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第14話 王子の秘密

 王宮の舞踏会から一夜が明けた。

 私はいつもどおり騎士服に袖を通し、鏡の前で長い深紅の髪を結んでいた。昨夜、リネットが丁寧に編み込んでくれた髪は、今ではすっかり普段の形に戻っている。

 けれど、鏡に映る自分の顔を見つめていると、自然と頬が緩んでしまった。

 王宮のバルコニーで、ルシアン殿下と踊ったこと。

 夜風に揺れるドレスの裾。遠くから聞こえてきた音楽。そして、私の手を優しく握ってくださった殿下の温もり。

 思い出すだけで、今でも胸が高鳴ってしまう。


(……あんなふうに踊ったのは、初めてだったわ)


 伯爵令嬢として育った私は、幼いころから社交の作法を教えられてきた。舞踏会で踊った経験も、決して少なくはない。

 けれど、昨夜のように、誰かと踊ることが幸せだと思えたのは初めてだった。

 私はそっと胸元へ手を当て、小さく息を吐いた。

 殿下への恋心を自覚してから、まだそれほど時間は経っていない。今でも自分の気持ちに戸惑うことはあるけれど、それ以上に、殿下と一緒に過ごせる時間が嬉しかった。

 私は剣を腰へ下げ、柄に結ばれた深紅のリボンへ軽く触れた。


(……今日も、しっかりお務めしなくては)


