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第99話:観測者の眼:真実の光と未定義(バグ)の地平

舌の上が、痺れるほどに熱い。

 醤油の濃い塩分と、安っぽい化調の旨味、そしてクタクタに茹で上がった小麦の甘みが、麻痺していた俺の味覚受容体を力任せに叩き起こしていく。それは九条がかつて演算で見せてくれた「黄金比の味」とは程遠い、あまりに不格好で、不純物だらけの、……けれど、世界で一番「本物」の味だった。


「……ハァ、……ハァ、……美味いな。……クソ、……涙で……味が……分かんねぇよ……」


俺は、視力のない瞳から溢れる熱いものを、煤けた袖で何度も拭った。

 聴覚が、周囲の音を立体的に描き出す。

 換気扇が回る低い唸り、鍋の中で踊るうどんの飛沫、店主の荒い鼻息、そして、隣で同じように器を抱え、必死に「生」を啜っているカレンの、喉が鳴る音。

 嗅覚が、記憶の引き出しを次々とこじ開けていく。

 漂う出汁の香りは、俺が信用スコアEに墜ちたあの日、絶望の中で初めてこの暖簾を潜った時の情景を連れてきた。


失われていた俺の記憶のインデックスが、うどんの一口ごとに、猛烈な勢いで再構築リビルドされていく。

 カレンのわがままな微笑み。九条の鼻につく合理的なジョイク。遠藤の冷徹な眼鏡の奥に潜んでいた、一抹の正義への渇望。バベルの頂上で見た、一億人の自意識が爆発する瞬間。

 それらすべてが、ただの「データ」ではなく、俺の血肉を通した「経験」として、俺という個体(佐藤司)の中に定着していくのを感じた。


「……店主。……九条は、……あいつは……最後に……なんて言ってた」


俺は、器をカウンターに置き、真っ暗な闇の中、声のする方へと問いかけた。

 店主が、まな板を叩く手を止めた。タオルで手を拭い、どこか遠くを見るような沈黙のあと、彼は重々しく口を開いた。


「……あいつか。……最後にここに来たのは、……バベルの式典が始まる数時間前だったな。……あいつ、……一言も喋りゃしなかったよ。……ただ、……カウンターのこの場所に、……一億人分の……いや、……この地下の全住民が……一生、……うどんに困らねぇくらいの……膨大なリソースと……電力を、……物理的なキャッシュとして……叩き込んでいきやがった」


店主の指先が、カウンターの傷跡をなぞる。


「……あいつ、……笑ってたぜ。……『これで、……あのおせっかいな……デバッガーが、……いつか帰ってきた時に、……お代を気にせず……ネギを……山盛りにできる』ってな。……俺には、……あいつが……機械(AI)なのか……人間なのか……最後まで分からなかったが……。……一つだけ言えるのは、……あいつは、……誰よりも……あんたの……『空腹』を……心配してたってことだ」


俺は、唇を噛み締めた。

 九条。あいつは、自分が消えることを分かっていて、俺たちが帰ってくる場所だけは、死守してくれたんだ。神を殺し、世界を壊し、すべてを失ったとしても、ここに来れば、温かいうどんが食べられる。その一点の「不合理」を維持するために、あいつは自分の全リソースを投げ出した。


「……あいつ、……本当に、……最後まで、……お節介な……バグだったな……」


カレンが、俺の手の上に、自分の手をそっと重ねた。

 彼女の体温が、俺の皮膚を通じて脳へ直接流れ込む。

 『五感のセンソリー・ブックマーク』がなくても、今の俺には分かる。彼女は今、泣き笑いのような、言葉にできない複雑な表情で俺を見ている。


「……ツカサ。……世界は、……もう……誰も……守ってくれないわ。……地上では、……みんなが……右往左往して、……自分たちの……存在理由を……探して……彷徨っている。……でもね、……私たちは……ここにいる。……うどんを食べて、……あんたの……隣にいて。……それだけで、……もう……十分じゃない?」


「……ああ。……十分だ。……だけど、……カレン。……俺は、……まだ……見なきゃならないものが……あるんだ」


俺は、再び [BLACK] ID を手探りで掴んだ。

 九条の消滅と共に、その機能の九十九%は失われている。もはやハッキングも、監視カメラへの介入もできない。

 だが、そのチップの最深部には、九条が遺した最後の、最後の一行のコードが残っていた。

 それは、ツカサの視力を取り戻すための「設定(Config)」ではない。

 世界そのものを、……システムを介さずに「観測」するための、……人間としての……最後のデバッグ命令。


「……カレン。……俺の目を、……見てくれ。……属性:エンプティだったお前を、……俺が……最初に見つけたように。……今度は、……お前が、……俺の世界を……『定義』してくれ」


