7 哀しい事実
「同じ匂い?」
「うん…」
「亡くなったお母さんと?」
私は思わず真剣な顔で彼を見た。
「…って、キモイよね、そんなの。ごめん忘れて、今言ったこと」
「藤井君のお母さんって…」
「亡くなった。…俺が子供の頃に」
心なしか彼の表情が暗くなったような気がした。
「どうして?」
「それは…」
一瞬言葉に詰まって、視線を落とした。
「あっ! ごめんなさい、言いたくなかったら…」
けれど、藤井君はそう言い掛けた私の言葉を遮るように続けた。
「登山の帰りに俺が足を滑らせて、助けようとした母と一緒に滑落して、そのまま遭難して…。次の日の朝、目が覚めた時にはもう…」
「・・・⁉」
「ごめん、こんな話、急にされても困るよね」
藤井君が私の方へ視線を戻したその時、知らないうちに私の眼から涙が一筋、つぅっと零れて頬を伝った。
「永戸さん…?」
「・・・・・・・・・」
「どうしたの?」
突然の私の涙に驚いたように言った。
(あっくんだ‼ やっぱりあっくんだったんだ…)
『あっくん‼』
思わず叫んだけれど、いえ、叫んだつもりだったのだけれど。その時の私は、声が出ないばかりか、唇すらピクリとも動かなかった。
(女)神さまは、例え私が敦史と再会出来たとしても、私が彼の母であったことを明かすことは出来ないと言っていた。
そのお告げの通り、そのことを伝える言葉は口を突いて出ることは決してなく、唇の動きで悟られることさえ避けるように、きつく閉じられたままだったのだ。
(よかった…。あっくん、生きていてくれて)
「ごめんなさい…」
私はぽろぽろ涙をこぼしながら呟くように言った。
「大丈夫? ごめん、急に変な話して」
私が突然泣き出したのは、山で母親が亡くなった、などと自分がいきなり悲しい過去の話をしたからだと勘違いした藤井君は、慌てて制服のポケットに手を突っ込んでハンカチを取り出し、私の目の前に差し出した。
「あの、これ」
「ありがとう…」
(くすん…)
受け取ったハンカチをきゅっと握りしめた。
少しして、落ち着きを取り戻した私は、とんでもないことを一つ思い出した。
「いけない! 係を書いた紙、さっき先生に渡しちゃった」
「ああ…、一緒に司会をして係を決めている時、メモを取ってくれていたよね」
「うん。でもそれを生徒会への提出用だからって、先生に渡しちゃった」
「そっか」
藤井君は少し斜め上を見上げるようにして言った。
「あれがないとこれ書けないよね。どうしよう、先生たちこの後職員会議だって言っていたし」
「うん、でも大丈夫だよ。それなら全部覚えているから」
「えっ! でもそんな、全員の係を? それにクラス替えしたばかりで名前を覚えていない人もいるんじゃ…」
私は驚いて彼を見た。
「ああ…。でも大丈夫。たぶん、それも全部」
そう言って笑顔を見せた。
そのあと藤井君は、自分は字が汚いから、模造紙には私が書いて欲しいと頼んできた。愛奈に生まれ変わる前の私は、お世辞にも字が上手だとは言えなかったのだけれど、元の愛奈はとても字が綺麗だった。記憶だけでなく、筆跡までも引き継いでいることに少し驚いた。
最初にHR委員である私たち二人の名前を一番上に並べて書いた。二人の名前が並んでいるのを見て、何だか妙な気持ちになった。
藤井君は次々に係・委員会に決まった人の氏名をそらで言って指示してくれた。言われて私がその通りに書いていく。
「次は図書委員か…」
「すごい。本当にあの表の順番通りに全部覚えてるんだ」
「うん、まあ」
「藤井君って凄く頭いいんだ!」
(ううむ…。こんなすごい記憶力、とても私の子とは思えない)
「そんな、普通だよ。ただ俺、人よりちょっと記憶力がいいって言うか…。――見えるんだ。過去のことが映像として」
「見える?」
思わず不思議そうな顔で問い返した。
「うん。カメラアイって言うらしい。一度見たモノが写真や動画を見るみたいに、いつまでも記憶に残るって言うか」
「へえ、そうなんだ。すごい! なんか羨ましいなぁ」
「ちっとも羨ましくなんかないよ‼」
「そう…?」突然の彼の剣幕に驚いてぽつりと言った。
「大体、生きていると、そんなにいい事ばかりじゃないだろう? 嫌なことだってずっと覚えているんだ。てか、忘れられない。しかも生々しい、映像として。今目の前に起きている現実のように。――あの日の朝のことだって…」
急に饒舌になったかと思うと、ストンと椅子に腰を下ろし、目を閉じて下を向いていた彼は、苦しげに何かに耐えているように見えた。
(あの日の朝……。あっくん、あなたは今、一体何を思い出しているの?)
