第12話 王宮からの招待状
ルシアン殿下への恋心を自覚してから、数日が経った。
あの日以来、私は殿下とお話しするたびに、胸の奥が落ち着かなくなることが増えていた。以前なら何気なく受け取っていた優しい言葉も、今ではひとつひとつが特別に感じられてしまう。
それでも、ようやく普段どおりに振る舞えるようになってきた。少なくとも、殿下に声をかけられただけで必要以上に大きな返事をしてしまうことはなくなったし、護衛の仕事にも支障は出ていない。
私は今日も、いつもどおり殿下の執務室で護衛の任務に就いていた。
窓から差し込む秋の日差しが、机の上に置かれた書類を柔らかく照らしている。殿下は侍従が読み上げる報告書に耳を傾けながら、ときおり質問を挟み、必要な指示を出していらっしゃった。
その姿は、普段の穏やかな雰囲気とは少し違って見える。国の情勢や領地の問題について考えていらっしゃるときの殿下は、とても真剣で、私よりもずっと年上の方のように感じられることさえあった。
私はそんな横顔を見つめながら、そっと微笑んだ。
(……本当に、素敵な方だわ)
そう思った瞬間、また少しだけ頬が熱くなる。
私は慌てて視線を扉へ戻し、護衛の仕事に集中しようとした。
そのとき、控えめなノックの音が響いた。
「失礼いたします、殿下。王宮より、正式な封書が届いております」
入ってきたのはマーサだった。
彼女の手には、王家の紋章が刻まれた封書が載せられている。厚手の白い封筒には赤い封蝋が施され、いかにも格式の高い文書であることがわかった。
殿下は少しだけ首を傾げられた。
「王宮からですか。差出人は?」
「儀典局でございます。秋の祝賀舞踏会についてのご案内かと存じます」
マーサの言葉に、私は思わず封書へ視線を向けた。
秋の祝賀舞踏会。
王宮では毎年、収穫の季節に合わせて大規模な祝賀会が開かれる。王族や高位貴族だけでなく、各地の有力者や外交使節も招かれる、王国でも指折りの社交行事だ。
伯爵令嬢である私も、騎士団へ入る前には何度か出席したことがあった。
けれど、ここ数年は任務を優先していたため、王宮の舞踏会からはすっかり遠ざかっている。
殿下はマーサから封書を受け取ると、侍従に内容を読み上げるよう頼まれた。
「……王族の皆様には、原則としてご出席をお願い申し上げます、とのことです」
侍従が最後まで読み上げると、殿下は静かに頷かれた。
「……今年は、私にも出席してほしいようですね」
その言い方が、少しだけ気にかかった。
私は殿下の横顔を見つめながら、慎重に尋ねる。
「殿下は、普段あまり王宮の催しには出席されないのでしょうか?」
「ええ。以前はもう少し顔を出していたのですが、近年は離宮で過ごすことが多くなりましたから。こうした招待状も、形式的なものがほとんどだったのです」
殿下は穏やかな声で答えられた。
けれど、その言葉の奥には、私の知らない事情があるように思えた。
❀ ❀ ❀
マーサと侍従が退室したあと、私は改めて殿下に尋ねた。
「……差し支えなければ、お聞きしてもよろしいでしょうか。殿下が王宮から離れて暮らしていらっしゃるのは、何か理由があるのですか?」
殿下は少しだけ考えるような間を置かれた。
私は踏み込みすぎたかもしれないと思い、慌てて言葉を添える。
「申し訳ございません。お答えしづらいことでしたら、どうかお気になさらず……」
「いいえ。隠すようなことではありませんよ」
殿下は穏やかに微笑まれた。
「私は生まれつき目が見えません。そのため、王宮では私に大きな役割を期待していない方も多いのです。王位継承についても、私の名が話題に上がることはほとんどありません」
私は思わず眉を寄せた。
殿下は普段から多くの書類に目を通し、国の情勢について深く考えていらっしゃる。先日も、領地の報告書にあった数字の不自然さをすぐに見抜いていた。
そんな方が、目が見えないという理由だけで軽んじられているのだとしたら、あまりにも理不尽ではないだろうか。
「……ですが、殿下は政務についても深い知識をお持ちです。私などより、ずっと多くのことをご存じなのに……」
「ありがとうございます、セレナ殿。ですが、王宮にはさまざまな考えを持つ方がいらっしゃいますから」
殿下は少しだけ微笑まれたあと、静かに続けられた。
「私が見えないことと、国のことを考えられないことは、別の話です。ですから、私は私にできることを続けていこうと思っています」
その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
殿下はご自分の境遇を嘆くことなく、できることを見つけて前へ進んでいらっしゃる。私はそんな強さを、心から尊敬していた。
