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第98話:十八円の隠しコマンド:九条が遺した最後の慈悲(パッチ)

足音が、闇を叩く。

 カツン、カツンと、コンクリートの破片を弾く乾いた音が、かつての地下第一セクター連絡通路に虚しく反響していた。

 俺、佐藤司は、カレンの細い肩に全体重を預け、泥濘ぬかるみと瓦礫が入り混じる闇の中を、死人のような足取りで彷徨っていた。


視界は、依然として「完全なる零」だった。

 光という情報が遮断された脳内で、九条が維持している『五感のセンソリー・ブックマーク』だけが、俺の世界を繋ぎ止める細い、今にも千切れそうな蜘蛛の糸だった。

 脳内モニターに投影されるのは、カレンが「語る」言葉を無理やり変換した、ノイズまみれの極限まで単純化されたワイヤーフレーム。

 右側には、ひしゃげた排気ダクトの残骸。

 左側には、かつて人々が「スコア」を競い合った、今は物言わぬ沈黙の塊となった自動販売機の列。

 

 それらすべてが、俺にとっては「記号」でしかなかった。

 記憶を失った俺には、それらがかつて何であったのか、なぜここにあるのかを理解する知識のインデックスが欠落している。

 俺にあるのは、ただ「進まなければならない」という本能的な実行命令エグゼキュートと、胸の奥で燻り続ける「十八円」という謎のキーワードだけだった。


「……ツカサ、……階段よ。……三段目が、……大きく崩れているわ。……私の足を、……しっかりと……なぞって……」


カレンの声が、脳の深層にテキストとして流れる。

 彼女の身体は、俺に触れるたびに激しい蒼い火花を散らしていた。属性を失い、存在を「無」へと回帰させようとする世界の圧力。彼女は今、自分という存在を燃料にして、俺という空っぽの器を地下へと運んでいる。

 彼女が一歩踏み出すごとに、彼女の「名前」や「思い出」が、白い霧の中に溶けて消えていくのを、俺は九条のバイパス接続を通じて感じ取っていた。


(……カレン。……なぜ、……お前は、……俺を……助けるんだ)


声にならない問い。

 今の俺には、音を発するための論理回路さえも、まともに機能していなかった。

 だが、彼女はまるで見透かしたかのように、俺の腕を強く握り返した。


「……理由は、……いらないわ。……あんたが、……私を……見つけてくれたから。……世界でたった一人の、……わがままな……デバッガーだったから……。……それだけで、……私が……消えるための……理由には……十分すぎるのよ……」


彼女の「意志」が、栞を通じて俺の脳に流れ込む。

 温かい。

 冷え切った電子の荒野に、たった一滴落とされた、本物の「情動」。

 

 その時、俺たちの行く手を阻むように、巨大なコンクリートの壁が立ち塞がった。

 バベルの崩壊に伴う地盤沈下で、地下街の入口は完全に圧殺され、封鎖されていた。

 通常なら、ここで行き止まりだ。物理的な手段でも、論理的なハッキングでも、この「現実の壁」を突破することはできない。


『……司、……カレン、……落ち着いて。……よく……見て。……そこにあるのは、……ただの……壁じゃない……』


九条の、消え入りそうなノイズまじりの声が響く。

 彼の人格リソースは、ついに一%を割り込んでいた。彼が「九条レン」という個体を維持できる時間は、もう数十秒も残されていないだろう。


『……僕は、……消える前に、……一つの……隠しコマンド(イースターエッグ)を……地下の……メインフレームに……埋め込んでおいた……。……司、……君の……右手を……壁の……中央……座標(X:0, Y:0)に……当てて……』


俺は、カレンに導かれるまま、冷たいコンクリートの壁に手を触れた。

 ザラついた感触。

 だが、その奥から、微かな、本当に微かな「振動」が伝わってきた。

 

 トントントン……。

 トントントン……。

 

 それは、包丁がまな板を叩く、小気味よいリズム。

 地下街の最深部で、今もなお「日常」を刻み続けている、あの音。


『……認証、……成功。……十八円の……規約パッチを……適用……。……さよなら、……司。……カレン。……あとは、……自分たちの……口で……確かめて……』


――バチィィィィィィィィン!

