第三話 マンション
僕は見栄えだけは大層なマンションを首を少し傾げて見上げた。
全体的に灰色がかった色彩を外観に帯びており、建物は十三階建てでオートロック付きだ。僕はカードキーを差し込み解除した。まあ、今どきというやつだろう。カードキーなのだ。鍵とどう違うのか。今まで鍵に馴染みが深かったから、やたら面積の広いカードキーは少々邪魔臭く鬱陶しい気分ではある。防犯対策なのかエントランスはこうこうと明かりだけが威圧的に照らしだされている。マンション内に設置されているエレベーター横の自動販売機に近寄り財布を取り出す。真っ赤な色合いの自動販売機は、微妙にエントランス内で浮いている存在に見える。百二十円を投入しコーラを買うとエレベーターに乗り込み三階のボタンを押した。
ところで、なぜ人はエレベーターという箱に乗ると皆、妙に神妙な面持ちというか顔つきになるんだろう。閉所恐怖症的怖さを小さく無意識にでも感じるのだろうか。僕は行き先のデジタル表示が一階から三階へと示していくのを静かに見つめた。
降りて左手の角を曲がり二番目が僕の部屋だ。三○四号室のドアをカードキーで開ける。玄関に入るとまず蒸れたような靴の臭いが僕を襲う。目眩に似た錯覚を覚えながらワンルームの部屋の扉を開けて電気を点けると僕は万年床の布団に倒れこんだ。時計に目をやると時刻は十二時四十一分を指していた。約三十分。心の隅で呟く。それだけ歩いたがどうやら汗が体を冷やしたようだ。
部屋の空気は自分の体温よりも妙にしん、としていて幾分低く感じられたが、おそらくあと一歩で暑い、と感じられるであろう気温を行き来していた。
僕は布団にガバッとうつ伏せになりしだいに鼻の下の窪みに汗が溜まっていくのを、なぜか他人事のように感じながら、自分の体温と室内の温度の差異について考えていた。僕は暑いとは思わないのに、体は暑さによる肉体的症状を、汗をしきりに掻くことで示しているのだ。
だが鼻の下の窪みに汗が溜まるのを他人事と思うのと同時に自分の体温と外気温の差もやはり他人事だ。今の時点で他人事ではないことがあるとすれば、それは食欲と睡眠欲と性欲だ。とりあえず小腹がへった。
僕はやおら起き上がりお湯を沸かして軽い食事の準備をした。カップ麺と菓子パンではあるがとりあえず腹は満たされる。
ラーメン鍋に入れた水が沸騰している。コポコポと鍋底から小さく泡立つ気泡を眺めながら、僕はそれについて脳味噌が考察しだすのを静かに待った。そこから言葉が紡ぎだす思考を得られるか試した。しかし思い出すのは過去のことばかりでなんら淡々とした面持ちで僕はカップ麺にお湯を注ぐのであった。僕は現実主義者かロマンチストか。
ひとりで麺を啜っていると唐突に侘びしさを帯びた感傷が降って湧いてくるが、しかしこれが例えば家族なんかと囲まれて食べても悲哀の質が違うだけで大した差はないだろうと思った。楽しい家族生活だ。
孤独を犠牲に楽しい団体生活を送るのは、やはり人間に必要な孤独な時間を払拭させることを前提に成り立つ集団的既成事実だから、やっぱり孤独と引き換えの自己犠牲愛は、悲哀に近い感傷に包まれて生活を営んでいくのに自明であると思うのだが。
と、いうより僕はそれに気づいて冷静に見つめる姿勢を持たずにいきなり家族を構築させようとするのは恐ろしく支障をきたし破滅に至る事実を知っている。過程と結果を己で実体験してきたからだ。僕は過去を見てきた。
後ろばかり観ていたのだ。僕は過去の亡霊のような自分を振り返る。
僕は、過去の記憶という自己を振り返って喜怒哀楽を興じる時があるが、そこに体験こそし得ないが実感として記憶の思いが残るというのはその領域に足を踏み入れるという意味において、時空間を過去にしか行けないタイムマシンに乗っているような不思議な気持ちになる時がある。
