25話 二通目の手紙
一人になった執務室で、ネオリムはしばらく動かなかった。
手紙は、まだ机の上にある。
折れた隅を、もう一度指先で撫でる。
(……同居が嫌なわけではない、か)
アシュリーの言葉を、頭の中で何度も転がした。だが、その先が見えない。
同居が嫌なわけではないのなら、何が悪かったのか。理由は書いた。事実も並べた。筋は通っていたはずだ。
なのに、彼女はそれを“書類の手続き”と言った。
(……分からない)
分からないことが、落ち着かない。
普段なら、分からないことがあれば調べればよかった。
資料を漁り、答えを探せばいい。
だが、これにはそういう類の答えが存在しない。
コンコン、と控えめなノックが響いた。
「……入れ」
「失礼いたします、坊ちゃま」
入ってきたのは、老執事のロガートだった。
「坊ちゃまと呼ぶな」
「これは失礼を」
ロガートは軽く頭を下げると、机の上に空になった茶器を下げようと近づいた。だが、その手が一瞬、机の端の手紙で止まる。
「……おや」
「見るな」
「これは失礼いたしました」
そう言いながらも、ロガートは特に慌てた様子もなく、茶器を静かに片付け始めた。
ネオリムは、その落ち着き払った態度を横目で見ながら、ふと口を開いた。
「……ロガート」
「はい」
「お前は、長く仕えているな」
「もう三十年以上になりますね」
「なら、聞くが」
言いかけて、少し言葉に迷う。
「……女性が、本気で怒っている時と、そうでない時。見分けがつくか」
ロガートは、茶器を下げる手を止めた。
「……坊ちゃまが、そのようなことをお聞きになるとは、珍しいですね」
「聞いているのはお前の見解だ。感想はいらない」
「これは、これは」
ロガートは軽く笑い、茶器を盆に置くと、姿勢を正した。
「……差し支えなければ、何があったかお伺いしても?」
ネオリムは、しばらく黙っていた。
だが、他に相談できる相手もいない。少なくとも、双子よりは、この執事の方が長く人間を見てきているだろう。
ネオリムは、要点だけをかいつまんで話した。
手紙を送ったこと。同居を提案したこと。彼女がひどく怒って帰ったこと。そして、その理由がまだよく分からないこと。
話を聞き終えたロガートは、静かに頷いた。
「……なるほど。手紙の文面は、拝見してもよろしいですか」
「……好きにしろ」
言ってから、ネオリムは一瞬だけ、机の上の手紙に視線を落とした。
——双子には、既に見せている。血の繋がった子供だと分かっている相手に見せるのは、まだいい。多少格好が悪くとも、家族という前提がある。
だが、ロガートは違う。
物心つく前から傍にいて、剣の稽古で泣いた日も、初めて婚約者と喧嘩をして拗ねた日も、ずっと見てきた男だ。ある意味では、父よりも長く自分の失敗を知っている。
その人間に、婚約者への手紙——それも、詰めが甘く、独りよがりだったと分かっている手紙を見せる。
(……いや、今更だ)
差し出したのは自分だ。今更取り下げるのも体裁が悪い。
ネオリムは、表情には出さないよう努めながら、内心だけでひとつ息を吐いた。
ロガートは手紙を手に取り、目を通した。
『単刀直入に言う。エスカディオ家にしばらく住んでもらいたい。
双子から聞いた話では、僕たちはそう遠くない時期に結婚することになるらしい……』
ロガートの視線が、そこで一瞬止まった。
さらに読み進める。
『同居についても、婚姻を前提とした話であれば、外聞上も問題はない』
今度は、少し長く止まった。
ネオリムは、その沈黙がやけに長く感じられた。
(……何も言わなくていい。ただ読んでいるだけだ)
そう自分に言い聞かせても、無言でじっと文字を追われるというのは、思っていたより落ち着かないものだった。
ロガートの眉が、ほんのわずかに動いた。
たったそれだけの変化なのに、ネオリムは思わず机の端に視線を逃がした。
——今、どこを読んでいる。
(“外聞上も問題はない”のあたりか。それとも——)
考えたくもないのに、頭の中で先回りしてしまう。自分で書いた文章のはずなのに、双子に指摘された粗ばかりが頭に浮かぶ。
ロガートは、時折小さく頷きながら読み進めていく。
その“小さな頷き”の意味が分からず、ネオリムは余計に落ち着かなくなった。
——肯定の頷きなのか。呆れの頷きなのか。
『部屋はこちらで用意する。必要なものがあれば言え。
返事は急がない。ただし、双子の監督上、早い方が助かる』
