第90話:父の遺言:セカンド・ジェネシス
湿った冷気と、焦げた電子回路の匂いが混じり合う。
鳳凰院別邸の地下シェルター。かつて没落令嬢としてのカレンが、自分の宝石箱を隠したというその場所は、今や崩壊した世界を繋ぎ止めるための、最後のデバッグ・ポイントと化していた。
俺、佐藤司は、手探りで旧式の大型計算機の筐体に手を触れた。
視力を失った俺の指先に伝わってくるのは、数十年分の埃を被った鉄の冷たさと、内部で高速回転するハードディスクの微かな、だが必死な振動だ。全盲の俺の脳内には、かつて九条が見せてくれた蒼いワイヤーフレームはもう存在しない。ただ、真っ暗な闇の中に、音と熱が描き出す不確かな「世界の形」だけが、砂嵐のように明滅していた。
「……サカモト。解析の進捗はどうだ。第八十九話で見つかった、あの『墓守』どもの残骸……。カレンの親父が遺したファイルのプロテクトは、まだ剥がれないのか」
俺の声が、低い冷却ファンの音に吸い込まれていく。
正面に座っているはずのサカモトの、激しくキーボードを叩く音が止まった。彼の呼吸が、目に見えて荒くなっているのが「音」だけで分かった。
「……佐藤様。……いえ、……もはや、……言葉が出ません。……このファイルのヘッダ情報を読み解くだけで、……私の脳が、……既存の規約を拒絶しています。……これは、パッチなどではありません。……これは、……この管理社会が生まれる前から準備されていた、……人類という種に対する……究極の『仕様書』です」
「……仕様書、だと?」
隣で俺の腕を掴んでいたカレンの指先が、微かに震えた。
属性抹消の果てに、一度は存在の輪郭を失いかけた彼女の身体。だが、「フェニックス起動」によって、世界そのものが『属性』という定義を失ったことで、彼女は皮肉にも「何者でもない一人の人間」として、この世界に物理的な重みを取り戻していた。
だが、今、俺に触れている彼女の手は、まるで氷細工のように冷たい。
「……ツカサ。……お父様の声が、……聞こえるわ。……このデータの中に、……九条のそれよりもずっと古くて、……冷酷な……オリジナルの論理が、……心臓みたいに脈打っている」
サカモトが震える手で、再生のコマンドを叩いた。
次の瞬間、シェルター内のスピーカーから響いてきたのは、ひどくノイズの混じった、だが威厳に満ちた男の声だった。
鳳凰院、……カレンの父。この地獄のシステムを設計し、国民を「肥料」として定義した、諸悪の根源。
『……もし、誰かがこのログを聴いているならば。……それは、MASTIFFという仮初めの神が壊され、……真の計画――「セカンド・ジェネシス(第二創世記)」が開始されたことを意味する』
その声は、死者のものとは思えないほど生々しく、俺の鼓膜を蹂躙した。
『……諸君は、自分たちが神を殺し、自由を掴み取ったと錯覚していることだろう。……だが、思い出すがいい。……人類は、……自由という名のカオスには耐えられないのだ。……フェニックスによって一度すべてを壊し、……MASTIFFという補助輪を奪う。……その直後に訪れる最大級の絶望の中でこそ、……人は、……真の、……絶対的な、……救済としての管理を……自ら切望するようになるのだ。……これを私は、「強制的な自意識の再起動」と呼んでいる』
「……嘘、でしょ……。……お父様、……何を言っているの……」
カレンの嗚咽が聞こえる。
俺は、鉄パイプを杖に立ち上がった。脳内の「盲目の反響」が、シェルターの壁を透過して、地上の「異変」を捉え始めていた。
――第七十五話から第八十九話まで、国民が「自由」だと感じていたあの数日間。
それは、システムが崩壊した結果ではなかった。
システムが、自ら「殻」を脱ぎ捨て、中身の「真の捕食者」を解き放つための、準備期間に過ぎなかったのだ。
「……九条が消えたのも、……遠藤が壊れたのも、……全部あらかじめ組み込まれた……『期待値』だったってわけかよ。……神様を壊したつもりが、……俺たちは、……神様の『脱皮』を手伝わされていただけだったんだ」
俺の鼻から、どろりとした熱いものが溢れ出した。
