ノイローゼ
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場所は変わり、同日。
歌舞伎御殿、控室。
がやがやとした大部屋は畳張り。
黒子が体操をしたり、狩衣が、両手を広げて前方にしこを踏んでいたりする。
清蓮たちを見つけて、「気にするんじゃないよ、俺の客だ」と言った者が鏡の前。
「羽衣門殿でございますか」
「へい、さようで。わっちが紅茶一座の座長、羽衣門でございやす」
「自分は陰陽師、阿部清蓮と申します」
「あべの・・・?」
「いえ、かの御仁とは特になんら関係はありません」
「ああ、そうなんざんすか」
「それで、さっそく本題に入りたいのですが」
「へい。こちらで」
案内されたのは、大部屋の着物が記帳のようにかけられた部屋の隅。
その裏に、ひざをかかえぶつぶつ何かを言っている青年がいる。
「この青年が例の・・・?」
「狐憑きかなんかじゃねぇかって」
「ほう・・・」
清蓮は青年の側にしゃがみこんだ。
そしてしばらくその青年を見つめたあと、声をかけた。
「何があったんだい・・・?」
それは、優しい発音だった。
「殺したんだっ・・・」
「誰が、誰を?」
「刀で斬ったんだっ」
直志は首をかしげた。
「『藤大樹』のことでしょうか?」
「直志、少し黙ってろ・・・君、名前は?」
「ねぇ」
「ん?」
「俺は、名前、ねぇんだ・・・だから、「やさかひこ」になりてぇんだ」
「うん、そうなのか」
「そうなんだ・・・」
青年の目から、涙が落ちた。
「ととが、かかを、斬り殺したんだ・・・思い出しちまったんだ・・・」
座長の羽衣門がはっとした顔した。
「どういうことですか?」
直志が聞くと、羽衣門は苦々《にがにが》しく言った。
「そいつは、ててに名前すらつけてもらなくて、かかをととに斬り殺されたんだ」
「なぜ?」
「よくは分からねェ・・・そいつが幼い頃に橋のあたりで拾って、なんとなく聞いて」
「それっきり?」
「ああ、それっきり詳しいことは聞いてない」
「うんうん・・・」
その情緒、分からなくもない、と、直志は小さく何度かうなずく。
清蓮は、座長に狐憑きらしき青年の現在の名前を尋ねた。
座長は、「とうみょうのしん」と答えた。
清蓮は優しい声で、青年に言葉を続けた。
「思い出してしまったんだね?いつから?」
「舞台中に・・・突然、閃光が頭ん中走って、ととがっ・・・」
「うん」
「かかが斬られて死じまったんだっ、俺は見てたっ。生きなきゃなんねっ」
「うん」
「かかが、紅茶一座に行きなさいって言ったんだっ」
「うん」
「かかが、お前がお腹にいたとき豆苗よく食べてたって座長に言ったんだっ」
「うん」
「そしたら、座長が「豆苗之進」って名前くれたんだっ」
「君は、昔とは違う。君は今はもう、「豆苗之進」だ・・・・」
はっと青年が顔を上げた。
「・・・え?」
「君の、名前は?」
「とうみょうのしん」
「そうだ」
「そうだ」
「それでいい」
「本当に・・・?」
「本当だ。君は、豆苗之進でいいんだ」
「やさかひこに、ならなきゃいけないんじゃないのか・・・?」
座長がはっとした。
「なんてこったっっっっ、お前を座に入れてよかったよっ」
豆苗之進がぽかんとしている。
「俺、やさかひこしたいけど、とうみょうのしんでもいたいんだ・・・」
清蓮が座長を見た。
座長が叫んだ。
「お前はお前として、「やさかひこ」すりゃいいんでぃっっ」
「なんや・・・」
青年は涙をぬぐった。
「なんや・・・それでよかったんか・・・こんな幸せなこと、あっていいんやろか」
清蓮はつぶやいた。
「ノイローゼ」
不思議そうな、すがるような目で、豆苗之進は清蓮を見た。
清蓮は少し微笑んで見せた。
「心の中の「心労」と言わるる「鬼」、拭い去りまして候」




