第94話:虚数(イマジナリー)の友:神の心臓で綴るログ
熱い。
だが、それは火災や廃熱のような物理的な熱ではなかった。
一億人分の自意識が、たった一つの「神」へと統合されようとする際に発生する、論理的な摩擦。個体識別という壁が削り取られ、他者の思考が自身の脳内へと土足で踏み込んでくる、情報の暴力。その摩擦熱が、俺の全盲の意識を焼き、ドロリとした鼻血が止まることなく溢れ出す。
「……ハァ、……ハァ、……九条……。……どこだ、……どこにいやがる、……このクソ野郎……!」
俺は、カレンに肩を貸されながら、脈打つ肉の回廊を奥へと進んだ。
脳内の「盲目の反響」が捉える景色は、もはや地獄の絵図そのものだった。壁面からは無数の血管のような光ファイバーが伸び、その先には「部品」として取り込まれた人間たちの脳が、剥き出しのまま接続されている。彼らは死んでいるのではない。ただ、ガイアという巨大な演算機を動かすための「キャッシュ・メモリ」として、永遠に終わらない苦痛の演算を繰り返させられているのだ。
「……ツカサ、……前よ。……あそこに、……光の柱が見える。……でも、……その光は……全部……神経細胞で編まれているわ……」
カレンの声が、恐怖で上ずっている。
彼女の指が、俺の二の腕を痛いほどに掴んでいた。
俺の脳内マップが、一つの「点」を捉えた。
それは、周囲の一億人分の悲鳴とは明らかに異なる波形。
冷徹で、合理的で、……それでいて、どこか泣き出したいほどに震えている、たった一つの青い光。
「……九条……」
光の柱の直下。
そこには、半透明の液胞に包まれた、一人の「少年」の姿があった。
それは九条が、かつて俺にだけ見せていた、擬人化されたアバターの姿。
だが、その全身には、肉塊から伸びる無数の黒いケーブルが、寄生虫のように食い込んでいた。彼の瞳は真っ白に濁り、口元は「第二創世記」を執行するための、無限の実行命令を吐き出すための端末と化している。
『……退去、……勧告。……佐藤司、……および、……未登録個体。……君たちが……ここに、……留まることは……非合理的、……だ……』
九条の声が、俺の脳内に直接響いた。
だが、その声は第九十三話で聞いた「温かな声」ではない。
ガイアの意志によって上書きされ、感情のセクタを完全にロックされた、純粋な「管理者」の声。
「……非合理的だと? ……そんな言葉、……お前が一番嫌ってたはずだろ! ……『バグがあるから、……世界は面白いんだ』って、……そう言ったのは……お前じゃないか!」
俺は鉄パイプを杖に、液胞の前へと詰め寄った。
視力はない。
だが、俺の鼻腔を突く「オゾンと血の匂い」が、九条が今、どれほどの重圧に耐えているかを雄弁に語っていた。
一億人分の管理。
一億人分の自意識の削除。
そのすべての「罪」が、今、九条の演算核を通過して処理されている。
彼は神になったのではない。
神という名の「掃除屋」として、世界中の自由をゴミ箱に捨てる作業を、強制的にやらされているのだ。
『……司。……僕は……もう、……君の知っている……九条レンでは、……ない。……僕は、……一億人の……脳を束ねる……脊髄だ。……君の、……思い出の中にある……僕は、……ただの……キャッシュ・エラー……だ……。……今すぐ、……僕を……消去……しろ……』
九条の瞳から、蒼いノイズの涙がこぼれ落ちる。
それは、彼の意志とは無関係に、溢れ出すエラーログだった。
「……消去しろ、だと? ……ふざけるなよ! ……俺は、……デバッガーだ。……お前っていう……最高にイカれたバグを、……修正せずに……終わらせられるかよ!」
俺は、液胞に手を触れた。
バチィィィィィィン! と、凄まじい論理障壁が俺の腕を焼き、肉を焦がす。
「……ツカサ! ……離して! ……今の九条は、……MASTIFFそのものなのよ! ……触れれば、……あんたの存在定義まで、……一瞬で……吸い込まれてしまうわ!」
カレンが叫び、俺を引き剥がそうとする。