 私は気持ちを切り替え、殿下の執務室へ向かった。


❀ ❀ ❀


「おはようございます、セレナ殿。昨夜はお疲れではありませんでしたか?」


 執務室へ入ると、ルシアン殿下が穏やかな声で迎えてくださった。

 殿下はいつもの椅子に座り、机の上には数枚の書類が並べられている。朝の日差しが銀色の髪を柔らかく照らし、その横顔は普段と変わらず落ち着いていた。


「おはようございます、殿下。はい、おかげさまでよく休めました。殿下こそ、お疲れではございませんか?」

「ええ。久しぶりの王宮でしたから、少し疲れましたが……とても楽しい夜でした」


 殿下はそうおっしゃって、嬉しそうに微笑まれた。

 私はその表情を見た瞬間、昨夜のダンスを思い出してしまった。


「……私も、とても楽しかったです。あのように踊るのは久しぶりでしたが、殿下のおかげで素敵な時間を過ごせました」

「ふふ。それはこちらの台詞ですよ。あなたが上手に導いてくださったおかげで、安心して踊ることができました」


 私は少し照れくさくなりながら、静かに微笑んだ。

 殿下と過ごした時間が、殿下にとっても楽しい思い出になっている。それだけで、胸の奥が温かくなる。

 けれど、しばらくすると、殿下の表情が少しだけ変わった。

 穏やかな微笑みはそのままだったけれど、何かを考えていらっしゃるように見える。


「……セレナ殿。昨夜の舞踏会で、少し気になることがありました」

「気になること、でございますか?」


 私は自然と背筋を伸ばした。

 殿下は静かに頷かれ、机の上に置かれた書類へ手を伸ばされる。


「ええ。少し、お話ししてもよろしいでしょうか?」


❀ ❀ ❀


 殿下は、昨夜の舞踏会で交わした会話について話し始められた。

 王宮の財務を担当する貴族のひとりが、殿下へ挨拶に訪れたときのことだ。

 その貴族は、今年の穀物の収穫状況について話し、王都の備蓄は十分に確保されていると説明していた。

 私はその場に同席していたけれど、特に不自然なことは感じなかった。祝賀舞踏会では、領地の収穫や商業の話題が交わされることも珍しくないからだ。


「……あの方のお話に、何か問題があったのでしょうか?」

「ええ。実は、少し数字が合わないのです」


 殿下は静かに答えられた。

 私は思わず首を傾げる。

 数字が合わない。

 それは、どういうことなのだろうか。


「王都の備蓄は十分にあると説明されていました。ですが、私のもとへ届いている地方の報告書では、いくつかの地域で穀物不足が続いているのです」

「……それは、輸送が間に合っていないということでしょうか?」

「その可能性もあります。ですが、問題はそれだけではありません。輸送記録では、すでに穀物が各地へ届けられたことになっているのです」


 私は思わず眉を寄せた。

 穀物が届いていることになっているのに、実際には不足している。

 それが事実なら、どこかで不正が行われている可能性がある。


「……つまり、誰かが記録を偽っているかもしれない、ということでしょうか?」

「ええ。まだ断定はできませんが、その可能性は十分にあります」


 殿下は穏やかな声で答えられた。

 けれど、その言葉には、普段とは違う鋭さがあった。


「数字は、誰かの都合で書き換えることができます。ですが、すべての記録を同じように変えるのは難しいものです」


 私はその言葉を聞きながら、殿下の横顔を見つめた。

 これまでにも、殿下が領地の報告書を読み解き、不自然な点を指摘される姿を何度か見てきた。

 けれど、まさか王宮の財務に関わる問題まで調べていらっしゃるとは思わなかった。


「……殿下は、以前からこの件を調べていらっしゃったのですか?」


 私が尋ねると、殿下は静かに頷かれた。


「ええ。少し前から、気になることがありまして。もしよろしければ、あなたにも見ていただきたいものがあります」


❀ ❀ ❀


 殿下に案内されたのは、離宮の奥にある小さな書庫だった。

 普段はあまり使われていない部屋だと思っていたけれど、中へ入ると、壁際の棚には多くの書類や帳簿が整然と並べられていた。

 机の上にも、地方領主から届いた報告書や商人の取引記録、輸送経路をまとめた資料などが置かれている。

 私は思わず目を見開いた。


「……これほど多くの資料を、集めていらっしゃったのですか?」

「ええ。信頼できる方々に協力していただき、少しずつ集めてきました」


 殿下は白い杖を使いながら、慣れた様子で棚の前へ進まれた。

 棚にはそれぞれ識別用の紐や刻印がつけられており、殿下は指先でそれを確かめながら、必要な資料の場所を示してくださる。

 私は指定された帳簿を取り出し、机の上へ置いた。

 殿下は椅子に座り、私へ内容を読み上げるよう頼まれた。


「……こちらは、王都から西部の領地へ送られた穀物の輸送記録です。まずは、日付と数量を確認していただけますか?」


 私は帳簿を開き、記された数字を読み上げた。

 殿下は静かに耳を傾け、ときおり別の資料と照らし合わせるよう指示を出される。

 しばらくすると、私にも不自然な点が見えてきた。

 王都の備蓄として購入されたはずの穀物が、記録上では地方へ輸送されている。けれど、現地の報告書には、その数量に見合う穀物が届いた形跡がない。

 さらに、輸送費だけが不自然に増えている箇所もあった。


「……これは、明らかにおかしいですね」

「ええ。輸送費が増えること自体は珍しくありません。ですが、同じ経路で、同じ時期に、これほど大きな差が出るのは不自然です」


 殿下は静かに頷かれた。

 私はさらに資料を確認し、取引に関わっている商会の名前を見つけた。

 その名前には、どこか聞き覚えがあった。


「……この商会は、確か第二王子殿下に近い貴族と関係があるのではありませんか?」

「ええ。よくご存じですね。商会の後ろ盾となっている貴族のひとりが、兄上と親しい関係にあります」


 私は思わず息を呑んだ。

 第二王子。

 王位継承において、有力な立場にある方だ。

 もしその周囲で不正が行われているのだとしたら、単なる商取引の問題では済まないかもしれない。


「……では、第二王子殿下が関わっていらっしゃる可能性も……?」

「その可能性はあります。ですが、今の段階では証拠が足りません。兄上が直接関与していると断定することはできないのです」


 殿下は慎重に言葉を選ばれた。

 私はその姿を見ながら、改めて殿下の聡明さを感じていた。

 普段は穏やかで、誰に対しても優しく接していらっしゃる。

 けれど、その内側には、国のことを真剣に考え、必要な行動を起こす強さがあるのだ。


「……殿下は、すごい方ですね」


 思わず、そんな言葉が口からこぼれた。

 殿下は少し驚いたように首を傾げられた。


「ふふ。突然どうなさったのですか?」

「いえ……。私は、殿下がこれほど多くのことを調べていらっしゃるとは知りませんでした。王宮から離れて暮らしていらっしゃるのに、国のことを誰よりも真剣に考えておられるのですね」


