第13話 傷だらけの令嬢
王宮の祝賀舞踏会が開かれる日がやってきた。
私は離宮の衣装室で、マーサとリネットに身支度を手伝ってもらっていた。普段なら騎士服を身につけ、髪をひとつに結ぶだけで済むのだけれど、今日はそういうわけにはいかない。
ルシアン殿下の正式な同伴者として出席する以上、伯爵令嬢にふさわしい装いを整える必要があった。
「セレナ様、もう少しだけお顔を上げてくださいね。あと少しで完成ですから!」
リネットが楽しそうに声をかけながら、私の髪へ最後の飾りを留める。
鏡の中には、いつもとはまるで違う自分の姿が映っていた。
深い紺色のドレスには、銀糸で繊細な花の模様が刺繍されている。身体の動きを妨げないよう仕立てられた生地は、見た目以上に軽く、腰のあたりもすっきりとしていた。
長い深紅の髪はリネットの手によって丁寧に編み込まれ、後ろで上品にまとめられている。普段の高い位置で結んだ髪とは違い、首元が少し落ち着かない。
「……本当に、これが私なのかしら」
思わず呟くと、リネットが嬉しそうに笑った。
「もちろんです! セレナ様、とっても綺麗ですよ! 殿下にもぜひ見ていただきたいくらいです!」
言い終えた直後、リネットははっとしたように口元を押さえた。
「あっ……申し訳ありません! 私ったら、つい……」
「ふふ。気にしないで、リネット。殿下には、あなたがどんなふうに髪を結ってくれたのか、私からお話しするわ」
私がそう答えると、リネットはほっとしたように微笑んだ。
マーサも満足そうに頷き、ドレスの裾を最後に整えてくれる。
「よくお似合いでございます、セレナ様。凛とした雰囲気はそのままに、とても優雅なお姿です」
私は少し照れくさくなりながら、鏡へ視線を戻した。
そこには、騎士ではなく、ひとりの令嬢として装った私がいる。
けれど、左頬から顎にかけて走る大きな傷跡だけは、いつもと変わらず残っていた。
私はその傷を見つめ、そっと指先で触れた。
以前の私なら、こんな装いをすること自体、ためらっていただろう。綺麗なドレスを着たところで、傷のある顔が余計に目立つだけだと思っていたからだ。
けれど、今は少しだけ違う。
ルシアン殿下は、私の傷を知ったうえで、変わらず接してくださっている。
それに、私はこの傷を負ったことまで否定したくはなかった。
(……大丈夫。私は、私のままでいい)
私は鏡に映る自分へ小さく微笑み、ゆっくりと顔を上げた。
❀ ❀ ❀
離宮の玄関へ向かうと、すでにルシアン殿下が待っていらっしゃった。
殿下は濃紺の正装に身を包み、銀の装飾が施された上着を着ていらっしゃる。柔らかな銀色の髪は丁寧に整えられ、普段よりもいっそう気品のあるお姿だった。
私は思わず足を止めてしまった。
(……素敵……)
そう思った瞬間、頬が熱くなる。
私は慌てて気持ちを落ち着かせ、殿下のそばへ歩み寄った。
「お待たせいたしました、殿下。準備が整いました」
「セレナ殿。お待ちしていました。どうやら、準備に随分とお時間がかかったようですね」
殿下は穏やかに微笑まれた。
私は少し恥ずかしくなりながら、今日の装いについて説明する。
「はい。リネットとマーサが、丁寧に支度を整えてくれました。深い紺色のドレスに、銀糸の刺繍が入っております。髪も、普段とは違う形に結ってもらいました」
「そうですか。きっと、あなたによくお似合いなのでしょうね」
その言葉に、私は胸が高鳴るのを感じた。
殿下には私の姿が見えない。けれど、それでも私の装いを喜んでくださっていることが、何より嬉しかった。
「……ありがとうございます、殿下」
私は小さく微笑みながら答えた。
殿下は白い杖を手に取り、私の方へ静かに手を差し出される。
「では、参りましょうか。今夜はどうぞ、よろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
私はその手を取り、殿下を馬車へと案内した。
馬車がゆっくりと動き出すと、窓の外には夕暮れの景色が広がっていた。王宮へ近づくにつれ、街道を行き交う馬車の数も増えていく。
私は窓の外を眺めながら、少しずつ緊張が高まっていくのを感じていた。
王宮の舞踏会へ出席するのは久しぶりだ。