けれど、今回の招待状については、少し気になることもあった。
「……それにしても、今回は王族全員の出席を求めているのですね」
「ええ。儀典局がここまで明確に記すのは珍しいことです。何か事情があるのかもしれませんね」
殿下はそうおっしゃったけれど、それ以上詳しくは語られなかった。
私は王宮の事情に明るいわけではない。けれど、長く離宮で暮らしていらっしゃる殿下を、わざわざ公の場へ呼び戻そうとしていることには、何か意味があるように思えた。
殿下はしばらく考えたあと、静かに頷かれた。
「……今回は、出席することにしましょう。久しぶりに王宮の様子を知るよい機会にもなりそうです」
私は背筋を伸ばし、すぐに答えた。
「承知いたしました。では、護衛の準備を進めてまいります」
けれど、殿下は少しだけ笑って、私を呼び止められた。
「セレナ殿。実は、あなたにもお願いがあるのです」
❀ ❀ ❀
「……私に、でございますか?」
私は少し驚きながら、殿下の方へ顔を向けた。
殿下は穏やかに微笑まれたまま、静かに続けられる。
「もしあなたがよろしければ、今回の舞踏会には、私と一緒に来ていただけませんか?」
私はすぐに頷いた。
殿下が王宮へ向かわれるのであれば、護衛である私が同行するのは当然のことだ。久しぶりの王宮とはいえ、警備の確認や移動経路の把握など、準備するべきことは多い。
「もちろんでございます。殿下の護衛として、責任を持ってお供いたします」
「ふふ。もちろん、護衛としても頼りにしています。ですが、それだけではありません」
私は思わず首を傾げた。
殿下は少しだけ言葉を選ぶようにしてから、穏やかにおっしゃった。
「もしあなたがよろしければ、私のエスコート役として、一緒に来ていただきたいのです」
その瞬間、私は言葉を失った。
エスコート役。
つまり、王子である殿下の正式な同伴者として、舞踏会へ出席するということだろうか。
私は思わず自分の騎士服へ視線を落とした。
確かに私は伯爵令嬢だけれど、今は騎士として殿下に仕えている。社交の場からも長く離れているし、何より顔には大きな傷が残っていた。
そんな私が、王子の隣に立ってよいのだろうか。
「……殿下。私で、よろしいのでしょうか?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
殿下は少しだけ不思議そうに首を傾げられた。
「もちろんです。私は、あなたにお願いしたいと思っていますから」
その答えに、胸の奥が大きく跳ねた。
私は慌てて視線を落とし、どうにか平静を保とうとする。
殿下は私の戸惑いを感じ取られたのか、優しい声で続けられた。
「無理にお願いするつもりはありません。王宮は慣れない場所ですし、あなたにも負担をかけることになるでしょう。ですが、あなたと一緒なら、私も安心して過ごせると思ったのです」
その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
殿下は、私と一緒に行きたいとおっしゃってくださっている。
護衛としての信頼なのだろう。けれど、ほんの少しだけ、それ以上の意味があるのではないかと期待してしまう自分がいた。
(……いけないわ。殿下は、私を信頼してくださっているだけなのだから)
私は小さく息を整え、改めて殿下へ向き直った。
「……承知いたしました。私でよろしければ、喜んでお供いたします」
「ありがとうございます、セレナ殿。とても心強いです」
殿下は嬉しそうに微笑まれた。
その表情を見た瞬間、私も自然と笑みを返していた。
けれど、胸の奥では、もうひとつの問題が浮かび上がっていた。
王宮の舞踏会。
そこには、私がずっと避けてきた人々もいるのだ。
❀ ❀ ❀
「セレナ様が、殿下のエスコート役に!?」
事情を説明した瞬間、リネットが嬉しそうな声を上げた。
私たちは離宮の衣装室に集まり、舞踏会へ向けた準備について相談していた。マーサは落ち着いた様子で衣装の目録を確認しているけれど、リネットは今にも飛び跳ねそうなほど興奮している。
「すごいです、セレナ様! 殿下と一緒に舞踏会へ出席されるなんて、まるで物語の中のお姫様みたいです!」
「リ、リネット。そんな大げさなものではないわ。私はあくまで殿下の護衛として……」
「ですが、今回は正式な同伴者でもいらっしゃるのでしょう? でしたら、素敵なドレスをご用意しなくては!」
私は思わず困ったように笑った。
正直なところ、騎士服で同行するつもりだった。王宮の警備にあたるのであれば、動きやすい服装の方がよいし、剣も携帯しやすい。