最後まで読み終えると、ロガートは小さく息を吐いた。
その息の吐き方に、呆れが多少混じっている気がして、ネオリムは思わず視線を逸らした。
しばらく、ロガートは何も言わなかった。
手紙を持ったまま、もう一度、ゆっくりと文面を目で追っている。
——この執事、二回読み返している。
その事実に気づいた瞬間、ネオリムは、いっそ今すぐ手紙を取り上げてしまいたい衝動に駆られた。
「……何か言ったらどうだ」
我慢しきれず、そう促す。
自分でも、声が普段より早口になっているのが分かった。
ロガートは、ようやく顔を上げた。
その顔に浮かんでいたのは、嘲りでも呆れでもなく
——長年仕えた主人の息子を見る、どこか懐かしむような、柔らかい表情だった。
それが、かえって居た堪れなかった。
「……坊ちゃま」
「なんだ」
努めて平静な声を出したつもりだったが、いつもより少し硬くなった自覚はあった。
「これは、少々乱暴な物言いになりますが」
「言え」
「坊ちゃまは、ご自分の考えを説明することには、大変長けていらっしゃいます。ですが」
ロガートは、手紙をそっと机に戻した。
「相手の考えを、お尋ねになる習慣が、あまりございませんね」
ネオリムは、何も言い返せなかった。
「……どういう意味だ」と、聞き返すべきなのは分かっていた。だが、聞くまでもない。同じことを、もう聞いている。
「この手紙には、坊ちゃまがどう考えたか、何を合理的だと判断したか、そういったことは、詳しく書かれております」
「……事実だからな」
かろうじて、それだけ返した。
昨日、同じことを言った時は、もう少し強く言えた気がする。今は、なぜか語尾が弱い。
「ええ。ですが」
ロガートは、ゆっくりと続けた。
「アルターナ様が、どう思われるか。同居について、結婚について、彼女ご自身がどうお考えなのか。そういった問いかけは、一つも書かれておりません」
「……」
反論する言葉が、見つからなかった。
——見つからない、というより、持っていないのだ。この指摘は、昨日のうちに、彼女自身の口から聞いている。
「加えて、こちらの一文」
ロガートは、手紙の中ほどを指先で示した。
「“結婚することになるらしい”。この書き方ですと、まるで、坊ちゃまご自身の意思が、そこにないように読めます」
「……事実だから、そう書いただけだ」
言ってから、しまったと思った。
それは、昨日、双子に問い詰められた時にも使った言い訳だ。あの時ですら、大して効果はなかった。
案の定、ロガートは静かに首を振った。
「事実であっても、です。婚姻を伝える一文としては、いささか他人事に過ぎるかと」
「……」
反論を重ねるほど、自分の声が惨めに響く気がして、ネオリムはそれ以上何も言わなかった。
「それから、こちらも」
「……分かっている」
先回りして遮る。
「“外聞上も問題はない”、だろう」
「はい」
ロガートは、静かに頷いた。
「この一文だけを見れば、婚姻そのものが、体裁を整えるための道具であるかのように読めてしまいます。前後に他の理由が並んでいるせいで、なおのこと」
「……もう、分かっている」
声が、少し小さくなった。
同じ指摘を、もう二度も——アルターナと、双子から——受けている。三度目を、今、この老執事の口からも聞かされている。
いい加減、堪えた。
「坊ちゃま。同居を提案されたのは、なぜですか」
「……理由は、手紙に——」
「手紙に書かれた理由は、外聞のためであり、双子の監督のためです。ですが、それだけですか?」
ネオリムは、少し黙った。
——彼女が、毎日のように屋敷に来るようになった。
その事実を思い浮かべても、特別な感慨はない……はずだった。
ただ、不便だとは思わなかった。彼女がいる日は、書類の処理も特に滞ることはなかったし、いない日は、いつも通り屋敷は静かだった。
それだけのことだ。
「……彼女が来るようになって、都合が良かった。それだけだ」
「都合が、ですか」
「ああ。効率的だった。彼女がいれば、双子の監督も楽になるし、社交界への対応も——」
「……それは」
ロガートが、静かに言葉を挟んだ。
「お手紙に書かれていることと、同じですね」
「……」
ネオリムは、黙った。
自分でも、今言った言葉が、あの手紙の文面とほとんど変わらないことに、遅れて気づいたからだった。
ロガートは、しばらくネオリムを見つめていた。
「……坊ちゃま」