そこには、かつて私を嘲笑った貴族たちもいるだろう。傷を負ってから初めて舞踏会へ出席した日のことを思い出すと、今でも胸の奥が少し痛む。
そんな私の様子に気づかれたのか、殿下が静かに声をかけてくださった。
「……セレナ殿。少し緊張していらっしゃいますか?」
「……はい。正直に申し上げますと、少しだけ」
私は隠さずに答えた。
殿下は穏やかに頷かれ、優しい声で続けられる。
「無理もありません。久しぶりの王宮ですからね。ですが、今夜は私もあなたと一緒に過ごせることを楽しみにしています」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
私は殿下の横顔を見つめ、そっと微笑む。
「……私もです、殿下」
そう答えると、殿下は嬉しそうに微笑まれた。
私はその表情を見ながら、少しずつ心が落ち着いていくのを感じていた。
❀ ❀ ❀
王宮の大広間は、華やかな光に包まれていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、壁際には色とりどりの花が飾られている。楽団が奏でる優雅な音楽が広間に響き、着飾った貴族たちが談笑していた。
私はルシアン殿下の歩調に合わせ、ゆっくりと広間へ足を踏み入れた。
殿下は白い杖で足元を確かめながら、私の腕に軽く手を添えていらっしゃる。私は周囲の様子を伝えつつ、人の少ない場所を選んで歩いた。
すると、私たちの姿に気づいた貴族たちが、次々とこちらへ視線を向けてきた。
離宮で暮らす盲目の第三王子。
そして、顔に大きな傷を持つ元王国騎士団副団長。
珍しい組み合わせに、周囲がざわめくのも無理はなかった。
「……あれは、ルシアン殿下では?」
「お隣にいらっしゃるのは、ヴァレンティア伯爵家の……」
「まあ、あの方が……」
小さな囁き声が耳に届く。
私は無意識に背筋を伸ばした。
以前なら、こうした視線を感じるだけで顔を伏せたくなっていたかもしれない。けれど、今日は殿下の隣に立つと決めてきたのだ。
私は堂々と顔を上げ、ゆっくりと歩き続けた。
そのとき、ひとりの年配の貴族が私たちへ近づいてきた。
「ルシアン殿下。ご無沙汰しております。本日はお目にかかれて光栄です」
殿下は声のする方へ顔を向け、穏やかに挨拶を返された。
貴族は私にも視線を向け、少し驚いたように目を見開いた。
「……もしや、ヴァレンティア卿ではありませんか?」
「はい。ご無沙汰しております」
私が頭を下げると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「あなたには、以前の国境での戦いで大変お世話になりました。我が領の民も、あなた方騎士団のおかげで救われたのです。改めて感謝申し上げます」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
あの戦いのことを、こんなふうに覚えていてくださる方がいるとは思わなかったからだ。
私は静かに頭を下げ、感謝の言葉を返した。
殿下も嬉しそうに微笑まれ、私の功績について話を聞いていらっしゃった。
その様子を見ながら、私は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
王宮には、私を嘲笑う人ばかりがいるわけではない。
そう思えたことが、少しだけ嬉しかった。
❀ ❀ ❀
祝賀会が始まってしばらく経ったころ、私は殿下とともに王族関係者への挨拶を終え、広間の一角で休んでいた。
楽団の演奏に合わせて、中央では多くの貴族たちが踊っている。私はその様子を殿下へ伝えながら、周囲の警戒も怠らないようにしていた。
そのとき、聞き覚えのある声が響いた。
「まあ、セレナ様。お久しぶりですわ」
私はゆっくりと振り返った。
そこには、明るい金髪を美しく巻き、淡い桃色のドレスを身につけた令嬢が立っていた。
クラリス・フォン・エーデルシュタイン。
侯爵家の令嬢であり、以前の舞踏会で私の傷を嘲笑った人物のひとりだ。
彼女の周囲には、数人の令嬢たちが付き従っている。
「……お久しぶりです、エーデルシュタイン様」
私はできるだけ平静を保ち、丁寧に挨拶を返した。
