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幕間 大事な髪


「アルちゃんは今日も髪が綺麗ねぇ」


「当然よ!毎日ちゃんと手入れしてるもの」


十一歳のアルターナは、鏡台の前でつんと澄ました顔をしていた。


母のミルシアが、後ろから丁寧に櫛を通していく。


ほんのり赤みがかった髪が、光を受けてつやつやと輝いた。


「本当に、綺麗な髪…アルちゃんの自慢よね」


「そうなの!私の一番好きなところだもの!」


満足げに頷きかけて、アルターナは、ふと動きを止めた。


「……ねえ、お母様」


「なあに?」


「……ネオリムよりもきれい?」


その一言に、ミルシアの手が、一瞬だけ止まった。


「……あら」


「だって……あいつ、私よりずっと綺麗な顔してるじゃない」


アルターナは、鏡の中の自分を、じっと睨むように見つめた。


肌も、目元も、輪郭も。他の子達よりかわいいって、お父様からもお姉様からも、お兄様からだって言われる。でも…


婚約者のあの少年は、それ以上だった。


女の子みたいに整った顔。長い睫毛。


──悔しいけれど、認めざるを得ない。あの少年の方が、自分より、ずっと"綺麗"だった。


「……なんか、悔しいの」


鏡を見つめながらアルターナは呟いた。


「私の方が、女の子なのに」


ミルシアは、しばらく黙って娘を見つめていた。


それから、櫛を置き、鏡越しにアルターナと目を合わせた。


「当然よ」


「……え?」


「アルちゃんの髪の方が、綺麗に決まってるじゃない」


「……でも、顔は」


「顔だって、確かにあの子も綺麗だけれど、きっとすぐに顎もシュッとして印象が変わるわ。お母様の見立てだとねぇ……格好良くなるわ。あの子は。」


ミルシアは、ゆっくりと娘の肩に手を置いた。


「比べる必要なんて無いのよ、アルターナ」


「……」


「アルターナ、あなたは可愛くなりたいの?格好良くなりたいの?」


「…可愛い方がいいわ」


「ネオリム君は格好良くなりたいって言ってたわよ」


「なんで?あんなに可愛いのに、勿体無いわ!」


「あなたは、あなたなんだから」


そう言って、ミルシアは、娘をぎゅっと抱きしめた。


アルターナは、しばらくされるがままになっていた。


──分かっている。母の言葉は、正しい。


でも。


(……悔しいものは、悔しいのよ)



その日から、アルターナは、鏡の前で自分の髪をひと房つまみ、見つめるのが習慣になった。


顔では、あの女顔に敵わない。


だったら、髪だけは、誰にも負けないくらい大事にしてやる。


——そう決めた日でもあった。



〜〜〜



それから三年後、十四歳の頃。


公爵家の庭園を並んで歩かされながら、アルターナは隣を歩くネオリムを、こっそり睨んでいた。


(……やっぱり、腹立つ)


風が強く吹いた。


アルターナの長い髪が、ふわりと舞い上がる。


「きゃっ」


咄嗟に押さえようとした、その時。


隣を歩いていたネオリムの手が、ちょうど髪に触れた。


──絡まった。


正確には、彼の袖のボタンに、アルターナの髪の一房が引っかかった。


「……っ、痛っ」


「……あ」


ネオリムが、慌てて手を引こうとする。


だが、慌てたせいで、余計に強く引っ張ってしまった。


「痛いっ! ちょっと、なにするのよ!」


「わざとじゃない」


「わざとじゃなくても痛いのよ!」


数秒の格闘の末、ようやく髪はボタンから外れた。


だが、アルターナの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


痛みよりも──自分が一番大事にしているところを、よりによってこの男に乱暴に扱われたことが、悔しかった。


「……っ、う……」


こらえきれず、涙がぽろりとこぼれる。


「……泣くほどか」


その声には、いつもの皮肉げな響きは無かった。

ただ、純粋に動揺している声だった。



〜〜〜



「……髪、切れてないか」


ネオリムはアルターナの髪に触れないよう、少し距離を置いたまま顔を覗き込んできた。


「切れてはいないけど……痛かったのよ」


「……そうか。悪かった」


「本当に痛かったんだから」


「分かっている。……この後、腫れたりはしないか」


「髪に腫れるも何もないでしょ」


「……頭皮は分からない。あとで確認させてくれ」


「気持ち悪いこと言わないでよ」


「……確認しないと、安心できない」


口調こそいつも通り、淡々としている。


だが、言っていることは、いつもの彼らしくなかった。


言い訳もしない。反論もしない。ただひたすら、アルターナの髪の心配ばかりしている。


アルターナは、涙目のまま、じっとその様子を見ていた。


──あのネオリムが、こんなに素直に狼狽えている。


痛みはまだ残っていたが、それを見ているうちに、じわりと、悪くない気分が込み上げてきた。


(……ふぅん)


「……酷いわ、私の一番大事な髪を」


わざと、声を震わせてみせる。


「悪いと思っている」


「痛かったのよ、すごく」


「分かっている。……何をすれば、許してもらえる」


「なんでもする?」


「する」


あまりに即答だったので、アルターナは、つい調子に乗って、あれこれと無茶を言い始めた。


「……じゃあ、しばらく、私の言うこと聞きなさい」


「分かった」


荷物を持たせても、「分かった」


意地悪なことを言わせてみても、「分かった」


果てには「跪いて謝りなさいよ」と言ってみても——


「……分かった」


本当に、跪いた。


そうしながらも、その視線は、ずっとアルターナの髪の生え際あたりに注がれていた。


「……傷になっていないか、心配だ」


「跪きながら言うことじゃないでしょ、それ」


「跪くことと、髪の心配は、両立する」


「意味分かんない」


だが、ネオリムは大真面目な顔をしていた。



〜〜〜



その日の夜。


エスカディオ公爵家から、メディール侯爵家へ、一通の手紙が届いた。


『本日、ネオリムの不注意により、アルターナ様の髪に怪我を負わせてしまったとのこと、深くお詫び申し上げます……』


丁寧な謝罪の言葉が、便箋にびっしりと綴られていた。


どうやらネオリムが、屋敷に戻るなり顔面蒼白で父親に報告したらしい。


たかが髪が引っかかった程度の出来事が、いつの間にか公爵家を巻き込む、ちょっとした騒動に発展していた。


「……あら、まあ」


手紙を読んだミルシアは、目を丸くした。


「アルちゃん、これ、そんなに大事だったの?」


「……別に、大したことないわよ」


アルターナは、そっぽを向いて答えた。


内心では、少しだけ、ばつが悪かった。


──あそこまで律儀に反省するとは、思っていなかったのだ。

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