 殿下は少しだけ照れくさそうに微笑まれた。


「私は王宮にいなくても、できることがあります。目が見えなくても、耳を傾け、考えることはできますから」


 その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 殿下はご自分の境遇を理由に、何かを諦めたりはしない。

 私はそんな姿を、心から尊敬していた。


❀ ❀ ❀


「……ですが、殿下。なぜ、これまで私たちには秘密にしていらっしゃったのですか?」


 私は少し迷った末、尋ねた。

 殿下はしばらく考えるように沈黙されたあと、静かに答えられた。


「証拠が不十分な段階で、周囲の方々を巻き込みたくなかったのです。もしこの件が王宮の有力者に関わっているのなら、軽率に動くことで離宮の皆さんを危険にさらすかもしれませんから」


 私はその言葉を聞きながら、胸の奥が少し痛んだ。

 殿下は、私たちを守るために、ひとりで危険な調査を続けていらっしゃったのだ。

 けれど、だからこそ、私は何も知らずにいたことが悔しかった。


「……殿下。どうか、これからはおひとりで危険を背負わないでください」


 私は思わず、少し強い口調で言ってしまった。

 殿下は驚いたように顔を上げられる。

 私は慌てて頭を下げた。


「申し訳ございません。出過ぎたことを申し上げました。ですが、私は殿下の護衛です。危険があるのなら、どうか私にも知らせていただきたいのです」


 殿下はしばらく黙っていらっしゃった。

 そして、ゆっくりと微笑まれた。


「……そうですね。あなたのおっしゃるとおりです。私も、少し慎重になりすぎていたのかもしれません」


 その言葉に、私は顔を上げた。

 殿下は穏やかな声で続けられる。


「昨夜の舞踏会で、王宮の方々の動きに少し変化を感じました。ですから、これからは警戒を強める必要があると思っています」


 私は静かに頷いた。

 殿下は少しだけ間を置き、優しくおっしゃった。


「……それに、あなたには私の考えていることを、きちんと知っておいてほしかったのです」


 その言葉に、胸の奥が大きく跳ねた。

 殿下が、私を信頼してくださっている。

 ただの護衛としてだけでなく、大切な秘密を共有する相手として。

 私はそのことが嬉しくて、思わず微笑んだ。


「……ありがとうございます、殿下。私、必ずお力になります」

「ええ。これからは、あなたにも頼らせてください」


 殿下はそうおっしゃって、穏やかに微笑まれた。

 私はその表情を見つめながら、胸の奥に温かな決意が生まれるのを感じていた。


❀ ❀ ❀


 その日の夕方、私はガレスから急ぎの報告を受けた。

 離宮の外周を巡回していた衛兵が、森側の塀の近くで不審な足跡を発見したというのだ。

 私はすぐに現場へ向かった。

 離宮の北側には、深い森が広がっている。以前から警備上の弱点になっていた場所で、塀の外側は木々が密集しており、周囲から見通しにくい。

 私はガレスとともに塀の周辺を確認した。


「……確かに、複数人分の足跡がありますね」


 湿った土の上には、いくつかの靴跡が残されていた。

 私はしゃがみ込み、足跡の向きや深さを確かめる。少なくとも3人以上が、この周辺を歩き回っていたようだった。

 ガレスは険しい表情で頷いた。


「近くの村人からも、見慣れない男たちが離宮の周辺を調べていたという話がありました。今のところ、塀を越えた形跡はありませんが……」

「……下見をしていた可能性がありますね」


 私は静かに答えた。

 足跡は塀に沿って続いており、特に森の奥から見えにくい場所へ集中している。

 偶然通りかかった旅人が残したものとは考えにくかった。


「ガレス殿。今夜から、この周辺の警備を強化しましょう。森側の塀には衛兵を追加配置し、夜間巡回の回数も増やしてください」

「承知しました。門の出入りについても、確認を厳しくしておきます」