クラリスはにこやかに微笑みながら、私の姿を上から下まで眺める。
「まさか今夜、こちらでお会いできるなんて思いませんでしたわ。しかも、ルシアン殿下の同伴者としていらっしゃるなんて、本当に驚きました」
私は静かに頷いた。
彼女の言葉には、まだ明確な悪意は感じられない。けれど、その笑顔の奥にあるものを、私はよく知っていた。
「殿下からお声がけいただき、本日はご一緒させていただいております」
「まあ、そうでしたの。ですが……以前より、ずいぶん華やかな装いですこと」
クラリスはそう言いながら、私の左頬へ視線を向けた。
その瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
彼女は口元に扇を当て、わざとらしく首を傾げる。
「騎士服の方が、お顔の傷も目立たなくてよろしいのではなくて? せっかくの舞踏会ですのに、少しお気の毒ですわ」
周囲の令嬢たちが、小さく笑い声を漏らした。
私は静かに息を吸い、気持ちを落ち着かせる。
こうした言葉には、もう慣れている。傷を負ってからというもの、何度も同じようなことを言われてきたのだ。
けれど、だからといって、傷つかないわけではなかった。
「……お気遣いありがとうございます。ですが、私はこの装いを気に入っておりますので」
私はできるだけ穏やかに答えた。
クラリスは少しだけ眉を上げ、さらに言葉を続ける。
「まあ、そうでしたの。ですが、殿下のお隣に立たれるのでしたら、もう少し周囲の目を気になさった方がよろしいのではなくて?」
私は思わず眉を寄せた。
彼女は私の反応を楽しむように微笑み、ちらりと殿下へ視線を向ける。
「……もっとも、殿下にはお見えにならないのですものね。お気になさらないのでしょうけれど」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に怒りが込み上げた。
私の傷を嘲笑うだけなら、まだ耐えられる。
けれど、殿下のことまで侮辱するのは許せなかった。
私は一歩前へ出ようとした。
しかし、その前に、穏やかな声が響いた。
「……エーデルシュタイン嬢。今のお言葉は、聞き捨てなりませんね」
ルシアン殿下だった。
❀ ❀ ❀
クラリスは驚いたように目を見開いた。
周囲の令嬢たちも、慌てて姿勢を正す。
殿下は声を荒らげることなく、静かにクラリスの方へ顔を向けられた。
「で、殿下……! 私はただ、セレナ様のことを案じておりましたの。決して悪気があったわけでは……」
「ご心配には及びません。私はセレナ殿に、今夜の同伴をお願いしたのです」
殿下は穏やかな声で答えられた。
けれど、その言葉には、普段とは違う確かな強さがあった。
「彼女は王国の民を救った騎士であり、私が心から信頼している方です。その傷を笑うことは、彼女が守ったものまで軽んじることになりませんか?」
クラリスは言葉に詰まった。
周囲の貴族たちも、いつの間にかこちらへ注目している。
殿下は少しだけ間を置き、静かに続けられた。
「私は彼女の顔を見ることはできません。ですが、彼女がどれほど勇敢で、優しい方なのかは知っています。私にとって大切なのは、そうした彼女自身の姿です」
その言葉に、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
殿下は私の傷を知っている。
それでも、私のことを大切に思ってくださっている。
その事実が、何より嬉しかった。
「……どうか、私の大切な方を侮辱しないでください」
殿下がそう告げられた瞬間、周囲が静まり返った。
クラリスは顔を青ざめさせ、慌てて頭を下げる。
「……も、申し訳ございません、殿下。私の配慮が足りませんでした……」
「ご理解いただけたのであれば、結構です」
殿下はそれ以上追及することなく、穏やかに答えられた。
クラリスはもう一度頭を下げると、令嬢たちを連れて足早にその場を去っていった。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
殿下が、私を守ってくださった。
それも、多くの貴族たちが見ている前で。
私は胸の奥がいっぱいになり、すぐには言葉を見つけられなかった。
