24話 突き返された手紙
エスカディオ公爵家の執務室は、いつにも増して重い空気に包まれていた。
「……父さん、さっきから同じ書類、四回見てますよ」
アシュリーの指摘に、ネオリムはのろのろと顔を上げた。
「……そうか」
「そうか、じゃなくて」
書類の束を机に置き直しながら、アシュリーは眉をひそめる。
普段のネオリムなら、事務仕事は誰よりも速い。だが今日は、万年筆を持ったまま何分も同じ行を睨んでいたり、かと思えばため息をついて窓の外を見たり。
明らかに、様子がおかしい。
「……お兄ちゃん、パパ、大丈夫かな」
扉の隙間からこっそり覗いていたリシュアが、小声で言う。
「大丈夫には見えない」
「だよね」
「原因は分かる」
「ママのことだよね」
「…ああ」
二人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。
〜〜〜
その日の午後、双子は「父を元気づける作戦」を決行した。
「パパ!好きな食べ物、用意しました!」
リシュアが得意げに差し出したのは、厨房から急いで持ってきた木の実がたっぷり入った焼き菓子だった。
ネオリムは無言でそれを見つめた。
「……」
「あっ」
リシュアは自分の失敗に気づき、慌てて皿を引っ込めた。
そうだ。パパは歯に挟まるものが嫌いなんだった。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、いい」
「じゃあ、これは!」
今度はナッツの入っていないクッキーを差し出す。
ネオリムは少し見つめた後ひとつ摘み、口に運んだ。リシュアはドキドキしながらその様子を見守る。
咀嚼する。
飲み込む。
「……美味い」
「よかった……!」
だが、表情はまったく晴れなかった。
いつもなら「美味い」のひと言のあとに、「お前も食べたらどうだ」とか言って、そっけなくもどこか穏やかな時間があるはずだった。今日はそれすらなく、味わったかどうかさえ怪しい。
〜〜〜
リシュアから「お菓子作戦はダメだった…」と聞いたアシュリーは、ネオリムに渡すつもりだったお菓子を平らげた後、ネオリムのいる部屋に向かった。
「ジルニア殿下でもお呼びしますか」
アシュリーが半ば投げやりに提案すると、ネオリムは即座に顔を上げた。
「やめろ」
「即答ですね」
「あいつが来たら余計に面倒が増える」
「ですよね」
一瞬で却下された案は、静かに闇に葬られた。
〜〜〜
結局、その日の夕方まで、双子たちが必死にご機嫌を取ろうとしても、ネオリムの様子は変わらなかった。
書類の処理速度は普段の半分以下。
紅茶は何度も冷めるまで放置され、菓子にはほとんど手をつけない。心なしか、いつもよりも背中が丸まっているようにさえ見える。
「……もう、直接聞くしかないと思う」
リシュアが小声で言うと、アシュリーも頷いた。
「だな」
二人は執務室の扉を、きちんとノックしてから開けた。
「父さん」
「なんだ」
「何があったんですか」
ネオリムは、一瞬だけ答えを渋るような表情をした。
だが、双子の真剣な顔を見て、諦めたようにため息をついた。
「……これを見ろ」
机の端に置かれていたのは、一枚の手紙だった。
自分が書いて、アルターナに送った、あの手紙。
——執務室に叩きつけるように置いていかれた、その現物だった。
隅が少し折れている。よほどの勢いで机に置かれたのだろう。
リシュアとアシュリーは、並んでそれを覗き込んだ。
〜〜〜
リシュアが先に、そろりと顔を上げた。
「……パパ」
「なんだ」
「これ、送ったんですか?本当に?」
「送った」
「そのままの文面で?」
「そのままの文面だ」
リシュアは何とも言えない顔で、もう一度手紙に目を落とした。
「……えっと」
「なんだ」
「同居のこと、ちゃんと書いてありますし……理由も、その、ひとつひとつは間違ってない、ですよね?双子の監督とか、行き来が大変とか」
「……そうだな」
いつもなら「そうだ、事実に基づいている」と、自分の正当性を述べているところだろう。だが、ネオリムの声には、今日は覇気がなかった。
「じゃあ、何がいけなかったんでしょう……?」
リシュアは本気で首を傾げていた。
彼女には、手紙のどこに問題があるのか、いまひとつピンときていないらしい。
その隣で、アシュリーは黙って最後まで読み切り、静かに紙を机に置いた。
「……これはダメでしょ」
リシュアが驚いたようにアシュリーを見る。
「え、そうなの?」
「そうだよ」
「どこが……?」
