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第97話:灰の叙事詩:観測者(カレン)の独白と五感の栞

世界は、色のない静止画だった。

 地上三百メートルから、バベルの断末魔と共に放り出された俺たちは、厚く積もったナノマシンの残骸――「白い灰」のクッションへと沈み込んでいた。

 

 俺の意識は、依然として深い虚無の底に沈んでいた。

 視力、聴力、触覚……。一億人の自意識を救うために支払った対価は、俺という個体を構成するすべての「入力インプット」の消失だった。

 今、俺の脳内に辛うじて投影されているのは、九条が最後の力を振り絞って接続し続けている、極限まで簡略化された「外部感覚エキソ・センス」のワイヤーフレームだけだ。

 

 空はグレーの単色。

 地面は幾何学的なグリッド。

 そして、目の前にいる「何か」は、激しく明滅する不安定な蒼いポリゴン。

 

 それだけが、俺の今の世界のすべてだった。

 

(……俺は、……誰だ。……この、……震えている蒼いノイズは、……何だ……)

 

 思考の辞書インデックスが失われた脳内で、その問いだけが、壊れたレコードのように繰り返される。

 自分という存在を証明するログが、何一つ見当たらない。

 俺は、神を殺した王だったのか。それとも、ただの壊れたゴミだったのか。

 その答えを知る術は、もう俺の記憶の中には残っていなかった。


「……ツカサ、……起きて。……寝ちゃダメよ。……ここで寝たら、……あんた、……本当に……ただの……データになっちゃう……」


脳の外側から、かすかな振動が伝わる。

 九条のバイパス接続が、その振動を「言語」として翻訳し、俺の意識の核へと直接テキストを送り込んでくる。

 

 カレン。

 その文字列を見た瞬間、俺の胸の奥にある、唯一の消去不能なデータ――「十八円のうどん」の味が、ドクンと脈打った。

 そうだ。このノイズは、俺が……俺だけが「人間」だと定義し続けなければならない、……大切な……何かだ。


『……司、……聞こえるか。……人格維持リソース、……残り二%。……僕の……意識の断片を、……君の……前頭葉に……しおりとして……挟み込む……。……これを使って、……彼女の……声から、……君の……世界を……再構築しろ……』


九条の、消え入りそうなノイズまじりの声が響く。

 直後、俺の暗黒の意識の中に、一つの「空白のノート」が現れた。


【スキル名:復元:五感の栞(Restoration: Sensory Bookmark)】

効果: 自身が失った五感を、他者カレンの「語り」や「接触」をトリガーにして、一時的に仮想的な感覚として再定義する。カレンが「赤い」と言えば、ツカサの視界に「赤」という概念が復元される。カレンが「温かい」と言えば、ツカサの皮膚に「熱」という定義が復活する。

特性: 自身の記憶ではなく、他者の観測を「自身の真実」としてコピーし、人格を繋ぎ止める。

取得条件: 全感覚を喪失し、かつ一人の対象カレンとの強い精神的リンクが残っている。

代償: 復元された感覚はカレンの主観に依存するため、彼女が嘘を吐けばツカサの世界も歪む。また、使用するたびに、九条の「人格の残滓」が摩耗し、彼の消失を早める。


「……ツカサ。……あんたの名前は、……佐藤司。……世界で一番わがままで、……最高に腕の良い……デバッガーよ」


カレンの声が、俺の「栞」に最初の一行を書き込んだ。

 

 佐藤、司。

 その名前が確定した瞬間、ワイヤーフレームだけの世界に、わずかな「奥行き」が生まれた。

 

「……私たちは、……地下の……あの暗い掃き溜めで出会ったの。……あんたは……十八円のうどんを食べて、……死にそうに情けない顔をしていたわ。……でも、……その瞳だけは、……この腐った世界を……見捨てていなかった……」


カレンの独白が続く。

 彼女は、動かなくなった俺の身体を引きずるようにして、灰の降り積もる廃墟を歩き続けていた。

 彼女自身の脚は、すでに感覚を失い、蒼いノイズが火花となって散っている。

 属性抹消の代償。彼女は今、自分という存在を切り売りして、俺をこの世界に繋ぎ止めていた。


「……あんたは、……私を……鳳凰院の看板から解放してくれた。……『鏡に映らなくても、……お前はここにいる』って、……そう言ってくれた。……だから、……今度は私が……あんたを……定義してあげる……」


彼女の語る「思い出」が、俺の脳内の白いキャンバスに、色彩を落としていく。

 

 ――夕焼けの、血のような赤。

 ――うどん屋の、煤けた木の茶色。

 ――九条が笑った時の、澄んだ青。

 

 俺の失われた記憶が、彼女の言葉を通じて「再インストール」されていく。

 それはかつての真実そのものではないかもしれない。彼女の主観で美化され、歪められた「物語」かもしれない。

 だが、今の俺にとって、その物語こそが、唯一の生存規約ルールだった。


「……見て、ツカサ。……あそこに、……私たちの……最初の隠れ家だった……コンテナが見えるわ。……錆び付いて、……ボロボロで……。……でも、……世界で一番……安心できる場所……」


カレンが指し示した方向。

 九条のバイパス接続を通じて、俺の視界に「コンテナ」の形が鮮明に浮かび上がる。

 

 それは、ただの鉄の箱ではない。

 俺たちが初めてMASTIFFの目を盗んで、人間らしい言葉を交わした、……戦いの始まりの場所。

 

「……あ、……あ……、……カ、……レ、……ン……」


俺の喉が、微かに震えた。

 「カレン」という音を、俺の脳が「大切なもの」として認識し、発声器官に強制的な実行命令を下したのだ。

 

「……っ、ツカサ! ……聞こえてるのね!? ……私の声が、……届いているのね!」


カレンが俺を抱きしめ、灰の上に泣き崩れた。

 

 温かい。

 

 『五感の栞』が、彼女の体温を、俺の冷え切った意識に伝えてきた。

 それは電子の疑似信号ではない。

 彼女の魂が、俺の空っぽの器に流れ込んできた、……本物の「熱」だった。


『……成功、……だ。……司、……カレン。……君たちの……再定義ハックは、……神様の……設計図さえも……凌駕した……。……だが、……急げ。……バベルの崩壊の影響で、……地上全体の……論理階層が……不安定になっている……。……このままでは、……世界が……未定義の……ゴミの山に……還ってしまう……』


九条の警告が、脳内にノイズを走らせる。

 

 神がいなくなった世界。

 そこにあるのは、自由だけではない。

 管理を失い、自重で崩壊し始めた、……不安定な「現実リアル」という名のバグだった。

 

 俺たちは、再び歩き出した。

 カレンに支えられ、九条に導かれ、俺は失われた自分を、一文字ずつ拾い集めていく。

 

 向かうのは、地下街の最深部。

 そこにある、……俺たちの「最後の規約」が眠る、あのうどん屋。

 

「……行こう、……ツカサ。……あんたの……大好きな、……十八円の……味が……待っているわ」

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