「なんだ」
「もう少し、素直に仰ってもよろしいのでは?」
「……何がだ」
「さあ。私には分かりかねますが」
言葉は分からないと言いながら、その顔には、何か含みのようなものがあった。
ネオリムは、それ以上聞くのも億劫で、話を切り上げようとした。
「そういえば」
ロガートが、ふと思い出したように続けた。
「お手紙に、“部屋はこちらで用意する”とございましたが」
「……それが、何だ」
「どちらのお部屋を使用されるおつもりだったのですか?」
「……西棟の、客間だ」
さして深く考えず、答えた。
「西棟、ですと……」
ロガートは、少し考えるように視線を上げた。
「以前、来客用に整えさせたお部屋ですね。もう何年も使われていなかったかと」
「……そうだったか」
「はい。他にも空いている部屋はございますが」
「……別に、どこでもいい。ただ、あそこが静かだと思っただけだ」
「左様ですか」
ロガートは、それ以上は特に何も言わず、静かに頷いた。
その頷き方に、何か言いたげな気配はあったが、口には出さなかった。
ネオリムは、少しの間、その沈黙を落ち着かない気分で受け止めていたが、やがて話を切り上げるように言った。
「……もういい。他に何かあるか」
「いいえ、特には」
ロガートは、一礼した。
「差し出がましいことを申しました。年寄りの戯言と思っていただければ」
「……いや」
ネオリムは、机の上の手紙を、もう一度見た。
自分の書いた文字が、今度は少し違って見えた。
理路整然として、隙のない文章。だが、そこには自分の姿が、どこにもなかった。
「……ロガート」
「はい」
「馬車の準備を頼む」
「……今からでございますか?」
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
「いや」
ネオリムは、少し考えてから言い直した。
「明日の朝一番だ」
ロガートは、一瞬だけ目を丸くしたあと、静かに、深く頭を下げた。
「かしこまりました」
〜〜〜
その夜、ネオリムは机に向かい、便箋を広げた。
一度、ペンを止める。
前回は、事実と理由を並べた。合理性を積み上げた。それが正しいと思っていた。
だが今度は、違う書き方をしなければならない。
——分かっている。分かっているのに、いざ書こうとすると、言葉が出てこない。
何度も書き出しては、破り捨てた。
『アルターナへ、先日は——』
(……違う。言い訳から入るな)
『先日の手紙について、訂正——』
(……これも違う。訂正、じゃない)
しばらく唸ったあと、ネオリムはようやく、短い一文だけを書き記した。
『明日、会いに行く。話がしたい。——ネオリム』
それだけだった。
理由も、合理性も、何も書かなかった。
書けなかった、というのが正確かもしれない。
だが、なぜかそれで良い気がした。
封をして、机の端に置く。
窓の外では、月が静かに浮かんでいた。
〜〜〜
翌朝。
メディール侯爵家の朝は、いつもより少しだけ静かだった。
「お嬢様、お手紙です」
フローラの声に、アルターナは寝台の上でぴくりと反応した。
「……エスカディオ家?」
「はい」
アルターナは、身を起こしながら、努めて興味なさそうな声を作った。
「……そこに置いといて」
「読まれないんですか?」
「後で読むわ」
「……はあ」
フローラは、机の上に手紙を置いて一礼し、部屋を出ていった。
一人になった部屋で、アルターナはしばらく寝台の上でクッションを抱えていた。
数分後。
「……」
我慢できず、寝台から降りて机に向かう。
手紙を開けると、文面は、驚くほど短かった。
『明日、会いに行く。話がしたい。——ネオリム』
それだけ。
「……は?」
理由もない。前置きもない。合理性の欠片もない。
「なによ、これ……」
思わず呟く。
だが、その声には、先日のような棘はなかった。
短すぎる文面を、何度も読み返す。
——会いに行く。話がしたい。
たったそれだけの言葉。それなのに、胸の奥がひどく落ち着かない。
「……フローラ!」
「はい、お嬢様!」
すぐに扉が開く。まるで待ち構えていたかのような速さだった。
「今日、何か予定は」
「特にございません」
「……そう」
「エスカディオ家からのお手紙、読まれたんですね」
「うるさい」
「顔が赤いですよ」
「気のせいよ!」
〜〜〜
昼を少し過ぎた頃、メディール侯爵家の門前に、一台の馬車が止まった。
