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夢か現か

作者: 凪葉音
掲載日:2005/10/31

  むかし、荘周夢に胡蝶となる。

      栩栩然として胡蝶たり。

 自ら喩しみ志に適するかな。 

         周たるを知らざるなり。

       俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。

    周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。




「やば・・・大学遅れる」

うるさく時間を告げる目覚ましを止め、周平は起き上がった。

上京して一人暮らし。

大学二年生。

荘矢周平そうやしゅうへい、二十歳。

彼女もおらず、ごく普通の生活を送っている。

「あー・・・電車乗り過ごした・・・」

時計の針は、周平がいつも乗る電車の発車時刻をとっくに回っていた。

「もういい・・・たまには歩こう」

小さめの冷蔵庫から、ペットボトルのスポーツドリンクを取り出し鞄に入れる。

顔を洗って歯磨きをして、投げ込まれている新聞をそこらへんに置いて。

「行ってきます」

誰もいない部屋に挨拶をして、鍵をかける。

すれ違うマンションの住人に適当に挨拶をしてエレベーターに乗り、マンションを出る。

「つまんねぇの・・・」

いつも通りのライフスタイルに愚痴をこぼして、周平はのんびりと歩き出した。




いつもは電車に揺られて大学まで行く道。

歩いてみると、いつもと同じ風景が違うものに感じられる。


・・・あ、こんなとこに自販機あったんだ。

あれ、ここのコンビニつぶれたんだ。

お、新しい家が建つのか・・・。


普段なら気付かないところを次々と発見し、周平は何だか嬉しくなる。

そして。


・・・・・・公園?こんなとこにあったか・・・?


電車の窓ガラス越しに見ていた風景の中の一つだろうか。

周平は、何かに惹かれるようにその公園へと足を踏み入れた。

シーソー、ブランコ、シャングルジム・・・。

別にそこらにあるような公園と何ら変わりは無い。

周平はベンチに腰を下ろした。

「やっぱこんな時間に人なんか来ないよなー・・・」

ふと空を見上げる。

青いキャンパスに白の絵の具。


そういえば、空なんて、ずっと見てなかったな・・・。


周平の視界に、ひらり、蝶が一匹舞い込んだ。

黒い羽に青い筋。

ひらひらと周平の視界を舞う。

まるで周平を誘っているかのように。

ふと彼は、大学の講義で学んだ、哲学の一節を思い出した。

そう、たしかあれは―――・・・。


むかし、荘周夢に胡蝶となる。

栩栩然として胡蝶たり。

自ら喩しみ志に適するかな。 

周たるを知らざるなり。

俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。

周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。



ツツジだ。ツツジが咲いている。

赤い花びらに足を乗せ、甘く香る蜜を飲む。

それだけでは足りなくて、隣に咲いていたツツジの蜜も飲む。

体は軽く、風に乗る。

一枚、緑の葉が、視界の横を通り過ぎていった。

子供達の笑い声が聞こえる。

幼い子供達が、追いかけっこをしていた。

一人、逃げていた少女が転び、膝をすりむいて泣いた。

鬼ごっこは中断。

ふと目を向けた先、ツツジを見つけた。

気がつけば、喉が渇いている。

先ほどと同じように、ツツジの赤い花びらに足を乗せ、甘い蜜を飲む。

隣のツツジが甘く誘う。

その誘いに乗り、隣のツツジの蜜も飲んだ。

・・・そういえば。

確かこんな一節があった。



むかし、荘周夢に胡蝶となる。

栩栩然として胡蝶たり。

自ら喩しみ志に適するかな。 

周たるを知らざるなり。

俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。

周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。




ヴヴヴヴ・・・ヴヴヴヴ・・・。

「・・・!」

鞄に入れた携帯が、着信を告げている。

気がつけば、青いキャンパスはいつのまにか、オレンジのキャンパスへと様変わりしていた。

体が痛い。

「・・・夢・・・か?」

いつの間にか、携帯は静かになっていた。


それにしては現実味があったような・・・。


「・・・帰ろう」

周平は、ベンチから立ち上がり、鞄を肩にかけて歩き出した。

道端に赤いツツジが咲いている。

そのうちの一輪に、見覚えのある蝶が止まっていた。

「・・・・・」

周平は立ち止まり、ツツジを一輪、摘んだ。

ひらり、蝶が視界から消えていく。

「・・・甘い」

この味も、知っている。

周平の脳裏を、またあの一節が横切った。



むかし、荘周夢に胡蝶となる。

栩栩然として胡蝶たり。

自ら喩しみ志に適するかな。 

周たるを知らざるなり。

俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。

周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。


「・・・俺は・・・」

夢か現か。

現か夢か。

「・・・・・・・」

周平は、摘んだツツジをそっと手に持って家路に着いた。




「ただいまー・・・」

いつもの通り、誰もいない部屋に挨拶をして、靴を脱ぎ、結局一度も飲んでいないスポーツドリンクを冷蔵庫にしまった。

「そうだ・・・ツツジ・・・」

手の中の赤いツツジ。

しおれかけたその赤い花びら。

周平は何ともなしに窓を開ける。

さぁ、と風が部屋に舞い込んだ。

この風も・・・知っているような気がする。

手すりに手をかけ、外を見る。

オレンジのキャンパスの中、赤く染まった太陽が落ちていく。

「むかし、荘周夢に胡蝶となる。

栩栩然として胡蝶たり。

自ら喩しみ志に適するかな。 

周たるを知らざるなり。

俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。

周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。

か・・・」

幾度も思い出した一節を口に出し、周平は、赤いツツジを空に投げた。

窓を閉めたそのとき、ツツジを追うように、視界の端、蝶が舞い降りていったのを、周平は見た。

「・・・・ホント、どうなんだろうなぁ」

ヴヴヴヴ・・・ヴヴヴヴ・・・

鞄の中で、再び携帯が周平を呼んだ。

「誰だー?」

ディスプレイには友人の名前。

「あ、そっか・・・俺、今日大学行ってない・・・」

その代わり・・・。


その代わり・・・俺は・・・。


ヴヴヴヴ・・・ヴヴヴヴ・・・

「おっと・・・はい、もしもし」


夢か現か。

現か夢か。


 むかし、荘周夢に胡蝶となる。

      栩栩然として胡蝶たり。

自ら喩しみ志に適するかな。 

  周たるを知らざるなり。

     俄にして覚むれば、則ち遽遽然として周なり。

    周の夢に胡蝶と為りしか、胡蝶の夢に周と為りしかを知らず。



夢か現か。

現か夢か。


誰も、知らない。

荘周の「胡蝶の夢」を題材に使ってみましたが、いかがでしょうか。久しぶりの短編なので、結構楽しく書けました。連載も続けているので、そちらも良ければお読みくださると光栄です。



         凪 葉音  拝

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