わず目頭が熱くなるのを感じた。
すると、ルシアン様が少しだけ顔を近づけ、静かに尋ねられた。
「……セレナ。口づけをしても、よろしいですか?」
私は思わず笑ってしまった。
初めて口づけを交わしたときも、彼は同じように尋ねてくださった。
その律儀さが、なんだか愛おしい。
「もう、毎回聞かなくても大丈夫ですよ」
私がそう答えると、ルシアン様は少し照れたように笑われた。
「それでも、あなたの声で聞きたいのです」
私は頬が熱くなるのを感じながら、彼の手をそっと握り直した。
「……はい。喜んで」
ルシアン様は優しく微笑まれた。
私は彼の手を自分の頬へ導き、ゆっくりと距離を縮める。
そして、私たちは静かに唇を重ねた。
礼拝堂いっぱいに、祝福の拍手が響き渡る。
私はその温もりを感じながら、胸の奥に広がる幸せを噛みしめていた。
❀ ❀ ❀
結婚式を終えた夕方。
私たちは、久しぶりに離宮の庭園を訪れていた。
王宮での事件が解決したあと、ルシアン様は国王陛下から、王国の備蓄管理や地方支援に関わる正式な役目を任されることになった。
ただし、生活の拠点はこれまでと同じ離宮のまま。
ルシアン様ご自身が、あの場所で仕事を続けたいと望まれたからだ。
私もまた、騎士としての経験を生かし、護衛隊の訓練や相談役を務めることになっている。
結婚したからといって、剣を捨てるつもりはない。
私はこれからも、私らしく生きていきたいと思っている。
庭園には、白い月鈴草が咲いていた。
夕焼けに染まる空の下、柔らかな風が花々を揺らしている。
私はルシアン様の腕を取り、ゆっくりと歩いていた。
すると、彼が穏やかに尋ねられた。
「……セレナ。今日は、どんな景色ですか?」
私はその言葉に、思わず微笑んだ。
初めてこの庭園を一緒に歩いた日も、彼は同じように尋ねてくださった。
あのときの私は、ただ景色を伝えることに精一杯だった。
けれど、今は違う。
私は彼の隣にいることが、何より幸せなのだ。
私は空を見上げ、ゆっくりと答えた。
「夕焼けが、とても綺麗です。空が淡い橙色に染まっていて、月鈴草の白い花が、風に揺れています」
ルシアン様は静かに頷かれた。
私は少し考えたあと、笑みを浮かべて付け加えた。
「……それから、世界で一番幸せな花嫁が、あなたの隣にいます」
ルシアン様は一瞬驚いたように息を呑まれたあと、穏やかに笑われた。
「それは、私にもわかります」
私は思わず笑ってしまった。
彼の手を取り、そっと握り返す。
かつての私は、自分の顔に刻まれた傷が嫌いだった。
誰かに愛されることなどないと思っていた。
けれど、今は違う。
この傷も、私が歩いてきた人生の一部なのだと、少しずつ受け入れられるようになった。
そして、何より大切なのは、これから歩いていく未来だ。
私はルシアン様の隣に立ち、これからも一緒に生きていきたい。
嬉しいことも、悲しいことも、すべて分かち合いながら。
私は彼の手をそっと握り直し、微笑んだ。
「……ルシアン様。これからも、よろしくお願いします」
「ええ、セレナ。これから先も、ずっと一緒に」




