31.誘拐
店の外に出ると環さんは姿を消した。
比喩ではなく、本当に。瞬間移動したみたいに、一瞬で消えたのだ。さっきまでは隣にいたのに……。
数秒目を瞬かせ、ため息をつく。
深く考えるのはやめよう。
周りを見渡すと全く見覚えのない場所だった。街並みからして、私の住んでいる町ではなさそう。
哨子さんの姿も、乗せてもらった黒い車も見当たらない。
……ここ、どこ? まさか全く知らない場所に置いて帰られるとは。
再びため息をつく。とりあえず帰り道を調べようと、その場で携帯を触っていると前から人が歩いてくる。
歩道の端に寄ったのだが、なぜか私の前で足を止めた。
「すみません、ちょっといいですか?」
顔を上げた私は、目の前に立つ人を見て目を見開く。
「今朝あなたと話していた女性について、聞きたいことがあるんです」
どこにでもいそうな風貌で、柔和な笑みを浮かべている男性は、つい先ほど環さんが“探している”と言っていた写真に写っていた人だった。
たしか、哨子さんの元婚約者。
「えっと、……なんでしょう?」
男性が辺りを見渡し、少しだけ距離を詰めてくる。
思わず後ずさろうとすると、男性が声をひそめて話し始めた。
「彼女とやり直したいんです。お願いします、相談にのってくれませんか?」
「……はあ、」
……もう帰りたいな。
今の時間は午前九時過ぎ。そろそろ眠気も疲労も限界に近づいてきた。
気温のせいか、それとも熱があるのか、暑さで頭がくらくらしている。
とても他人の恋愛相談に乗っている余裕はない。よし、帰ろう。
「すみません、ちょっと急いでいるので……」
「まっ、待ってください! お願いします、僕にはもう後がないんです……! どうか!!」
私が歩き出そうとすると、男性が慌てて道を塞ぐ。そして、そのままその場で土下座をした。
人通りが少ないとは言えない場所での、男性の行動にさすがに焦る。
「えっ、ちょっ!? やめてください!!」
引っ張って立たせようとしても、肩を揺すっても動かない。
「っわかりました! ちょっとだけなら、話に付き合いますから!!」
動かなかった男性が、私の言葉にばっと顔を上げる。
肩にかけた手を、両手でがしっと包み込まれた。
「ありがとうございます!! 流田さん、本当に、ありがとうございます!!」
「……いえ、ほんとに、ちょっとだけですよ」
少し男性の反応にひっかかったが、それが何かわかる前に男性に腕を引かれる。
「僕、笠松と言います」
一見穏やかな笠松さんは、つい先ほど公共の場で土下座をしていた人には見えない。
思わずじっと見つめると、にこっと人の良さそうな笑みを浮かべた。
「ここから五分くらい歩いたところの公園に、ベンチがあるんです」
言いながら、笠松さんが歩き出す。
腕を掴まれている私も、仕方なく足を動かした。
笠松さんは「五分くらい先にある公園まで」と言っていた。しかし、腕を引かれ歩き続けてすでに五分は経っている。
暑さのせいではない汗が背中を伝う。
最初は笠松さんが笑顔で話しかけてきたのだが、次第に口数が減り、無言が続く。
「あの……笠松さん?」
私が声をかけても、前を向いたまま返事がない。
周囲を見まわすと、人通りが減っていて……というか、人がいない?
……これは、ちょっとやばいかも。
ぐっと足に力を入れて、その場にとどまる。
「笠松さん!」
私の声に、笠松さんが振り向いた。
「……僕の相談に、のってくれるんですよね?」
底の見えない黒い瞳を見た瞬間。
私の視界が真っ黒に染まった。
『ここはどこ……』
……このセリフは久しぶりかも。
周囲を確認した私は、そんな呑気なことを考える。
瞬きを数回。目の前の景色が変わらないことに現実逃避は諦め、少しずつ思考を巡らせた。
私は見覚えのない古屋の中に転がされていた。
八畳ほどの広さの部屋に、真ん中にはソファとその前に置かれたテレビ。
床の端の方には、「呪いの儀式に使う道具」と言われてもすぐに納得できる怪しげな小物が、乱雑に置かれていた。
蝋燭が何十本も並び、大きめの紙に描かれた魔法陣のようなものも置かれている。
私の両足と両手は縛られていて、口はガムテープで塞がれている。
なんとか体を起こして座る体制に持ち込むと、逃げ道や持ち物を確認した。
部屋に扉は一つだけ。この世界で見慣れた、分厚い窓ガラスから見えるのは、閉められたシャッターの裏側。
ポケットにはいつも入れている防犯ブザーがなく、持っていた鞄も見当たらない。
…………さて。どうしよう!?
次第に大きく跳ねる心臓を落ち着かせようと、鼻から深く息を吸う。ゆっくりと息を吐く。
呼吸に集中していると、軋んだ音を立てて、木製の扉が開いた。
「あれ? 起きてたんだ」
部屋に入ってきたのは笠松さんだった。
そしてその背後――扉の外をこっそり確認する。外には緑が広がっていた。
あれは……庭? それとも森?
緊張に身体をこわばらせながら、すぐに視線を笠松さんに戻す。
笠松さんは部屋の真ん中までくると、そこに置かれたソファにどかりと足を広げて座った。
「……ああ、そうだ。相談なんだけどね、僕はこれでも、本当に哨子ちゃんのこと、愛してたんだよねぇ」
私に話しかけているのか、ひとり言か。
笠松さんは真っ黒なテレビ画面を見つめながら語り始めた。
「僕さ、哨子ちゃんと婚約してたんだ。婿入りだけど、それなりに大きい家だし、哨子ちゃん可愛いし、満足してたんだよ。……半年前に、あいつに嵌められるまでは」
……半年前?
声色が変わった最後の一言で、空気がぴりぴりと張り詰める。
私はできるだけ笠松さんを刺激しないように、息をひそめた。
「環……あいつさえいなければ……血のつながらない義弟が婿入りしたって……そもそも親父も親父だ……どうせ裏切る……見る目が……」
小さい声でぶつぶつと呟き、静かなはずの部屋でもところどころが聞き取れない。
笠松さんをじっと見つめていると、ぐるりと黒い瞳がこちらを向く。
「君も関係あるんだよ」
……え?
「環と一緒に何を企んでたのか知らないけど、君も巻き込まれて、利用されて、可哀想にね?」
急にソファから立ち上がった笠松さんに、びくりと肩が揺れる。
この人が何のことを言っているのか、理解できない。
笠松さんが、ゆっくりと私に近づく。
ロープで手足を縛られている私は身動きが取れず、笠松さんを見つめることしかできなかった。
しゃがみ込んだ笠松さんの手が、私の顔に近づく。口を塞いでいたガムテープが、無理矢理に剥がされた。
……いたい。
力づくだったせいで、頬がひっかかれて、口まわりはひりひりした。
「それにしても……君、どうやってその体に入ったの? それも環がやったの? 僕にもその方法、教えて欲しいなぁ」
首を傾げながら近づいてくる笠松さんに、思わず顔を背ける。
横目で笠松さんを確認すると、私の全身を観察していた。
「ねえねえ、君がそこに入った方法を教えてくれるなら、解放してあげてもいいよ」
「……どういう意味ですか」
笠松さんは私と目を合わせて、にこっと笑った。
「だって君、流田未来じゃないでしょ?」