俺は、視力のない瞳を見開いた。

 脳内モニターのワイヤーフレームを、自らの意志でシャットダウンする。

 九条が遺したバイパス接続に頼るのをやめる。

 神の目が描く「正解」を捨てる。

 俺は、俺自身の「意志」で、目の前の景色を、一文字ずつ書き下ろしていく。


【スキル名:観測者の眼:真実の再定義(Observer's Eye: Absolute Definition)】

効果: システムやAIによる補助を一切介さず、自身の「経験」と「他者カレンへの信頼」のみを光源にして、失われた視覚を精神的・論理的に再構成する。世界を「データ」として見るのではなく、意味の伴った「実体」として認識する。

特性: スコアや属性による色付けを完全に排除し、ありのままの「未定義バグだらけの世界」を直視する。

取得条件: すべてのハッキング権限を喪失し、それでもなお、目の前の対象を「愛している」と定義し続ける。

代償: 脳に凄まじい負荷がかかり、一時的に知能指数(IQ)や論理演算能力が低下する。神のような「効率」を捨て、不器用な「人間」へと完全に退化する。


「……カレン。……お前が、……そこにいる。……髪は、……少し……乱れていて。……頬には、……うどんのつゆが……跳ねていて。……瞳は、……バベルの光よりも……ずっと……深い……青色をしていて……」


俺の声が、暗闇を切り裂く。

 俺の脳内で、真っ白なキャンバスに、一点の「色彩」が弾けた。

 

 ――それは、光の粒子。

 

 網膜が光を捉えたのではない。

 俺の魂が、彼女を「見たい」と願い、その願いが、脳の視覚野を強引に再起動させたのだ。

 

 ノイズまみれのワイヤーフレームが、ゆっくりと、色彩を持った「絵」へと変わっていく。

 煤けたうどん屋の店内。

 使い込まれたカウンター。

 店主の、無骨で温かい背中。

 そして。

 

「……ツカサ……!? ……あんた、……見えて……」


目の前にいる、カレンの姿。

 彼女は、九条が投影していた完璧なホログラムよりも、ずっと不格好で、ずっと泥臭くて。

 だけど、この世のどんな「正解」よりも、鮮やかに、眩しく輝いていた。

 彼女の瞳に、鏡には映らなくなったはずの、俺自身の情けない顔が、映り込んでいるのが見えた。


「……ああ。……見えたよ、……カレン。……最低で、……最高の、……バグだらけの世界が……」


俺は、彼女の頬を、自分の指でそっと撫でた。

 今度は、すり抜けない。

 確かな皮膚の柔らかさ。涙の湿り気。

 俺たちは、神がいなくなった世界の瓦礫の上で、ようやく「ただの二人」になれたのだ。


「……ツカサ、……バカ。……本当の、……バカなんだから……」


カレンが俺の胸に飛び込んできた。

 俺はその温もりを全身で受け止めながら、店主の背中に向かって、最後の一言を放った。


「……店主。……お代は、……出世払いで……いいよな。……俺は、……これから……この世界を……一文字ずつ……デバッグして回らなきゃ……いけないんだ」


「……フン。……さっさと行け、……デバッガー。……二度とうどんの味を忘れるような……ヘマは……するなよ」


俺は、カレンの手を握り直し、ゆっくりと立ち上がった。

 杖にしていた鉄パイプを、店先に置いていく。

 もう、これはいらない。

 俺の足は、しっかりと、この不安定な「現実」の地面を捉えているからだ。


階段を上り、地下の暗闇から地上へと這い出す。

 そこには、かつてのゼノン社の傲慢なネオンも、蒼いエラーの空もなかった。

 

 東の空から、白んだ光が差し込み始めている。

 それは、神が管理することを放棄した、不条理で、予測不能で、……だからこそ、何者にでもなれる、新しい世界の夜明け。

 

「……ツカサ。……どこへ行く?」


「……決まってるだろ。……まずは、……十八円の価値もなくなった……この国で、……『自由』っていう名の……最悪のクソゲーを……攻略しに行こうぜ」


カレンが、俺の隣で、眩しそうに太陽を見上げた。

 鏡には映らない少女と、何も持たないデバッガー。

 二人の足元に伸びる影は、長い夜を越えて、どこまでも、どこまでも続いていく。

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