神代の冥府。あるいは、サイズがバグった世界の境界線
垂直大裂溝の暗黒を切り裂き、ロボロフスキー空軍の翼に導かれて俺たちが辿り着いたその場所は、「階層」なんて生易しい言葉で表現できる空間ではなかった。
そこは――『第二層:神代の冥府』。
「な……んだ、これ……。地底、だよな……?」
俺の隣で、マヌケが新しい飛膜をパタパタと震わせながら、呆然と目の前の景色を見つめていた。
天井の高さは数キロメートルに達し、見上げる視界の遥か彼方には、地底であるはずなのに不気味な「地平線」すら存在している。超巨大な空洞の底を埋め尽くしていたのは、上層のすべての水分を飲み込んだかのような、果てしなく広がる『地下海洋』。そして、水面や岩壁にびっしりと群生する発光植物が放つ、「紫と燐光の夜」の怪しい光が、どこまでもどこまでも世界を照らし出していた。
だが、何より異常なのは、この空間の『空気』そのものだ。
高気圧と高酸素、そして神代の超越種たちが放つ謎のエネルギーのせいで、大気を一呼吸吸い込むだけで、肉体の細胞がパチパチと爆発するような過剰な活力を感じる。
その結果として、この世界の生物は、サイズが完全にバグり散らかしていた。
キィィィン、と頭上を不気味な影が通り過ぎる。
第一層で俺たちを散々苦しめ、要塞まで作っていた体長5メートル級の「巨大虫」や「大ムカデ」の同類。それが、この冥府においては、天井から急降下してきた巨大な地底鳥に、まるでただの羽虫かトカゲのように、一突きで啄ばまれてエサにされている。
「覇王……ここから先は、我ら空軍でも滅多に近づかぬ絶対の禁忌だ」
ハヤテが飛行速度を落とし、恐怖に身を震わせながら俺の肩に掴まった。
「この『パノラマ・アビス』を支配する、歩く天災――二体の活動型超越種が動き出せば、我らなど羽虫以下、ただの塵として消し飛ぶぞ!」
ハヤテの言葉を裏付けるように、世界のすべてが「凍りついた」。
ピキ、ピキキキキキッ……!
突然、猛烈な寒気が空間全体を支配し、紫色の燐光を放っていた地下海洋の水面が、またたく間に分厚い氷へと変わっていく。
空間の水分が急速に冷却され、地底に「局所的な氷河期」が訪れる。
ザザァァァァァァッッッ!!!
凍りつく海の向こう、水平線の彼方から姿を現したのは、もはや一つの「島」だった。
いや、それは島ではない。隕石落下を免れ、この無限の地底空間で数千万年をかけて肥大化・進化した、全長十数キロメートルに及ぶ超巨大型海洋爬虫類――【星喰いの蛇】だ。
モササウルス類の極限進化系であるその巨体は、巨大な浮き袋によって高気圧の気流に乗り、文字通り空と海を不定期に行き来している。彼が身をひるがえすだけで数十メートルの大津波が氷をブチ破って巻き起こり、その背中には、彼から滴る極上のエネルギーを吸って生きる獰猛な寄生虫や変異植物が蠢く、独自の生態系――「動くデス・アイランド」が形成されていた。
「ひ、ひえええええっ! 化け物! 山が浮いてるよォォォ!」
マヌケが俺の背中にがっつりとしがみつき、ギルバートも最大硬度の結晶の盾を展開して身を硬くする。
だが、パニックになる俺たちの耳に、今度はさらに最悪の「音」が届いた。
『あああ……ううう……ひぐっ……うう……』
耳を塞ぎたくなるような、数千万人の人間の「すすり泣き」と「絶望の叫び」が重なり合ったような、不気味極まりない歌声。
ただの音じゃない。脳髄を内側から泥水でかき回されるような、強烈な【精神汚染の超音波】だ。
「が、はっ……我が……我が精神が、侵される……!」
誇り高きハヤテやギルバートですら、その歌声を聞いた瞬間、眼の焦点を失い、自ら進んでその音の鳴る方へとフラフラと歩き出そうとする。
地下海洋の半分を、鋼鉄より硬い『青白い蜘蛛糸のバリア』で網の目のように覆い尽くし、航路を完全封鎖している主。
光の届かない海の中心に、それは座していた。
体長数キロメートルに及ぶ、超巨大な終末の織り手――【母胎アラクネ】。
その蜘蛛型の巨体の「頭胸部」から上には、巨大な人間の女性の姿がそびえ立っている。
だが、前世が東京のドブネズミである俺にとって、その姿は単なるファンタジーの魔物ではなかった。
よく見ろ。あの巨大な人型の肉体は、単一の生物じゃねえ。
数億匹の、蜘蛛の足が生えた異形の人型モンスター(群体)が、一糸乱れぬ統率でぎちぎちに結合し、融合して形作っている『人間のレギオン』だ。
(……人間……人間サマだ……!)
脳裏に、前世の新宿の地下道で、俺たちを「不潔な害獣」として、冷徹な目で見下ろし、あらゆる罠と科学兵器で駆除しようとしてきた『人間サマのトラウマ』が、物質化されたプレッシャーとなって俺の小さなハムスターの肉体にドス黒くのしかかる。
知性を持った軍隊。罠を張り、退路を断ち、ネズミを追い詰める最悪の天敵。
アラクネの体表面から、ドロドロと人型のパーツが剥がれ落ち、個別の兵隊としてこちらを感知し始めるのが見えた。
「ボ、ボス……? どうしたの、ボス……? 体が、震えてるよ……?」
マヌケの心配そうな声で、俺はハッと我に返った。
俺の小さな前足が、恐怖でガタガタと震えていた。前世のドブネズミとしての本能が、あの「人間の形をした化け物」に近づくなと、全力で警報を鳴らしている。
「……へっ。へへ……、ははははは!」
俺は恐怖を噛み殺すように、ダイヤの牙をガチガチと鳴らし、狂ったように笑った。
「面白いじゃねえか。東京の地下道じゃあ、人間サマのインフラの前にただ逃げ回るしかなかったが……ここは地底の冥府だ。綺麗に整えられたアラクネの『蜘蛛糸の電線網』も、あの『星喰いの蛇』っていう巨大な質量を叩き込んでやりゃあ、一瞬で大バグを起こしてショートするだろ」
俺は、腸内のバイオ・ハッキングシステムを全力で起動した。
まずは、この空間に満ちている精神汚染の超音波(歌声)と、アラクネの群体が通信し合っているバイオ・プロトコルの周波数を、俺の腸内で強制スキャン(解析)する。
「お前らが『知性ある人間サマの軍隊』だって言うなら、その高度な戦術ごと、内側からハックして乗っ取ってやるよ」
トラウマをハッキングし、神代の冥府のインフラを強奪するための、害獣覇王の極限サバイバルが幕を開ける。
まずは、アラクネの包囲網をかい潜るため、地下水脈のハッキングへと、俺たちは動き出した。