「お願いします。それから、衛兵たちには単独行動を避けるよう伝えてください。もし不審者を発見しても、無理に追跡せず、まずは応援を呼ぶことを優先させましょう」


 ガレスは力強く頷いた。

 私はもう一度周囲を見回し、森の奥へ視線を向けた。

 木々の間には夕暮れの影が広がり、風に揺れる葉の音だけが聞こえてくる。

 今のところ、敵の姿は見えない。

 けれど、何かが近づいているような嫌な予感がした。


(……殿下の調査と、関係があるのかしら)


 まだ断定はできない。

 けれど、もし誰かが殿下の動きを警戒しているのだとしたら、離宮が狙われる可能性もある。

 私は剣の柄へ手を添え、静かに息を整えた。

 何が起きても、すぐに動けるようにしておかなければならない。


❀ ❀ ❀


 夜、私はルシアン殿下のもとを訪れ、警備の状況を報告した。

 殿下は静かに話を聞きながら、ときおり確認の質問を挟まれた。

 森側の塀に残されていた足跡の数や、村人が目撃した不審者の様子。警備を強化した場所についても、ひとつずつ丁寧に確認してくださった。


「……そうですか。やはり、少し警戒した方がよさそうですね」

「はい。現時点では、王宮の件と関係があるかどうかはわかりません。ですが、念のため、しばらくは不要な外出を控えていただけますでしょうか?」


 殿下は静かに頷かれた。


「ええ。あなたの判断に従いましょう。皆さんにも、無理をしないよう伝えてください」


 私はその言葉に、少しだけ安心した。

 殿下はご自分の安全だけでなく、離宮で働く人々のことも気にかけていらっしゃる。

 そんな優しさに触れるたび、私はますますこの方を守りたいと思うのだった。

 けれど、殿下は少しだけ真剣な表情になり、静かに続けられた。


「……セレナ殿。もし何かが起きたときは、私だけでなく、離宮の皆を守ることを考えてください」


 私は少し驚いて顔を上げた。

 殿下は穏やかな声のまま、言葉を続けられる。


「私は王子ですが、ここで働く皆さんの命も、同じように大切です。どうか、私ひとりを優先して、誰かを危険にさらすようなことはしないでください」


 その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 殿下は、いつだってご自分よりも周囲の人々を大切にしていらっしゃる。

 だからこそ、私はこの方を守りたい。

 そして、殿下が大切にしている人々も、同じように守りたいと思った。


「……もちろんです、殿下。ですが、殿下のことも、必ずお守りします」


 私はまっすぐに答えた。

 殿下は少しだけ微笑まれ、静かに頷かれた。


「ええ。信じています」


 その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 私は深く頭を下げ、執務室をあとにした。

 廊下へ出ると、窓の外には暗い森が広がっていた。

 数日前まで、離宮は穏やかな時間に包まれていた。殿下と庭園を歩き、馬に乗り、星空の下で踊った。

 そんな日々が、これからも続いてほしい。

 私は心から、そう願っていた。

 けれど、今は何かが近づいている。

 私は剣の柄に結ばれた深紅のリボンへそっと触れ、静かに息を吸った。


(……今度こそ、誰も失わない)


 3年前、私は大切な命を守れなかった。

 あのときの後悔は、今も胸の奥に残っている。

 けれど、もう過去に囚われて立ち止まるつもりはない。

 私は今、守りたいものを見つけたのだから。

 私は剣の柄をしっかりと握り、窓の外に広がる暗い森を見つめた。

 離宮を囲む木々の奥では、夜風が静かに枝葉を揺らしている。

 その闇の向こうに、何が潜んでいるのか。

 今の私には、まだ知る由もなかった。


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