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第89話:情報の墓標:旧開発第四局の亡霊

地上の混乱は、日を追うごとにその色を変えていった。

 単純な暴動の段階は過ぎ、街は「情報の断絶」によっていくつかの小さな島へと分断されていた。MASTIFFという名の巨大な脳を失った国民は、今や近隣の人間が何を考え、どこに水があるのかさえ確信を持てない、極度の不信感の中に沈んでいた。


そんな中、俺たちの潜伏する鳳凰院別邸跡の周辺に、奇妙な波形が観測され始めていた。

 サカモトが設置した簡易レーダーが捉えるのは、物理的な侵入者ではない。

 

 かつてのゼノン社、その中でも最も秘匿性が高いと言われた『開発第四局』――通称『墓守グレイブ・キーパー』たちの残滓だった。


「……ツカサ、……空気が、……また冷たくなってきたわ。……この匂い、……地下のゴミ処理場にあった……あのデータの死臭に似ている」


カレンが、俺の隣で身を固くする。

 俺の脳内にある「盲目の反響ブラインド・エコー」が、全盲の闇の中に、無数の「冷たい穴」を捉えた。

 それは、実体を持たない、かつて肥料リソースにされ損ね、システムの中を彷徨い続けていた「人格の欠片」たち。

 九条が消えた今、彼らを制御する論理(鎖)は失われ、彼らは生存本能のままに、新たなリソース――生きた人間の脳を求めて、地上へと這い出してきている。


「……第四局か。……ガイアの……ゴミ捨て場の……門番たちだな。……あいつら、……主人がいなくなって、……腹を空かせてやがるんだ」


俺は、鉄パイプを杖に立ち上がった。

 身体の倦怠感は抜けない。一歩踏み出すごとに、自律境界オトノミック・バウンダリの代償として、現実感が遠のいていく。俺が、俺であるという定義を維持することさえ、今の俺には過酷なタスクだった。


『……ターゲット、……特定……。……佐藤、……司。……および、……観測、……不能の、……ノイズ……』


脳内に、複数の、重なり合った合成音声が響く。

 それは九条のような「個」を持ったAIではない。

 数千人の「絶望」を一つのプールに注ぎ込み、ただ「空腹」という関数だけで動く、巨大な思念の塊。


「……カレン、……下がってろ。……こいつらは、……お前の『無』を、……自分たちの欠落を埋めるための……最高のパーツだと……認識してる」


「……嫌よ。……私、……あいつらの気持ち、……少しだけ分かるもの。……何もなくて、……鏡に映らなくて、……ただ……自分が消えていくのが……怖いだけなのよ」


カレンが、俺の前に出る。

 彼女の身体から、蒼いノイズが溢れ出し、周囲の空間を侵食していく。

 彼女は今、戦おうとしているのではない。

 自分と同じ「亡霊」たちを、宥めようとしていた。


スキル名:亡霊の安息(Requiem for the Deleted)

効果: 属性抹消状態のカレンが、自身の「虚無」を周囲の漂流する人格断片ノイズと共鳴させ、彼らの攻撃的な演算を一時的に停止させる。

特性: 物理的な破壊ではなく「沈黙」。

代償: カレン自身の自我が一時的に100%「情報の海」に溶け出し、ツカサが彼女を強く呼び続けなければ、彼女の意識が戻らなくなる。


「……おやすみなさい、……迷子の子供たち。……あなたたちが、……鳳凰院の誇りある……技術者だったこと。……私が、……覚えていてあげるから……」


カレンの声が、ノイズの奔流の中に溶けていく。

 

 一瞬、世界から音が消えた。

 襲いかかろうとしていた第四局の亡霊たちが、霧のように形を崩し、カレンの周囲を優しく包み込む。

 彼らは、救いを求めていたのではない。

 ただ、自分たちが「存在したこと」を、誰かに認めてほしかっただけなのだ。


「……カレン! ……戻ってこい、カレン!」


俺は、叫びながら彼女の方へ手を伸ばした。

 視力はない。

 だが、俺の脳内にある「彼女への記憶」が、一本の、細い、蒼い糸となって、虚無の海を貫いた。

 

 ガクン、と。

 

 カレンの身体が、俺の腕の中に倒れ込んできた。

 冷たい。

 心拍は、驚くほど遅い。

 

「……ハァ、……ハァ……。……ツカサ、……私、……今、……みんなと……お話を……したわ……」


「……バカ野郎。……あやうく、……お前まで……ログアウトするところだったぞ」


俺は、彼女を抱きしめたまま、地面に座り込んだ。

 亡霊たちは消えた。

 だが、彼らが残した「記憶の断片」が、俺のPCの中に、一つのファイルを形成していた。

 

 それは、ガイア計画の真の創始者――鳳凰院カレンの父が遺した、**『遺言の続き』**だった。


「……サカモト。……このファイルを、……解析してくれ。……ここには、……MASTIFFという神様を……本当の意味で……眠らせるための、……最後の……パッチ・コードが……入っているかもしれない」


俺は、震える手でPCをサカモトに預けた。

 

 空を覆う蒼いエラーは、今夜も消えない。

 だが、その不気味な光の下で、俺たちは、一歩ずつ、本当の「人間」へと近づいていた。

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