「お前、本気で分からないのか」
「うん。理屈は通ってると思うけど……」
アシュリーは深くため息をついた。
「まず“結婚することになるらしい”。他人事すぎる」
「……それは、僕も言われた」
ネオリムが、ぽつりと言った。
「アルターナにも、同じようなことを指摘された」
「あ、そうなんですね」
「……悪いとは、思っている」
その声は、思いのほか小さかった。
アシュリーとリシュアは、少し驚いたように顔を見合わせた。
いつものネオリムなら、もう少し理屈で応戦してくるだろうと身構えていたのだろう。
「そもそも」
アシュリーが、ふと首を傾げた。
「そもそも、なんで急に同居の話なんてしようと思ったんですか?エルヴィンおじい様に言われた…とかですか?」
その問いに、ネオリムは一瞬だけ黙った。
「……いや、父上に言われたわけではない」
「じゃあ、なんでですか」
ネオリムは、少し言葉を探すように視線を落とした。
「……結婚の時期が、明確になったからだ」
「時期?」
「お前たちの話から、僕らが来年結婚するらしいということが分かった。それなら、いつまでも曖昧にしておく必要はないと思った」
「それで、手紙に書いたんですね。“結婚することになるらしい”って」
「……ああ」
「じゃあ、あの手紙は」
アシュリーが、少し考えるように言う。
「一応、母さんに伝えたいことがあって書いたわけですよね。ただの事務連絡じゃなくて」
「……そうだ」
ネオリムは小さく頷いた。
「時期が分かったのなら、彼女にも伝えるべきだと思った。それは、間違っていないはずだ」
「うん、そこは分かります」
「じゃあ、なんで同居まで一緒に書いたんですか?結婚の時期を伝えるだけなら、同居の話、別にしなくてもよかったですよね」
アシュリーの問いに、ネオリムはまた黙った。
しばらくして、ぽつりと言う。
「……お前たちが来てから、彼女がここに来る回数が増えたことに、気づいていたか」
「え?」
「双子の監督。魔道具の研究。理由をつけて、彼女は毎日のようにここへ通っている」
「……はい」
「以前は、そうではなかった」
ネオリムは、窓の外に目をやった。
「以前の彼女は、僕の屋敷になど、滅多に来なかった。誘っても、理由をつけて断られることの方が多かった」
「……」
「それが、お前たちが現れてから、変わった。毎日のように顔を出すようになった」
リシュアとアシュリーは、顔を見合わせた。
「……それ、あの、私たちのせいですか」
「せいとは言っていない」
ネオリムは少し眉を寄せた。
「だが、事実として、彼女の行動は明らかに変わった。そして、それを社交界の人間が気づかないはずがない」
「……あ」
アシュリーが、何かに気づいたような声を上げた。
「外聞、ですか」
「そうだ」
ネオリムは頷いた。
「婚約者同士とはいえ、これまで滅多に顔を合わせなかった二人が、急に毎日のように行き来している。理由もなしにそれが続けば、いずれ誰かが疑問を持つ」
「…俺たちのことを、勘繰られる可能性がある、と」
「その通りだ」
「だから、同居っていう、堂々とした理由を作った、ってことですか」
「……そうだ」
ネオリムは、机の上の手紙を見つめた。
「結婚を控えた婚約者が同居する。それなら、誰も怪しまない。彼女が毎日ここに来ることにも、正当な理由がつく」
「……なるほど」
リシュアが、小さく呟いた。
「じゃあ、あの手紙、本当は、ママのことを考えて書いたんですね」
「……」
ネオリムは、何も答えなかった。
ただ、少しだけ、視線を逸らした。
「……なのに」
アシュリーが、少し呆れたように言う。
「なんで、その理由、ちゃんと書かなかったんですか」
「……理由は、書いた」
「双子の監督とか、行き来が大変とか、そういう表向きの理由はありましたけど。今言った、外聞っていう言葉についての細かいこととか、母さんを気遣ってのこととか、そういうのは一言も」
「……」
「だから母さんは、“外聞上も問題ない”って一文だけを見て、自分が体裁のための道具にされてるみたいに感じたんじゃないですか」
ネオリムは、何も言い返せなかった。
「……たぶん」
しばらくの沈黙の後、ネオリムがぽつりと言った。
「たぶん、彼女は、僕と同居すること自体が、嫌なんだろう」
アシュリーとリシュアは、揃って固まった。
「……は?」
「え?」
「今の話、聞いてました?」
アシュリーが、思わず声を上げた。
「同居の理由、ちゃんとあったじゃないですか。母さんのことを考えてのことだったんですよね」