「どうしたの、大丈夫?」
「うん…。大丈夫、時々あるんだ。いつも少しじっとしていれば…、治まるから」
何を思い出したのか、少し顔色が悪く、蒼白くなったように見える。
「気分悪いの?」
「…また、思い出しちゃって。あの日の朝のこと」
「あの日の朝?」
「母が、亡くなった日の朝のこと…」
「‼」
あの日の朝、突然母親と死に別れてしまった敦史。そんな悲しい出来事を、いつまでも忘れることが出来なくて、何度も思い出してしまうなんて。しかも映像としてあたかも現実のように鮮明に。
それは耐え難い悲劇の結末を、何度も何度もループするように、繰り返し見せられるようなもの。なんて、なんて残酷なことなのだろう…。トラウマ以外の何物でもない。
(ごめんね、あなた一人を残して先に逝ってしまって…)
『あっくん‼』
叫んだ私は、気が付くと思わず目の前の彼を両腕でぎゅっと胸に抱きしめていた。もっとも、やっぱりその声は私の口から発せられることはなく、その時も彼に届くことはなかったのだけれど。
「永戸さん⁉」
いきなり黙って彼を胸に抱く形になって、それに驚いた彼はゆっくりと私の顔を見上げた。
「大丈夫。動かないで。もう少し、このままで…」
(ヤダヤダ! 私ったら、なに言ってんだろう! 超恥ずかしいんだけど…)
「ありがとう。何だかすごく落ち着く…」
その時、私を見上げて弱々しく微笑んだ彼の顔は、だけど、幼かった頃の面影を十分に残していた。
(そう、なんだか私も落ち着く…。大きくなったね、あっくん。よかった、お母さんやっと安心した)
そう言う私も、我が子を胸に抱く母の気持ちを、久しぶりに噛みしめていた。
(それにしちゃ、ちょっと大きくなりすぎだけど…)
(ごめんね、あっくん。ずっと一緒に、傍にいてあげられなくて…)
☆☆☆☆☆☆☆
出来上がった係分担表を提出するために、職員室へやって来た藤井敦史は、ちょうど職員会議が終わり、向かいにある会議室から出て来たばかりの目方を見つけた。
「目方先生!」
呼ばれた目方が振り返った。
「ああ、藤井君。ちょうどよかった、今、君たちを探しに行こうと思っていたところです。これがなくて困ったでしょう?」
目方が生徒会提出用の係分担表を差し出した。
「コピーを取ってお渡ししようと思っていたのですが、すぐに会議が始まってしまいましてね。一番最初に私が提案しなければならない議題があったものですから、途中で抜ける訳にもいかず、そのままになってしまい申し訳ありませんでした」
そう言って微笑んだ。
「いえ、それなら大丈夫です。もう出来上がりましたから」
「出来上がった?」
怪訝な顔で訊き返した。
「はい」
敦史は丸めて筒状の模造紙を差し出した。
目方がそれを少しずつ広げ、手元の表と見比べていってみると、確かに係分担も生徒の氏名も、一字一句間違えているところはなかった。
「ほう、ちゃんと書けていますね。でもどうしてこれ程正確に?」
そう言って少し目を細め、敦史を見遣った。
「覚えていたので」
「ふむ。なるほど、そうですか…。――君はビジュアライザーですね」
目方が微かに微笑みを浮かべたのを見て、敦史はそれを少し不快に感じた。
「それじゃ、これで、失礼します」
その問いに答えることなく、一礼してすぐに踵を返して立ち去ろうとしたその背中に、
「藤井君! どうもご苦労様でした。ーーそうだ、永戸さんにもそうお伝えください」
目方が声を掛けた。
敦史は振り返りって黙って再度軽く会釈をすると、足早に廊下を歩いて行った。




