30.婚約者
そこにいたのは、あの“着物の人”だった。
私と瑠美が河童に襲われそうだったときに、助けてくれて、不気味な人形のお守りをくれた人。
……どうしてこの人がここに?
「遅かったじゃない」
顔を上げた哨子さんが、着物の人に話しかける。
「時間通りだと思うけど?」
着物の人は両手を袖に入れたまま、こてんと首を傾げて哨子さんを見つめた。
「……ふんっ。さっさと座ったらどう?」
「座りたいけど、君のスカートの裾を踏んづけそうなんだよね」
「……」
この二人はいったいどういう関係なんだろう。
哨子さんが無言で座る場所をずらしてスカートの位置を整えると、着物の人は無表情のままその隣に腰を下ろす。
「アイスコーヒーをお持ちしました」
八代さんがアイスコーヒーを二つ、テーブルの上に置く。
一つは私の前、もう一つは哨子さんの前あたりに置いたと思うのだが、着物の人はさっと自分の方へそれを寄せて口をつけた。
「ありがとう」
「ちょっと、それはわたくしのよ!?」
「あ、これどうぞ……」
「……いいわ。八代」
私のを渡そうとしたが、きっぱりと断られる。
哨子さんは、キッと着物の人を睨みつけた。
八代さんは軽く頭を下げ、また店の奥に消えていく。その後ろ姿を見つめていると、着物の人が口を開いた。
「ところで。依頼にあった視て欲しい人は彼女?」
「……ええ。そのつもり、だったのだけれど。視てのとおり、呪力はすっかり感じなくなっていたの」
「彼女なら前にも視たよ」
着物の人の言葉に、哨子さんが目を見開く。
「なんですって? 貴方たち、初対面ではないの!?」
哨子さんに驚きの顔を向けられたが、きっと私も同じ顔をしていたと思う。
二ヶ月も前に一度会っただけで、私を見ても反応がなかったから、覚えていないと思ったのに。
「前に一度、助けてもらいました。……ありがとうございました」
不気味な人形のお守りのことは、あえて言わなかった。だって戸坂さんに渡しちゃったし。
「助けた……? 環が、人を……?」
……環、さん? どこかで聞いたことがあるような。
哨子さんは眉を顰めて着物の人――環さんを見る。
「僕は純粋な気持ちで、人助けをしたい気分だったんだ」
「……」
抑揚なくそう答えてアイスコーヒーを飲む環さんに、哨子さんは胡散臭そうな目を向ける。
二人の様子に、ふと気になったことを聞いてみた。
「あの……、二人はどういった関係なんですか?」
私がそう聞いたとたん、その場の空気が固まった、気がした。
……あれ? なんで?
ちょうどその時、八代さんが哨子さんのアイスコーヒーを持って来た。
テーブルにアイスコーヒーが置かれると同時に、環さんが口を開く。
「僕たちは婚約者なんだ」
……婚約者。
哨子さんが本気で嫌そうに顔を歪める。
「仮のね、仮の! 哨悟が戻ったらきっとこんな婚約は破棄よ!」
哨子さんはアイスコーヒーを手に、窓の外へ顔を向けた。
環さんはちらりと隣に視線を向けたが、無表情でアイスコーヒーを口にする。
「……こほん。話が脱線しすぎたわ。ところで貴方なら、呪力が消えた原因がわかるのではなくて?」
「どうだろ。本人の方が心当たりはありそうだけど」
二人から向けられる視線。
思わず、アイスコーヒーを口元まで運んだ状態で固まった。
……環さんの言葉は、どういう意味?
アイスコーヒーを持つ手がかすかに震えそうになり、慌ててテーブルに置く。
私が無言で首を横に振ると、哨子さんは目を細めて頬に手を当てた。
「ないみたいよ? どうしましょう。成功報酬のつもりが、何も教えることがなくなったわ」
「ならかわりに、魔物について教えてあげようか」
すでにアイスコーヒーを飲み切った環さんが、氷だけ残ったコップをテーブルに戻す。
両手を裾に入れて腕を組むと、じっと私を見つめた。
「魔物について、ですか?」
「そう。魔物がどうやって現れるのか、なぜ呪力に魔物が寄ってくるのか。知りたくない?」
この世界に来た時、魔物について調べたことがある。
たしか魔力濃度がどうとかで、現代の技術では、魔物の発生源を辿ることは不可能だと。
この世界に来たばかりのころ、呪力を持っていたらしい私は、たしかによく魔物と遭遇していた。
環さんの様子から、それよりさらに詳しいことを知っているようだ。
「……わたくしの前で規定違反をするつもり? すぐに義理父様に告げ口してあげるわ」
私が答える前に、哨子さんが鋭い口調で口を挟んだ。
「お互い彼女には借りがあるし、そのお返しでいいんじゃない」
「……私はまだないわ」
「この状況なら同じだよ。君もわかっているくせに」
二人の会話の内容はわからない。借りがどうとか、全く記憶にない。
内容が気になって、無意識に体がそわそわと動いてしまう。
「それに、祓い屋まがいが知ってる範囲までしか教えないよ」
……祓い屋?
環さんの言葉に、哨子さんは大きくため息をつくと、何も言わずにまた窓の外へ顔を向けた。
そんな哨子さんの様子を了承と受け取ったのか、環さんが話しはじめた。
「一応、仮説の一つとして聞いて。魔物は、膨大な魔力と呪力によって、別の次元――異界から現れているんだ」
「……異界」
その言葉に、少しだけ胸がどきりとする。
環さんの話によると、魔物は普段異界に住み、大量の魔力と呪力によって、この世界に現れるようだ。
魔力は次元を渡るときに、一度実体を分解し、再構築するために使われる。呪力は、次元を渡るための鍵の役割になる。
だから魔物は、元の世界に戻るために、呪力を感知すると寄ってくるのだそうだ。
この話が本当なら、私の場合は……。
「君なら、この話を聞いて何か思い当たることがあるんじゃない」
環さんがまっすぐに私を見つめる。その見透かすような瞳に、私は視線をテーブルに向けた。
……やっぱりこの人、私が別の世界から来たことを知っている?
静まり返る店内に、私がこくりと唾を飲み込む音が大きく聞こえた。
「――環、時間よ」
二人の間を遮るように、哨子さんがテーブルの上に手をついた。
「君はせっかちだね。……すでに罠にかかった獲物が、逃げられるわけがないのに」
環さんは小声で返事をしながら、ゆったりと立ち上がる。
声が小さすぎて最後に何を言ったのか、私には聞き取ることができなかった。
「二人とも、ご協力感謝するわ。……あぁ、それと。ここはわたくしのお店だから、お代は結構よ」
哨子さんはそう言うと、八代さんを連れて先に店を出た。
その後ろ姿を見送って、私も店を出ようと歩きはじめると、背後から環さんに声をかけられる。
「ねぇ、……この男に見覚えはない?」
振り返ると、顔のすぐ目の前に一枚の写真が差し出される。
写っていたのは、とある男性だった。
「あ、」
思わず小さく声が出た。
見たこと、ある。というかこの人……。
「今朝、バス停近くで哨子さんと話している時に、近くを歩いてるのを見かけました」
「……そう」
「この人がどうしたんですか?」
環さんは軽く頷き、写真を裾に入れると無言で歩き出す。そして、店の外へ出る前に、ぴたりと足を止めた。
「この人、哨子の元婚約者。僕はこの人をずっと探してるんだ」