脳が、システム外にいる自分を拒絶している。自律境界の代償。だが、今の俺にはそんな痛みなどどうでもよかった。
スピーカーからの声は、残酷に続いた。
『……バベルのアンテナから放たれた白い光は、……人々の脳に「空虚」を植え付けた。……今、その空虚を埋めるために、……MASTIFFの深層に眠っていた……真のガイアが、……一億人の意識を……物理的な『一つの肉塊』へと吸い込み始める。……これを止める術はない。……これは、……人類という名のバグを修正するための、……究極の……デフラグメンテーション(最適化)なのだから。……さあ、……白い霧を吸い込み、……私の一部に還るがいい』
「……サカモト! 地上のレーダーを見ろ! ……何が起きてる!」
俺の叫びに、サカモトが悲鳴のような声を上げた。
「……あ、……ああぁ……! ……空が、……エラー・ブルーの空が、……白く……白く染まっていきます! ……これは光ではありません。……高濃度の……ナノマシンの霧です! ……地上の人々が、……霧に触れた瞬間に、……意識を失って……バベルの方へ……引き寄せられています!」
一億人を救ったはずのフェニックスの光が、今度は一億人を狩るための「網」に変わった。
国民は今、自由を手に入れた瞬間に、その自意識を「真のガイア」へと吸い上げられようとしている。
それは「肉塊」のクラウドとは比較にならない規模の、地球規模の自己消去。
「……カレン、……泣いてる暇はねぇぞ。……うどんの味を忘れる前に、……今度こそ、……その『セカンド・ジェネシス』ってのを、……根こそぎデリートしてやる」
「……ええ。……行きましょう、ツカサ。……鳳凰院の娘として、……お父様の遺したこの最悪の『正解』、……私が、……この手で破り捨ててあげるわ!」
俺は、震える手でPCのキーボードを探し、父の遺言の中に隠されていた、九条さえも気づかなかった「禁忌のポート」へと手を伸ばした。
【スキル名:因果の逆走(Causal Backrun)】
効果: システムが定めた「確定した破滅」を、強制的に「未定義のラグ」として再定義し、過去の演算結果を一時的にオーバーライドする。発動中、周囲で起きている現象(白い霧の侵食など)の「時間的な整合性」を無視し、自分たちだけをシステム外の特異点として維持する。
取得条件: 自身のこれまでの勝利が「全て敵の計画通りだった」という絶望的な事実を突きつけられ、それでもなお「自分の意志」で運命をデバッグすると誓う。
成長条件: 本スキル発動中に、自分たちを抹消しようとする「管理者の直接介入」を三度以上、論理矛盾で無効化する。
代償:
機材: PCの全CPUリソースを「過去の否定」に費やすため、発動中、一切の通信・索敵機能が停止する。
身体: ツカサの記憶の一部が「演算コスト」として消費され、成功するたびに過去の幸福な思い出が一つずつ消滅していく。
社会: このスキルの痕跡は、世界から「佐藤司という存在がそもそも最初からいなかった」という物理的な矛盾を引き起こし始める。
「……ツカサ、……シェルターの入り口に、……何かが来ているわ」
カレンの言葉に、俺は鉄パイプを強く握りしめた。
脳内の「盲目の反響」が捉えたのは、かつての親衛隊や警備ロボットのような、分かりやすい「敵」ではなかった。
それは、白。
音もなく扉の隙間から染み込んでくる、意思を持ったナノマシンの霧。
それに触れた瞬間、すべてが「無」へと還る。
「……九条、……お前、……あの中にいるんだろ」
俺は、見えない瞳で、白く染まりゆくシェルターを見据えた。
消えた親友。
彼は死んだのではない。
この「第二創世記」を執行するための、巨大な演算エンジンの部品として、今もあの白い霧の奥で、泣きながらキーボードを叩かされている。
「……待ってろ、九条。……お前のその、……最悪な仕事……。……俺が、……全部……差し戻して(リジェクト)やるからな」
シェルターの照明が、白い霧に呑み込まれ、一斉に落ちた。
完全な、闇。
だが、その闇の中で、俺とカレンの手だけが、かつてないほど強く結ばれていた。