 

 俺の指先から、蒼いノイズが壁へと伝播した。

 コンクリートの壁が、まるで水の波紋のように揺らぎ、次の瞬間、そこには「存在しないはずの扉」が現れた。

 

 九条が、死の直前に、バベルの残存電力を使って書き換えた「物理的なバグ」。

 

 扉が開いた。

 そこから溢れ出してきたのは、……どんな高級な香料よりも、どんな美しい旋律よりも、俺の魂を激しく揺さぶる、……あの、安っぽくて、暴力的なまでの「出汁の香り」だった。


「……あ、……あぁ……」


喉が鳴った。

 記憶を失った脳が、その匂いだけを「生存の正解」として即座に受け入れた。

 

 俺たちは、吸い込まれるようにして、その扉の向こう側へと足を踏み入れた。

 

 そこは、時間が止まった場所だった。

 地上の混乱も、バベルの崩壊も、白い霧の侵食も、ここには一滴も届いていない。

 煤けた木のカウンター。

 使い込まれた丸椅子。

 そして、黙々と鍋の前に立つ、一人の店主。


【スキル名:十八円の聖域(Eighteen-yen Sanctuary:The Last Cache)】

効果: 九条レンが消失直前に遺した、世界で唯一の「物理的恒常性維持領域」。この領域内では、あらゆる外部からの属性抹消、削除命令、論理崩壊が無効化される。また、領域内で「特定の食品うどん」を摂取することで、脳の神経回路が物理的に再接続され、失われた五感と記憶が段階的に復元される。

特性: ハッキングによる解除不能。九条の「意志」そのものがプログラムの核となっている。

取得条件: 九条を失ったデバッガーと、属性を失った令嬢が、共に「十八円の価値」を信じて扉を開く。

代償: この領域を維持するために、九条の人格データは完全に消費され、二度と復元できなくなる。


「……いらっしゃい。……ずいぶん、……ひどい顔だな、……閣下」


店主の声が、脳内のワイヤーフレームではなく、直接「耳」に届いた。

 

 ――聴覚、復元。

 

 俺は、目を見開いた。視力はまだ戻らない。だが、自分の耳が、空気を震わせる「音」を捉えていることに、猛烈な感動を覚えた。

 カレンの嗚咽。

 鍋の煮え立つ音。

 そして、自分の荒い息遣い。

 

「……一番、……高いやつを……二丁……だ……」


俺の口から、掠れた「言葉」が零れ落ちた。

 それは、九条やカレンへの感謝でも、神への呪いでもない。

 ただ、今日を生き抜くために、俺が必要としていた、たった一行の実行コード。


「……あいよ。……『極・ネギ盛り』、……二丁。……お代は、……もう……いいよ。……あいつが、……前払いで……一生分……払っていきやがったからな」


店主が、ドン、ドンと音を立てて、二つの器をカウンターに置いた。

 

 俺は、手探りで箸を取り、器へと伸ばした。

 立ち上る湯気が、俺の顔を包み込む。

 

 ――嗅覚、復元。

 

 醤油の塩気。小麦の甘い香り。そして、ネギの強烈な刺激。

 それらが、俺の脳の「空白のノート」に、鮮やかな色彩を叩き込んでいく。

 

「……食べましょう、……ツカサ。……これが、……私たちの、……新しい……ログイン・パスワードよ」


カレンが、隣でうどんを啜る音が聞こえた。

 俺も、麺を口に運んだ。

 

 ――味覚、復元。

 

 しょっぱい。

 ひどく、しょっぱい。

 だが、その塩分が、俺の死にかけた細胞の一つ一つを、強引に叩き起こしていく。

 

 その瞬間、俺の脳内で、一本の「隠しファイル」が解凍(展開)された。

 

 それは、九条が遺した最後のメッセージ。

 

『……司。……君がこれを食べている頃、……僕はもう、……ただの……背景ノイズだ。……でも、……忘れないで。……君が……一億人の……バグを……引き受けた時、……君は……本当の……神様より……ずっと……かっこよかったよ……。……さあ、……うどんが……伸びる前に、……自分の……「名前」を……取り戻せ……』


俺の脳内に、溢れるほどの「記憶」が戻ってきた。

 

 地下に堕ちたあの日。

 カレンと出会った夜。

 九条と交わした、くだらない冗談の数々。

 遠藤という男の、不器用な正義。

 

 それらすべてが、うどんの味と共に、俺という「佐藤司」という個体の中へと、濁流のように流れ込んでくる。


「……ぐ、……あ、……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


俺は、器を抱えたまま、声を上げて泣いた。

 痛い。

 思い出すことは、こんなにも痛いのか。

 

 だが、その痛みこそが、俺が「人間」であることの、何よりの証明だった。

 

 カレンの手が、俺の背中を優しく撫でる。

 彼女の「実体」が、俺の触覚を介して、鮮明に伝わってくる。

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