23話 突き返した手紙
メディール侯爵家、アルターナの自室。
帰宅してから、どれくらい経っただろうか。
アルターナはドレスも着替えず、寝椅子に体を投げ出すように座っていた。
クッションを片手で殴るように叩き、また元に戻し、また叩く。
「……くだらないったらないわ、まったく」
誰に言うでもなく吐き捨てる。
窓の外はまだ明るい。だが、部屋の中の空気だけは、やけに剣呑だった。
「お嬢様、お着替えは」
「後で」
「お食事は」
「いらない」
にべもない返事に、フローラは小さく肩をすくめ、紅茶だけ置いて下がっていった。
一人残されたアルターナは、寝椅子の上でごろりと転がり、枕に顔を埋めた。
「……なによ、あの手紙」
くぐもった声で呟く。
「“結婚することになるらしい”ですって?あんたが決めることじゃないでしょ!」
枕を殴る。
「“外聞上も問題ない”?私は外聞のための道具じゃないっつってんのよ!!」
もう一度殴る。
しばらくその調子で枕をいじめ続けた後、アルターナはがばりと起き上がった。
——手紙は、もう手元にない。
机に叩きつけるようにして、ネオリムに突き返してきたのだ。あの時は、それで正しいと思っていた。
(……なのに)
なぜだろう。
突き返した瞬間は、胸がすくような思いがした。
なのに、今こうしてほんの少し冷静になってみると、やけに落ち着かない。
〜〜〜
「……アル?」
扉の外から声がした。
ノックもそこそこに、兄のターテルがひょいと顔を覗かせる。
「なんか、フローラが慌ててたけど」
「入ってくるなら一言かけなさいよ」
「かけたけど」
「かけてないわよ、勝手に開けたでしょう」
「まあまあ」
ターテルは軽く手を上げてなだめると、部屋の中に一歩入り、寝椅子の周りに散乱したクッションを見て眉を上げた。
「……何、この惨状」
「なんでもない」
「なんでもないにしては、クッションが息してないけど」
「うるさいわね」
アルターナはそっぽを向いた。
ターテルはじっとアルターナを見つめた。
ネオリム君と喧嘩した後、アルターナはいつも愚痴を言ってくる。
“ネオリムは理屈ばかり”だとか“どう育ったらあんなに面倒くさい性格になるわけ?”だとか。とにかくネオリムのことをひたすらに話して怒りを発散させてくるのだ。
しかし、今回はそれが無い。
アルターナの表情も、怒っていると言えば怒っているが、ターテルにはどこか悲しげな表情をしているように思えた。
「……どうしたんだ?」
「……別に」
「別にって顔じゃないだろ、それ」
「別にって言ってるでしょう!」
声を張り上げたわりに、目は泳いでいた。
ターテルは、腕を組んで壁に寄りかかる。
「昼間、エスカディオ家に行ったんだろ?」
「……」
「で、帰ってきてからずっとこの調子?」
「……」
「無言ってことは図星だな」
「うるさいって言ってるでしょう!!」
アルターナは枕を抱えて、また顔を埋めた。
くぐもった声で、何やらぶつぶつと呟いている。
「聞こえないんだけど」
「聞かせるつもりないもの」
「じゃあ黙ってろよ」
「嫌よ!!」
矛盾したことを叫びながら、アルターナは枕から顔を上げた。
その顔は、怒っているような、拗ねているような、なんとも言えない表情をしていた。
耳まで赤いのは、怒りのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか。
ターテルは、少しの間その様子を眺めてから、ふっと息を吐いた。
「……ネオリム君と、なんかあった?」
図星をつかれ、アルターナの肩がびくりと跳ねた。
「……なんで分かるのよ」
「お前がこんなに荒れる理由、他にある?」
「……」
ターテルは、部屋の隅にあった椅子を引き寄せ、逆向きに座って背もたれに腕を乗せた。
「話す気はあるのか?」
「ない」
「じゃあ部屋に帰る」
「……」
「帰るけど」
「待ちなさいよ」
呼び止めておいて、アルターナはしばらく黙り込んだ。