❀ ❀ ❀
しばらくして、殿下が私へ静かに声をかけてくださった。
「……セレナ殿。少し、外の空気を吸いませんか?」
私は小さく頷き、殿下を大広間に面したバルコニーへ案内した。
扉を開けると、涼しい夜風が頬を撫でた。
眼下には王宮の庭園が広がり、整えられた花壇や噴水が月明かりに照らされている。空には無数の星が瞬き、遠くからは舞踏会の音楽がかすかに聞こえてきた。
私は思わず夜空を見上げ、小さく息を漏らした。
「……綺麗な星空です」
殿下は穏やかに微笑まれた。
「今夜は、どんな空なのですか?」
私は少しだけ考えながら、空の様子を言葉にした。
雲ひとつない夜空に、数えきれないほどの星が輝いていること。月が庭園を柔らかく照らし、噴水の水面にも小さな光が揺れていること。
殿下は私の説明に耳を傾けながら、嬉しそうに微笑んでいらっしゃった。
「あなたが教えてくださる景色は、いつも素敵ですね」
その言葉に、私は少しだけ照れくさくなった。
私は夜空へ視線を戻し、火照った頬を夜風で冷まそうとする。
けれど、胸の奥には、先ほどの出来事がずっと残っていた。
私は少し迷ってから、静かに口を開いた。
「……殿下。先ほどは、ありがとうございました。私のために、あのようなお言葉を……」
殿下はゆっくりと首を振られた。
「あなたは何も悪くありません。私があなたと一緒に来たいと願ったのですから」
その言葉に、私は胸が温かくなるのを感じた。
私はそっと殿下の横顔を見つめ、少しだけ勇気を出して尋ねた。
「……先ほど、私のことを『大切な方』とおっしゃってくださいましたね」
殿下は少しだけ微笑まれた。
「ええ。本当のことですから」
何のためらいもなく答えられ、私は思わず顔を赤くした。
殿下はいつも、こうして私の心を揺さぶる。
私は胸の高鳴りを隠すように、再び夜空へ視線を向けた。
(……本当に、ずるい方です)
そんなことを考えていると、大広間から新しい曲が流れ始めた。
優雅で、どこか懐かしい旋律。
殿下はその音楽に耳を傾け、少しだけ懐かしそうに微笑まれた。
「……この曲は、昔よく練習したものです」
「ダンスの、でしょうか?」
「ええ。幼いころ、何度も教えていただきました。今でも、曲を聞けば身体が動きを覚えています」
私は少し驚きながら、殿下の横顔を見つめた。
殿下は穏やかに微笑まれたあと、少しだけためらうようにしてから、静かに手を差し出された。
「……セレナ殿。もしよろしければ、私と一曲、踊っていただけませんか?」
その言葉に、私は目を見開いた。
殿下と、ダンスを。
まさか、そんなことをお願いされるとは思っていなかった。
私は一瞬戸惑ったけれど、殿下の穏やかな微笑みを見て、自然と頷いていた。
「……喜んで、殿下」
私はそっと殿下の手を取った。
大広間へ戻るには、少し距離がある。けれど、今流れている曲は、バルコニーにいても十分に聞こえていた。
殿下は私の手を優しく握り、もう片方の手を私の背へ添えられる。
「ここで、少しだけ踊ってみませんか? あなたが導いてくだされば、きっと大丈夫です」
「……はい。私でよろしければ、喜んで」
私は殿下の歩幅に合わせ、ゆっくりと足を動かした。
殿下は幼いころに習ったというだけあって、音楽に合わせた動きがとても自然だった。私は周囲の位置を確かめながら、殿下が安心して踊れるよう、そっと導いていく。
夜風がドレスの裾を揺らし、遠くから聞こえる音楽が私たちを包み込む。
殿下の手は温かく、すぐ近くに感じる息遣いに、胸が高鳴った。
私はそっと顔を上げ、殿下の穏やかな微笑みを見つめた。
(……ああ、私、本当にこの方が好きなんだわ)
その気持ちは、もう疑いようのないものだった。
傷を負ってから、私はずっと自分の顔を恥じてきた。誰かに愛されることなど、考えたこともなかった。
けれど、今は違う。
私はこの方の隣に立ちたい。
騎士としてだけでなく、ひとりの女性として。
そんな願いが、胸の奥から自然と溢れてきた。
私は殿下の手をそっと握り返し、静かに微笑んだ。
満天の星空の下、私たちは誰にも邪魔されることなく、ゆっくりと踊り続けた。
その夜のことを、私はきっと、一生忘れないだろう。




