ヒーリング·デス
タチバナのマンションに行く前に家に帰ったエミは、パートの仕事から戻って食事の支度をしている母の後ろ姿を見ながら、高校生の娘が妊娠したことを知ったらこの人はどうするのだろうかと思った。多分、私のことは真面目な高校生で、もちろん男と関係を持っているなんて思ってもいないだろう。
エミの母は今44歳だが、肌のケアも近所への外出時メイクも手抜きしないためか30代に見えるほど若々しいのが自慢で、髪やマツエク、ネイル、フェイシャルエステ等のために美容院にも頻繁に通っていて、自分がパートで稼いだお金は全てここに投入している。この新規開業したての美容院のオーナー美容師である年下の男とは相性のよいセフレでもあるが、それは誰にも知られてはいない。
母はいつも父のことを ’パパは子どもを育てるパートナーで生活費担当同居人なの、それ以上でもそれ以下でもないわよ’と言って、主婦として食事や掃除洗濯日常の買い物を担当しているのだという。
父は物心ついた頃から休日はほとんど家にいなかったし、リビングの自分の鉄道のための小さいコーナーをずっと大事にして’国内乗りつぶし‘を本気で目指していて、家族4人で外食したり旅行したりすることは全く無かった。
父の給与は振り込み口座を2ヵ所に指定してあり、基本給以外の手当てや残業の分は全て趣味専用に使っているので乗り鉄仲間からはリーダー扱いされているほど自由でフットワークが軽く移動範囲も広い。
父は親から締め付けられていた学生時代の楽しみを取り戻すかのように生きているのだ。
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今夜こそは、とタチバナのマンションでハーブティーをいれて待っていると、ほんの一時間ほどで玄関ドアの鍵を開ける音がした。
エミはまた合鍵を持っている他の女かもしれないと思ったのでそのまま立ち上がらずにお茶を飲んでいた。
’あ、来てたんだね‘
‘なんで?’
’学校ではまだ話しかけられないよ、ごめんね‘
‘違うの!’
’ハーブティー、うちから持ってきたの?美味しそうだね‘
‘わからなかったんだ…’
’なに?どうして、怒ってるの?‘
‘検査薬、気がつかなかったの!?’
’なんの検査?‘
‘バカ!’
’え?泣いてるの?‘
‘バカ…’
’落ち着いて、何?‘
‘病気、をみつけたの?’
’バカ!‘
‘心配してるのに、何だよ…’
’…‘
‘意味わかんないだろ、落ち着きなさい!’
’妊娠したのよ!‘
‘え?誰が?’
’ずっと気になってて、来てたのに、居なかったじゃない…!‘
‘ボクの子ども?’
’バカ!‘
‘…?え!え?!’
ようやくタチバナに妊娠のことが話せたのに、安心できないばかりかタチバナの反応に少し腹が立ってきた。エミはルイス・キャパルディに似たタチバナの声が大好きなのに、さっきの間抜けな声ときたらなんと情けない、と少し苛立ってしまった。
‘誰も知らないのよ、私たちのことは…‘
‘そうだよね、あ、ちょっと考える時間をくれないか?’
’お腹のなかで生きてるのよ、今も!‘
‘わかった…’
’毎日大きくなってくのよ!‘
‘そうだよね…’
’どーすんの? 怖いじゃない!‘
‘男には、よくわからないよ…’
’お姉ちゃんにも言えなかった…‘
‘待って…、ちょっと…’
’お母さんにも言えないよ…‘
‘あー、そうだよね…、考える時間が欲しいかな、少しだけ‘
‘熱もあるし気持ち悪いのよ…、朝からずっと、しんどいの!’
’あ、えーと、うん…‘
もたもたするタチバナを見ながらしばらく泣いて少し落ち着いたエミは、ソファに肩を落として座ったまま動かないタチバナの困っている頼りなげな顔を初めて見た気がした。
タチバナも自分と同じようにショックを感じて、同じように悩んでくれているということがわかり、やっと悩みを共有出来る相手が居る安堵感を手に入れた気もした。
でも。
エミの不安は物理的なものも大きい。’身体の中に生命を宿して育て、大きくなったら体外に押し出すのは私だけの仕事で、誰も代わってくれない…。‘
タチバナの頭の中はパニックだ。
日本では、まだ18歳にもならない子を妊娠させたらクビじゃないのか?、
生徒に手を出したエロ教師扱いか?
それよりマスコミに知られたら転職も難しい、これは一生終わるな…、
いっそ大真面目な純愛ってことにして結婚するしかないか…、
俺はどうやらこういう運命だったのかもな…、
誰か他のヤツの子どもだったら良いのに…。
この俺が父親?
今の自由が気に入ってるのに、一生家族のためだけに働いて年を取って死ぬのか?
今死んだら全てから自由になれるのかな…。
死んだら悩まなくても済むんだよな…。
死んだら…。