言葉を選ぶように、何度か口を開いては閉じる。
やがて、絞り出すように言った。
「……あいつ、勝手に決めるのよ」
「うん」
「同居のこととか、結婚のこととか。全部、私に聞かずに、勝手に」
「うん」
「双子から未来の話を聞いて、それを鵜呑みにして、手紙一枚で済ませようとするの」
「……なるほど」
「“結婚することになるらしい”って、他人事みたいに書いてあって、しかも“外聞上も問題ない”とか、そういう言い方で」
言いながら、また腹が立ってきたらしい。アルターナの声はだんだん大きくなっていった。
「私は、あいつの予定表に勝手に書き込まれる項目じゃないのよ!人生の話なのに、まるで書類の手続きみたいに——」
「はいはい」
「はいはいって何よ!!」
「いや、続けろ」
「……もういいわよ」
アルターナはぷいと横を向く。
ターテルは苦笑しながら、頭をかいた。
「まあ、その怒りはもっともだと思うけど」
「でしょう」
「うん。それはネオリム君が悪いな」
「そうよ」
「で?」
「で、って何よ」
「怒ってるのは分かった。でも、それだけか?」
アルターナの動きが、一瞬だけ止まった。
「……どういう意味よ」
「その手紙、どうしたんだ?破いたのか?」
「……机に、突き返してきたわよ」
「破いたわけじゃないんだ」
「……」
「捨てろとか、燃やせとか、そういうことは言わなかった?」
「……別に、そこまでは」
「ふぅん」
「なによ、その顔」
「いや、別に」
「今絶対何か思ったでしょう」
「思ってない」
「思ったわよね」
「じゃあ、思ったと言ったら?」
「今すぐ出て行きなさい!!」
ターテルは笑いながら立ち上がり、扉のほうへ向かった。
その途中で、一度だけ振り返る。
「なあ、アル」
「なによ」
「ネオリム君が悪いのは、…お前から聞いた話だけ聞くと、間違いない。それは俺も同意する」
「……でしょう」
「でも、お前がそこまで拗ねてるのは、たぶん、腹が立ってるだけじゃないと思うぞ」
アルターナは首を傾げた。
その様子を見てターテルは微笑ましそうに笑った。
「まあ、頑張れ」
「なにをよ」
「さあ」
ターテルはそう言い残し、笑いながら部屋を出ていった。
〜〜〜
一人になった部屋で、アルターナはぼんやりと天井を見上げた。
(……お兄様には関係ないでしょう)
そう思う一方で、指摘されたことが、妙に胸の奥に残っていた。
——腹が立ってるだけじゃない。
(……そんなこと、あるわけ——)
七年前の記憶が、また蘇る。
勝手に決められた婚約。誰も、自分の意思を聞かなかったあの日。
——それが、今回の怒りの根っこにあることは、分かっている。
だが。
(……それだけ、なのかしら)
「悪かった」と言った、あの時のネオリムの顔。
いつになく困っていた、あの表情。
それを思い出すと、胸の奥が、ちくりと痛むような、くすぐったいような、変な感覚になる。
手紙は、突き返した。
破りはしなかった。
——燃やせとも、捨てろとも、言わなかった。
「……分かんないわよ、もう」
アルターナは、ソファに体を沈めた。
「フローラ」
呼びかけると、すぐに扉が開いた。
「はい、お嬢様」
「今から、エスカディオ家に何か動きがあったら、すぐに教えて」
フローラは、一瞬だけ目を丸くした後、にっこりと笑った。
「かしこまりました。……ちなみに、どういった動きをお待ちに?」
「別に、何でもいいのよ」
「はあ」
「……ただ、向こうがどう出るか、見ておきたいだけ」
「なるほど」
フローラはそれ以上追及せず、部屋を出ようとして、ふと足を止めた。
「……お嬢様は、本当に、素直じゃありませんね」
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言いました」
「生意気だと言ってるでしょう」
扉が閉まる音を聞きながら、アルターナはもう一度、天井を見上げた。
窓の外では、夕焼けが、ゆっくりと群青に変わろうとしていた。