「考えは、あった。だが、それが彼女に伝わらなかった。もう、彼女は僕と話す気もないだろう」
「伝わらなかったのは、書き方の問題でしょう」
「同じことだ」
「同じじゃないですよ!」
リシュアも、慌てて口を挟もうとして――ふと、言葉を止めた。
未来で、何度か見た光景がある。
母が、父に対して本気で怒っている時。
たいてい黙り込むか、皮肉を言うかのどちらかだった。声を荒げて、真正面から理由を並べ立てて怒るところは、あまり見た記憶がない。そういう時は怒っているというよりも、父の不器用さにただ呆れているような……
「……あの」
リシュアは、自分の考えを言葉にするように、ゆっくり続けた。
「お母様、たぶん、本当に嫌なことがあった時は、もっと突き放すと思います。今回みたいに、理由をちゃんと並べて怒るのって……逆に、まだ話す気があるってことじゃないでしょうか」
「……」
ネオリムが、わずかに顔を上げた。
「未来のお母様が、そうだったので」
「……根拠は、それだけか」
「はい。でも、なんとなく分かるんです。本当に見限った時の方が、静かなので」
アシュリーが、少し驚いたようにリシュアを見た。
「……お前、たまにいいこと言うな」
「たまにって何」
「…では、僕はどうすれば良かったんだ」
ネオリムが聞くと、アシュリーは少し困ったように頭をかいた。
「それを俺たちに聞かれても」
「…そうか」
「俺たちは、“結婚した”とか“仲が良くなる”とか、結果しか知らないんです。“どうやって仲直りしたか”までは、未来でも聞いたことない」
「……役に立たないな」
ネオリムが、力なく呟いた。
咎めるような響きはなかった。ただ、疲れたような声だった。
「役に立たなくてすみません。でも」
アシュリーは続けた。
「一つだけ確かなのは、“同居すること自体が嫌なんだろう”っていうその解釈、たぶん完全に間違ってます」
「……なぜ、そう言い切れる」
「言い切れる根拠はないですけど、母さんの態度見てたら分かります。あの人、本当に嫌なことは、言い方とか関係なく、その場で叩き割ってますよ」
「……」
「その手紙、破られてませんよね。丸めても、燃やされてもいない。突き返された、それだけです。
…ほら、あの母さんですよ?あの人が本気で怒ったなら、怒りに任せて手紙なんて破り捨てそうですよね?」
ネオリムは、そこで初めて、少し黙った。
折れた紙の隅に、もう一度目を落とす。
「……それは、そうだが」
「なら、可能性はもっと別のところにあると思います」
アシュリーは、そう言ったきり、それ以上は続けなかった。
答えを教えるつもりは、なさそうだった。
〜〜〜
ネオリムは、しばらく黙って机を見つめていたあと、ぽつりと言った。
「……悪かったと、伝えた」
「言葉では、ですよね」
「……そうだ」
「言葉だけじゃダメなんだと思います」
アシュリーが、静かに言った。
「行動で示せって、母さんがよく言ってましたよ」
「…え?私は行動ばかりするなって言われてたよ?」
「……それはお前が変な使い方で魔道具を扱うからだろ」
ネオリムは、二人のやり取りを聞きながら、もう一度手紙に目を落とした。
自分の書いた文字が、今はひどく他人行儀に見えた。
(……本当の理由を、書けばよかったのか)
彼女を気遣って考えたことのはずなのに、文面には、その気遣いのかけらも残っていなかった。
(……同居自体が、嫌なわけではない、のか)
否定はされた。だとしても、では何が正解なのか、まだ手探りのままだ。
分からないことに変わりはない。だが、間違った答えを一つ削れただけでも違う気がした。
窓の外は、いつの間にか茜色に染まっていた。
「……少し、一人にしてくれ」
ネオリムが、静かに言った。
その声があまりに疲れていたので、双子はそれ以上
何も言えなかった。
「……分かりました」
リシュアがそっと頷き、アシュリーも黙って続いた。
扉が閉まる音が、いつもより小さく響いた。
一人残った執務室で、ネオリムは手紙をもう一度、最初から読み返した。
折れた隅を、指先でそっと伸ばすように撫でる。
(……同居が嫌、ではない。それなら、何だ)
説明不足だった。
怒らせてしまった。
それは分かっている。ただ、彼女が怒ったのはそれだけではないような気もして…
未来では、夫婦になり、二人で双子を育てていく…
…らしいから
婚約してから今まで、幾度となく彼女と喧嘩をしてきたというのに、今更…
好きにならなくていい。せめて、嫌わないで欲しいと、静かに願っていた




