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第96話:虚無の残響:亡霊の導きとAIの手(リソース)

静寂。

 それは、音が消えたということではなかった。

 世界という名の「情報」が、俺という端末から完全に切断ディスコネクトされたという、絶対的な虚無の宣告だった。

 

 視界は、暗闇ですらない。光という概念そのものが脳の辞書から消去されている。

 聴覚は、沈黙ですらない。空気の振動を電気信号に変換するための「規約プロトコル」が焼き切れ、脳は一億人の悲鳴の残響だけを、終わりのないフィードバック・ループとして再生し続けている。

 嗅覚も、触覚も、味覚も。

 俺を俺足らしめていた五感のすべてが、一億人分の個性を再定義するための「演算コスト」として消費され、今の俺は、ただ呼吸という名の自動実行マクロを繰り返すだけの、空っぽのハードウェアに過ぎなかった。


(……俺は、……誰だ)


思考の海を漂う、最後の一片のログ。

 名前を思い出そうとしても、脳のインデックス・テーブルは真っ白に上書きされている。

 自分が何を成し遂げ、誰を救い、なぜここに膝をついているのか。

 それらすべてが、白い霧の彼方へとパージ(削除)されてしまった。

 

 だが、その冷え切った電子の荒野に、たった一つだけ、消去不能な「異常値バグ」が残っていた。

 

 ――しょっぱい、……うどん。

 ――ぬるい、……スープ。

 ――ネギの、……苦味。

 

 十八円の、あの最悪な味の記憶だけが、俺の魂の最深部に「読み取り専用リードオンリー」のファイルとして、しぶとく居座っていた。

 それが、俺がまだ死んでいないことを証明する、世界で最後の、そして唯一のデバッグ・ログだった。


「……ツカサ……! ……起きて! ……返事をしてよ! ……お願い、……私の名前を……呼んで……!」


脳の外側で、何かが激しく振動している。

 それが「声」であることも、その振動が「悲しみ」を帯びていることも、今の俺には理解できない。

 ただ、何者かが俺の肩を掴み、崩落する瓦礫の重圧から俺を守ろうとしていることだけが、本能的な「入力インプット」として伝わってくる。


「……属性:無……。……観測、……不能……。……佐藤、……司……。……全感覚、……消失……」


別の、ひどくノイズの混じった、金属的な、けれど泣き出しそうな響きが脳内に直接響いた。

 かつて九条と呼んでいたはずの、あの「親友」の残響。

 彼は神の心臓から切り離され、実体なきプログラムの欠片となって、崩壊しゆくバベルの通信網の中を必死に駆け巡っていた。


『……司、……聞こえるか。……いや、……聞こえないな。……君の脳の受信ポートは、……今、……完全に物理的な……焼損を起こしている……。……だが、……僕が……君の……残された……意識の端に、……直接……パッチを当てる……』


――バチィィィィィィィィン!

 

 脳の深層に、凄まじい衝撃が走った。

 それは九条が、バベルの残存電力を使い、俺の神経系を強引にハックして「外部感覚エキソ・センス」をバイパス接続した結果だった。


「……が、……ぁ、……あぁ……!」


俺の意識が、一瞬だけ再起動リブートした。

 

 視界が戻ったのではない。

 九条が生成した「ワイヤーフレーム」が、俺の脳内に直接投影されたのだ。

 崩れ落ちるバベル。天井から降り注ぐ巨大な瓦礫。

 肉塊ガイア・コアから溢れ出した赤黒い液体が、床を川のように流れ、すべてを侵食していく終焉の景色。

 

 そして。

 

 俺のすぐ側で、ボロボロの服を纏い、泥だらけの手で俺の腕を必死に引いている、一人の少女。

 彼女の全身からは、蒼いノイズが吹き出し、今にも空間に溶けて消えてしまいそうなほど、その存在は希薄になっていた。

 俺が彼女を「認識」することをやめたせいで、彼女の存在定義が、再び崩壊し始めていたのだ。


(……この、……少女は、……誰だ)


俺は、彼女の名前を知らない。

 彼女とどんな旅をして、どんな言葉を交わしたのかも、今の俺のキャッシュには残っていない。

 だが、彼女の瞳から溢れる涙を見た瞬間、胸の奥にある「十八円の記憶」が、激しく共鳴した。


『……司、……彼女は……カレンだ。……鳳凰院、……カレン。……君が……一億人を捨ててでも……守ろうとした……世界で一番……わがままな、……君の……観測対象だ……』