けれど、マーサは静かに首を振った。
「今回は殿下の正式な同伴者として出席されるのですから、礼装を整える必要がございます。もちろん、護衛としての役目も果たせるよう、動きやすさには配慮いたしますが」
「……そうですか。では、ドレスを用意しなければなりませんね」
私は少しだけため息をついた。
伯爵令嬢として育った以上、舞踏会の作法を知らないわけではない。けれど、最後にドレスを着たのがいつだったか、すぐには思い出せなかった。
騎士団へ入ってからは、ほとんど毎日騎士服で過ごしてきたのだ。
そんな私の様子を見て、リネットが嬉しそうに手を合わせた。
「セレナ様! 以前お約束した髪の編み込みも、ぜひ私に任せてください! せっかくの舞踏会ですもの、きっと素敵に仕上げてみせます!」
「……そういえば、そんな約束をしていたわね。では、お願いしてもいいかしら?」
「もちろんです! セレナ様の綺麗な深紅の髪を、ずっと結ってみたかったんです!」
リネットは目を輝かせながら、さっそく髪型について考え始めた。
マーサも衣装の目録を見ながら、私に似合いそうなドレスをいくつか提案してくれる。
最終的に選んだのは、深い紺色の生地に銀糸の刺繍が施された、落ち着いた雰囲気のドレスだった。
華美すぎず、けれど王宮の舞踏会にもふさわしい上品なデザインで、肩や腕の露出も控えめになっている。これなら、私でも比較的落ち着いて着られそうだった。
「とてもよくお似合いになると思いますよ、セレナ様。凛とした雰囲気を活かしながら、女性らしい優雅さも感じられるお衣装です」
マーサの言葉に、私は少しだけ照れくさくなった。
リネットも嬉しそうに頷き、完成した姿を見るのが楽しみだと笑っている。
私はそんな2人の様子を見ながら、少しずつ舞踏会への期待が膨らんでいくのを感じていた。
❀ ❀ ❀
衣装の試着を終えたあと、私は鏡の前に立っていた。
深い紺色のドレスは、思っていた以上に身体によく馴染んでいた。銀糸の刺繍が柔らかな光を受けて輝き、普段の騎士服とはまったく違う雰囲気を作り出している。
リネットは髪を軽くまとめ、当日の髪型を確かめてくれた。いつもの高い位置で結んだ髪とは違い、編み込みを加えた深紅の髪が背中へ流れている。
私は鏡に映る自分を見つめ、少しだけ不思議な気持ちになった。
こんな姿になるのは、何年ぶりだろう。
けれど、その視線は自然と左頬へ向かってしまう。
頬から顎にかけて走る、大きな傷跡。
ドレスを着ていても、髪を綺麗に結っても、その傷が消えることはない。
私は無意識に、指先で傷へ触れた。
(……王宮には、あの人たちもいるのよね)
以前、舞踏会へ出席したときのことを思い出す。
傷を負ってから初めて社交の場へ顔を出したとき、周囲の貴族たちは私を見るなり、ひそひそと囁き合っていた。
かつては美しいと褒めてくれた令嬢たちも、今では私の顔を見て、気の毒そうに眉をひそめる。中には、傷を隠した方がよいのではないかと、親切そうな顔で勧めてくる者もいた。
私はそのたびに、何でもないような顔をしてきた。
けれど、本当は傷ついていた。
今度の舞踏会でも、同じような視線を向けられるのだろうか。
それも、ルシアン殿下の隣で。
「……マーサ。ひとつ、相談してもよろしいかしら?」
私は鏡から視線を逸らさず、静かに尋ねた。
マーサはすぐにそばへ来て、穏やかに頷いてくれた。
「はい。何でございましょう?」
「……顔の傷を隠すために、ヴェールを用意した方がよいでしょうか?」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
私はこれまで、傷を隠さずに騎士として生きてきた。けれど、王宮の舞踏会となれば話は別だ。殿下の同伴者として出席する以上、私の容姿が殿下の評判に影響することもあるかもしれない。
そんな不安を抱えながら、私はマーサの返事を待った。
彼女は少しだけ考えたあと、優しく微笑んだ。
「セレナ様が隠したいとお思いなら、もちろんご用意いたします。ですが、無理に隠す必要もないと思いますよ」
「……そう、でしょうか?」
「ええ。大切なのは、セレナ様ご自身が、どのようなお姿で出席したいかです」
私は静かに目を見開いた。
マーサは鏡に映る私の姿を見つめながら、穏やかに続ける。
「セレナ様は、とても立派な騎士でいらっしゃいます。そして、ひとりの女性としても、十分に素敵な方です。どうか、誰かの視線を気にして、ご自分を隠そうとなさらないでください」
その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