今とは、今というこの瞬間にもう既に過去であり過ぎ去った時だ。考えている瞬間から今は未来に向かって羽ばたいている。
未来とは将来であり、目的があれば希望に燃える素敵な未来が待っている。
まさに苦笑だ。それが失笑に変わるのも光速の勢いで速い。
そんな荒唐無稽な自分を苦笑に似た面持ちで見つめるしかない。
自己憐憫とは、己をいたわる気持ちであり他人を排した自己可愛がりであり、なんて自分は可愛そうなんだろうと感傷に耽る行為であると思うのだが、
僕は今まさに自己愛というぬるま湯に首まで浸かっている。そういう時期などと自己弁護を図るがなんら解決策を得たような気持ちにはならない。
なぜならないのか。前向きな肯定的感情を持ち得ないのは,今だけなのか。そういう時期なのか。ここから脱却するのは可能なことなのか。
実は僕にも羞恥はある。僕の観念、いや観念と呼ぶにはおよそ恥ずかしい限りだが僕の主観的位置に在ったものとでも呼ぼうか。僕は今まで相手が在ってこその自己を確立しようとしてた感があった。例えば恋人だが、僕はいつまでも恋人を愛するという思いが相手を苦しめることに気づいてなかった。僕の恋愛論に対する強い思い込みが相手の恋人に非常に圧迫感のある確固たる苦しみを蓄積させる事実に気づかなかった。
俺は男だ。だから女は黙って俺について来い。今となっては時代的錯誤な思索に縛られていた、いや蝕まれていたと言ってよい。しかしそれは相手一人にたいして有効であり僕の自尊心は恋人、あるいは妻によってのみ満たされる狭い領域であった。狭い領域はその粋を出ずにその器のなかで発酵して腐りかけてすらあったようだ。その現実をひたすら見つめるのが今の自分の現状だ。
そこで思考が止まった。
カップラーメンの麺が容器の中で汁を吸い醜く膨張している。僕は食べるのをしばし忘却していたようだ。膨れ上がった麺と、麺に吸い込まれて残量の少なくなった汁を見て、僕は時間だけが淡々と過ぎ去ることを今更ながら知った。この世はどう足掻こうと時間という非物質が刻々と流れるだけだ。
僕は時間というものにに、物質ですらないものに、この肉体と精神を支配されている。過言ではないだろう、事実だ。他の人間も同じだ。それは望む望まないは対象に成り得ない、まさに何かに生かされているような錯覚すら覚える。もし時間が物質であり、この手につかめる物なら人類は容易に時を操作するのではないか。時は金なり、と言うが時間という概念に値するものを自由に人間が操作できるなら、しかしそれすらも経済という骨格に組み込まれる運命ではあるはずなのだが、つまり時を操るのはこの世を飛び交う情報を上手く自分の支配下に置くということではないのか。例えそう遠くない時代にタイムマシンができようとも人はコンピュータによるネット上の情報を飛び越えて現実に「過去、未来」に行き来したとしても、権力的嗜好の一部の人間により経済というシステムに組み込ませる現実を構築させるのにすぎないのであろう。そして一般の人間はその支配下に強制的に置かされる事実を目にする。。即物的に、この世は金で成り立つという資本主義がまかり通る時代が続く限り、その概念が崩れ去らない限りにおいて人間は過ちだと薄々感じながらも、つまり、「時間」は流れてゆく。人によっては嵐のように、ときには川の流れのように。
僕は過去という亡霊に、時に歓喜し、時に怯えているという点では脳のなかで繰り広げられる過去の記憶に舞い踊らされる感覚を消し去れないのは、僕が人間である証拠に過ぎないのだが、人が「前向き」という言葉の偽善の匂いに満ちた抽象を発達させるには本来持っている人間の感受性を愚鈍化させるという必要性があるのを知った。後ろ向きと一般的に言われる人間はおそらく自分に誠実なのだ。自分に忠実なのではないか。