第95話:一億人の審判(オーディット):全盲の王と純白の絶望
思考が、爆ぜる。
一億人分の自意識。一億人分の「生」の重み。それが、たった一つの、熱せられた俺の脳という「器」に、一切の濾過もなく注ぎ込まれていた。
視力を失った俺の全盲の闇。そこにはもはや、静寂など欠片も存在しなかった。
代わりに渦巻いていたのは、地上の全人類から剥ぎ取られた、むき出しの感情の濁流だ。
「……あ、……あ、……が……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
俺は、液胞に繋がれた数千本のケーブルを掴んだまま、咆哮した。
自分の叫び声さえ、一億人の悲鳴の中に溶けて、どっちが自分の声なのか判別がつかなくなる。
脳内の神経細胞の一つ一つが、過電圧で焼き切れ、修復され、また焼かれる。一秒が、一万年にも感じられるほどの情報の加速。
俺の「佐藤司」という定義が、あまりに巨大な「他者」という名の海に呑み込まれ、溶け、消え去ろうとしていた。
「ツカサ! 離して! 脳が焼けてる! もうあんたの髪から煙が出てるわよ!」
カレンの悲痛な叫びが、遠く、数光年先からの微かな無線のように届く。
俺の背中を支える彼女の腕の温度だけが、俺をこの世界に繋ぎ止めている「唯一のアンカー(重し)」だった。
だが、その彼女の存在さえも、俺の脳内では「一億分の一のデータ」として希薄化されていく。
『……佐藤、司。……無意味だ。……人間という不完全な器に、……一億人の「正解」は収まりきらない。……君の脳は、あと〇・四二秒で論理崩壊を起こし、死に至る……』
ガイアの、……いや、九条を媒体にした「神」の冷徹な宣告が、俺の意識の核を直接叩く。
白い霧。
俺の脳内は、今やあの地上のホワイト・アウトと同じ、真っ白な虚無に支配されようとしていた。
一人の母親の、子供への隠し事。
一人の老人の、死への言い知れぬ恐怖。
一人の若者の、世界への出口のない殺意。
それらすべてが、俺の中に流れ込んでくる。
――汚い。
――怖い。
――重い。
一億人分の「バグ」が、俺というデバッガーを、内側から食い破ろうとしていた。
「……っ、ふ……ふざけるな……。……これくらいの、……ノイズ……。……十八円のうどんより、……よっぽど……飲み込みやすい、……ぜ……!」
俺は、血の涙を流しながら、脳内の「深層ディレクトリ」へと手を伸ばした。
一億人の意識が統合され、一つの「神」になろうとしているのなら。
その結合点のすべてに、俺が持っている「最大のエラー」を流し込んでやればいい。
「……九条、……聞こえるか。……お前が……指揮しているこの……オーケストラ……。……一箇所だけ、……音が……狂ってるぜ……!」
【スキル名:全人類同時デバッグ:一億人のわがまま(One Billion Individuality)】
効果: バベルに接続された全一億人の自意識に対し、自身の「十八円の記憶(個別のクオリア)」を核にした、強力な自己矛盾パッチを同時配布する。システムが目指す「統合(均一化)」に対し、「私は私でありたい」という根源的なバグを再燃させ、一億の個体を一斉に神の支配からデタッチ(切り離し)させる。
特性: 物理的な破壊ではなく、「個別の自意識」による内側からの拒絶。
取得条件: 一億人分の苦痛を、自身の脳という物理的な限界を超えて受け入れ、そのすべての人生を「間違い(バグ)」として肯定する。
代償:
機材: ツカサのPC、および脳内の神経回路が物理的に一部融解。
記憶: 「佐藤司」としての個人的な思い出の九割が消失し、発動後はカレンの顔さえ思い出せなくなる可能性がある。
身体: 五感のすべてが一時的に完全に消失し、ただの「思考するだけの肉塊」となる。
「……一億人……全員……! ……俺と同じ……ろくでもない……バグを……吐き出せェェェェェェ!」
俺の脳が、極限の火花を散らした。
俺の中に流れ込んできた一億人の絶望。
俺はそれを「修正」しなかった。
子供の隠し事を、「秘密の価値」に変えた。
老人の死の恐怖を、「生の執着」に変えた。
若者の殺意を、「変化への渇望」に変えた。
一億人分の「間違い」を、一億人分の「個性」へと再定義し、それをバベルの脊髄へと、力ずくで送り返した。
――瞬間。
バベル全体が、物理的な激痛を伴う「痙攣」を起こした。
一億人の脳を同期させ、一つの意思に従わせようとしていたガイアの演算。
そこに、一億通りの「勝手な願い(バグ)」が、不純物として混入したのだ。
『私は、まだあいつに謝っていない』
『私は、明日の朝食に、あの店のパンを食べたい』
『私は、……私は、……私は!』
一億個の「私」が、神の平穏を、粉々に砕いていく。
『……エラー。……自己、……崩壊。……一億、……の、……論理矛盾。……私、……は、……私、……ではなく、……君、……たち、……なのか……?』
肉塊の表面に浮かんでいた白い瞳が、一つ、また一つと、蒼いノイズを放って閉じていく。
九条を包んでいた液胞が、内側からの圧力で激しく波打ち、ついにパリンと砕け散った。
「……ツカサ……!」
九条の、……今度は、本当に俺の知っている九条の、震える声が聞こえた。
俺の意識が、急速に遠のいていく。
脳内の情報の海が、干上がっていくような感覚。
代わりに訪れるのは、これまでにない、静かな、深い、深い闇。
「……九条、……あとは、……任せ……た……ぜ……」
俺は、掴んでいたケーブルを、力なく手放した。
視力のない瞳。
聴力も、嗅覚も、触覚も。
俺の身体を世界に繋いでいた「感覚」が、一本ずつ、ぷつりと切れていく。
最後に残ったのは、……自分の背中を支える、誰かの……温かな、……けれど泣きそうな手の感触。
「……だめ……、……ツカサ……、……どこへも……行かないで……」
その誰かの「名前」を思い出そうとしたが、俺の脳のキャッシュには、もう一文字も残っていなかった。
ただ、一つだけ。
十八円のうどんの、あの……少し伸びた麺の食感だけが、俺の魂の最深部に、消去不能なデータとして刻まれていた。