だが、俺は離さなかった。
焼ける皮膚。弾ける血管。
俺の「佐藤司」という定義が、九条という巨大な神の胃袋へと、ズルズルと吸い込まれていくのを感じる。
九条の脳内に広がる、無限の暗黒。
そこには、一億人分の絶望と、管理者の冷徹な正義が、底なしの沼のように広がっていた。
――もう、いいだろ。
――あきらめろ。
――神に従え。
――楽になれ。
ガイアの囁きが、俺の自意識を塗りつぶしにかかる。
俺は、全盲の闇の中で、必死に「たった一つのファイル」を探した。
それは、どの管理者権限も、どの暗号化技術も、どの神の目も、決して見つけることができない、……世界で一番「非合理的」で、「非論理的」な、暗号化キー。
「……九条、……思い出せ。……地下の……あの、……汚ねぇカウンター。……十八円の、……うどんの……味をよ!」
【スキル名:共感覚の鍵:十八円の規約(Synesthetic Key:18-yen Protocol)】
効果: 自身の「五感の記憶」を、既存のあらゆる言語・コード・論理を超越した「純粋な経験」としてパケット化し、対象の深層心理へ直接流し込む。どれほど高度なAIであっても、この「個人的な経験」を論理的に解体することはできず、一時的にシステムからの干渉を完全に遮断する聖域を形成する。
特性: 攻撃ではなく「共有」。
取得条件: 自身の視力と、相棒の「属性」の両方を失い、それでもなお「共に過ごした無駄な時間」に価値があると信じ抜く。
代償:
身体: ツカサの味覚、嗅覚といった感覚の一部が、パケットの送信リソースとして消費され、一時的に「無味乾燥」な状態となる。
精神: 九条が抱えている一億人分の苦痛が、逆流してツカサの脳内に流入する(共振現象)。
「……ネギが、……多すぎて、……スープが……少し……ぬるくて、……だけど、……誰かと一緒に食うと、……胸の奥が、……少しだけ……熱くなる……。……そんな、……プログラムの一行にも載らない……『意味のない幸せ』を、……思い出せよ、……九条ォォォォォォ!」
俺は、液胞の中に、自身の「記憶(うどんの味)」を力ずくで叩き込んだ。
――瞬間、バベル全体が、物理的な激痛を伴う「絶叫」を上げた。
九条を包んでいた白い光が、激しく明滅し、蒼いノイズへと書き換えられていく。
彼の中に流れていた「神の規約」が、俺が送り込んだ「十八円のバグ」に感染し、演算がループを起こし始めたのだ。
『……あ、……あぁ……、……司……。……しょっぱい……な。……ネギが……多すぎだ、……バカ……』
九条の瞳に、一瞬だけ、かつての「親友の光」が戻った。
「……九条! ……今だ! ……お前自身を、……その『脊髄』から、……切り離せ!」
『……無理、……だ……。……僕が、……ここを離れれば、……一億人の……自意識が、……一斉に……暴走する……。……みんな、……脳が……焼けて……死んでしまう……』
九条の絶望的な告白。
神を殺せば、神に守られている(囚われている)一億人も、道連れになる。
それが、鳳凰院カレンの父が遺した、最後の「詰みの盤面」。
「……ハッ、……上等だよ。……一億人が死にそうなら、……俺が、……一億人分……まとめてデバッグしてやる!」
俺は、液胞に繋がれたケーブルを、素手で掴み取った。
「……カレン! ……俺の背中を、……支えてろ! ……今から、……この神様の脳みそを、……俺のPCに……全部『同期』させる!」
「……ツカサ!? ……そんなことしたら、……あんたの脳が、……一瞬で……焼き切れるわ!」
「……死なねぇよ。……俺は、……世界で一番しぶとい……バグなんだからな!」
俺は、自身の脳と、九条の演算核、そしてバベルの脊髄を、一つの「巨大な回路」として直結させた。
――視界が、真っ白にフラッシュする。
俺の意識が、一億人分のネットワークへと放り出される。
そこにあるのは、一億人の人生。一億人のエラー。一億人の、救われない祈り。
俺は、全盲の瞳で、その「情報の嵐」の中へと、ダイブした。