出迎えに出た使用人が、慌てて奥へ知らせに走る。
「アルターナ様、ネオリム様がお越しになりました」
アルターナは、鏡の前で何度も髪を直していた手を、ぴたりと止めた。
「……分かったわ」
短く答え、深呼吸をひとつ。
それから、いつも通りの、涼しい顔を作って部屋を出た。
——庭に案内されたネオリムは、いつもより、少しだけ硬い顔をして立っていた。
「……来たわね」
「……ああ」
二人は、しばらく黙って向かい合った。
風が、庭の花を揺らしている。
先に口を開いたのは、ネオリムだった。
「……昨日は、悪かった」
「もう聞いたわよ、それ」
「言葉だけでは、足りないと言われた」
「誰に」
「……色々な人間に」
アルターナは、少しだけ眉を上げた。
「それで?」
ネオリムは、一度、視線を落とした。
それから、まっすぐアルターナを見た。
「君の気持ちを、聞いていなかった」
「……」
「同居について、結婚について、君がどう思っているか。一度も、聞かなかった」
アルターナは、何も言わなかった。
「それから」
ネオリムは、少し言葉に詰まりながら続けた。
「僕の気持ちも、書かなかった」
「……気持ち?」
「同居を提案した理由は、外聞のためだけじゃない」
ネオリムの声は、いつもより少し小さかった。
「君が、毎日のように屋敷へ来るようになって……その、僕は」
そこで、言葉が止まった。
アルターナは、じっと待った。
「……僕は」
もう一度、同じところで止まる。
「……」
「……」
沈黙が続く。
アルターナは、しばらく辛抱強く待っていたが、次第に眉を寄せた。
「……僕はなによ」
「……いや」
「いやじゃないでしょう。言いかけたなら最後まで言いなさいよ」
「……今のは、忘れてくれ」
「忘れられるわけないでしょう!誰があんな中途半端なところで止めるのよ!」
「中途半端でいい。今はまだ」
「よくないわよ!“僕は”の後になによ!?」
「……言う必要が、今はない」
「あるでしょうが!言いかけといて隠すとか、性格悪すぎるでしょう!」
「性格の話は関係ないだろう」
「関係あるのよ、こういう時のあんたの態度全部含めて言ってるの!!」
「話が飛躍している」
「してない!ちゃんと”僕は”の続きを言いなさいって言ってるだけよ!」
「……」
「なによ、また黙るの?」
「黙っているんじゃない。言葉を選んでいる」
「選ぶのに何分かかるつもりよ」
「君が急かすからだろう」
「急かさなきゃ一生言わないでしょう、あんた」
売り言葉に買い言葉で、いつしか、先ほどまでの神妙な空気はどこかへ消えていた。
ネオリムは、こめかみを押さえた。
「……少し、静かにしてくれないか」
「静かにする理由がないわ」
「僕が話す気を失くす」
「元から話す気なんてなかったくせに!」
「話す気は、ある」
「じゃあ話しなさいよ!」
「今、君がうるさいから、まとまらない」
「うるさくしてるのはどっちよ!先に黙り込んだのはそっちでしょう!?」
言い合いながら、アルターナはふと、自分でも少し可笑しくなってきた。
——さっきまで、あんなに真剣な顔をしていたくせに。
結局、いつも通りの言い合いになっている。
だが、なぜだろう。
それが、そこまで嫌ではなかった。
「……はぁ」
先に息を吐いたのは、アルターナだった。
「……なによ、その顔」
「別に」
「今、なんか思ったでしょう」
「思ってない」
「絶対思った」
「思ってない」
「思った」
「思ってない」
「思った」
「思っていないと言っている」
しばらく睨み合った後、アルターナは仕方なさそうに、少し声を落とした。
「……もういいわ。“僕は”の続きは、また今度」
「……今度、とは」
「そのうち、機嫌がいい時にでも聞いてあげる」
「……上から目線だな」
「文句あるの?」
「……いや」
ネオリムは、それ以上は言わず、視線を庭のほうへ逃がした。
その横顔が、いつもよりほんの少し、赤く見えた気がした。
だが、それを指摘すれば、また蒸し返すことになる。
アルターナは、あえて何も言わず、隣に座り直した。
「……とりあえず、座りなさいよ」
先ほどと同じ台詞を、もう一度言う。
ネオリムは、素直に頷いた。
「言うわ」
「……何を」
「私の気持ちも聞きたいんでしょう」
ネオリムは、少しだけ驚いたような顔をした。
「……ああ」
「じゃあ、聞きなさい」
風が、また吹いた
二人の話し合いが、そこから始まった。