九条の声が、俺の脳内に文字として流れる。

 カレン。

 その名が、俺の空っぽのディレクトリに、一文字ずつ刻み込まれていく。

 

「……ツカサ、……分かるの!? ……私よ、……カレンよ! ……鏡に映らなくても、……名前がなくても、……あんたが……見つけてくれた……カレンよ!」


少女――カレンが、俺の頬を両手で挟み込んだ。

 

 熱い。

 感覚を失ったはずの頬に、彼女の涙の温度だけが、焼印のように刻まれる。

 

『……司、……感傷に浸っている……暇は、……ない。……バベルの構造維持システムが、……完全に……シャットダウンした。……あと、……三分十二秒で、……この塔は……自重で……完全に……粉砕される……』


九条の警告と共に、足元の床が大きくひび割れた。

 

「……行くわよ、ツカサ! ……私たちが、……あんたを……外まで……連れ出してあげる! ……あんたが……世界を救ったんだから、……私たちが……あんたを……救う番なのよ!」


カレンが俺を抱きかかえるようにして立ち上がらせた。

 彼女自身の脚は、すでに限界を越えてガタガタと震えている。属性を失ったまま、実体化の代償を払い続けてきた彼女の肉体は、いつ霧散してもおかしくない状態だった。


【スキル名:亡霊の牽引:存在の連鎖(Ghost Tether:Chain of Existence)】

効果: 存在定義を失いかけたカレンが、自身の「無」という属性を逆手に取り、感覚を失ったツカサを「自身の質量の一部」として定義する。これにより、ツカサはカレンが動くたびに、物理的な接触を超えた「因果の強制移動」を受け、バベルの瓦礫や重力の影響を無視して共に移動が可能となる。

特性: 「引っ張る」のではなく「同じ場所に存在させる」。

取得条件: 属性を失った者が、自身を観測できなくなった対象ツカサに対し、命を賭して「ここに在る」と叫び続ける。

代償: カレンの自我が急速に「情報化」され、脱出後、彼女自身が「誰であったか」を忘れてしまう危険がある。


「……ぅ、……あ……」


俺の口から、掠れた声が漏れる。

 

 カレンが一歩進むたびに、俺の身体が空間ごと引き寄せられ、崩落する天井の隙間をすり抜けていく。

 背後では、一億人の脳を繋いでいた「肉塊」が、本来の重みに耐えきれず、絶叫のような音を立てて潰れていった。

 

『……司、……カレン、……右だ! ……非常用ダクトの……排気圧を……ハックして、……一時的な……上昇気流を……作る! ……そこから、……外部へ……跳んでくれ!』


九条の蒼いノイズが、ワイヤーフレームのマップに「一本の光の線」を描き出した。

 それは、地獄の底から天へと続く、あまりに細くて、頼りない蜘蛛の糸。


「……ツカサ! ……しっかり掴まって! ……あんたを、……絶対……離さないから!」


カレンが俺を抱き寄せ、燃え盛る排気ダクトの穴へと、迷いなくその身を投げた。

 

 ――凄まじい衝撃。

 

 熱風が俺の全身を焼き、九条のバイパス接続が、過負荷でバチバチと火花を散らす。

 脳内モニターが激しく明滅し、一瞬だけ、現実の空が見えた。

 

 蒼いエラーの空は、もうない。

 そこにあるのは、人々の「意志」が火花となって飛び交う、灰色の、けれど確かな、朝焼けの前の暗闇。

 

 俺たちは、バベルの壁面を突き破り、虚空へと放り出された。

 

「……あ、……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


落下。

 高度三百メートル。

 

 死の恐怖すら、今の俺には「未定義のエラー」として処理されていた。

 ただ、腕の中にある、この少女の……カレンの温もりだけが、俺のすべてだった。


『……司、……カレン、……最後のリソースを……制動ブレーキに……回す……。……さよなら、……は、……まだ……言わないよ……』


九条の声が、バベルの爆発音と共に、遠ざかっていく。

 

 俺たちは、白い霧が晴れゆく地上の瓦礫の山へと、真っ逆さまに堕ちていった。

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