私はそっと左頬の傷へ触れた。
ルシアン殿下が、初めて私の顔に触れてくださった日のことを思い出す。
殿下は、傷があるからといって、私への気持ちは変わらないとおっしゃってくださった。
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
私はゆっくりと息を吸い、鏡に映る自分を見つめ直した。
「……ありがとう、マーサ。ヴェールは、必要ないわ」
私は静かに微笑んだ。
傷があることは、もう変えられない。けれど、それを恥じる必要まであるわけではないのだ。
私はこの顔のまま、殿下の隣に立ちたい。
そう思えたことが、少しだけ嬉しかった。
❀ ❀ ❀
夕方、私はルシアン殿下のもとを訪れ、舞踏会の準備について報告した。
殿下は執務室の椅子に座り、穏やかな表情で話を聞いてくださった。衣装の手配が進んでいることや、護衛の配置についてガレスと相談していることを伝えると、殿下は嬉しそうに頷かれた。
「ありがとうございます、セレナ殿。あなたが同行してくださると聞いて、私も少し楽しみになってきました」
「……そう言っていただけると、嬉しいです。ですが、王宮では何かとご不便をおかけすることもあるかもしれませんので、できる限りの準備をしてまいります」
私は真面目に答えた。
王宮には多くの貴族や使節が集まる。警備も複雑になるだろうし、殿下が不自由なく過ごせるよう、事前に確認しておくべきことも多い。
けれど、殿下は少しだけ笑って、静かにおっしゃった。
「王宮では、きっといろいろな方に声をかけられるでしょう。ですが、私はあなたがそばにいてくだされば、それだけで心強いです」
その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
殿下は私を信頼してくださっている。そのことが、何より嬉しかった。
けれど、同時に、少しだけ不安も残っていた。
私は王子の護衛であり、正式な同伴者として舞踏会へ出席する。そこで誰かに傷を嘲笑されれば、殿下にもご迷惑をおかけするかもしれない。
そんな考えが浮かび、私は思わず視線を落とした。
「……殿下。私が同伴者としてふさわしくないと、周囲の方々に思われるかもしれません。それでも、本当によろしいのでしょうか?」
殿下は少しだけ首を傾げられた。
そして、いつもの穏やかな声で答えてくださった。
「どうか、いつものあなたでいてください。私がご一緒したいのは、ほかの誰でもない、セレナ殿なのですから」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸がいっぱいになった。
殿下は、私がどんな姿であっても、私自身と一緒にいたいとおっしゃってくださっている。
それが嬉しくて、私は思わず微笑んだ。
「……ありがとうございます、殿下。私、精一杯務めさせていただきます」
「ふふ。あまり気負わなくても大丈夫ですよ。せっかくの舞踏会ですから、あなたにも楽しんでいただきたいです」
殿下はそうおっしゃって、優しく微笑まれた。
私は小さく頷き、胸の奥に温かな気持ちが広がっていくのを感じた。
❀ ❀ ❀
夜、自室へ戻った私は、机の上に置いた招待状の写しを見つめていた。
王家の紋章が刻まれた封書には、数日後に開催される祝賀舞踏会の日時と場所が記されている。
私はその文字を眺めながら、静かに息を吐いた。
王宮へ戻るのは久しぶりだ。
そこには、かつて私を嘲笑った貴族たちもいるだろう。傷を見て顔をしかめる者も、心ない言葉を投げかけてくる者もいるかもしれない。
けれど、もう以前の私とは違う。
私はそっと剣の柄へ手を伸ばし、深紅のリボンに触れた。
殿下が私のために選んでくださった、大切な贈り物。
その温かな気持ちを思い出すだけで、不思議と勇気が湧いてくる。
私は鏡の前へ立ち、左頬の傷を見つめた。
傷は消えない。これからもずっと、私の顔に残り続けるだろう。
けれど、それも私の一部なのだ。
騎士として戦い、誰かを守ろうとしてきた証。そして、あの日から今日まで生きてきた証でもある。
私はゆっくりと息を吸い、鏡に映る自分へ小さく微笑んだ。
(……もう、誰かの視線を恐れて逃げたりしない)
私は殿下の隣に立つ。
騎士として、そして、ひとりの女性として。
その決意を胸に、私は静かに灯りを消した。
数日後、私は久しぶりに王宮へ足を踏み入れることになる。
そこにどんな出来事が待っているのか、今の私にはまだわからない。
けれど、ルシアン殿下と一緒なら、きっと大丈夫。
私はそう信じながら、静かな夜の中で目を閉じたのだった。




