表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

88/100

第88話:薄明のモルモット:規約なき街の第一歩

視界を失った世界には、色彩の代わりに「音」と「匂い」が、暴力的なまでの情報量で押し寄せていた。

 地下街『うどん屋・ハチ公』のカウンターに座り、俺、佐藤司は、空になった器から微かに立ち上る出汁の残り香を鼻腔に感じていた。かつて九条が横で「塩分濃度が非合理的だ」と愚痴をこぼしていた、あの安っぽくて、しかし強烈に生存を肯定する匂いだ。

 指先が、使い古された木のカウンターの凹凸をなぞる。そこには数十年分の客たちの「焦り」や「安堵」が刻まれている。全盲になった今の俺にとって、この物理的な手触りこそが、唯一信頼できる世界のログだった。


「……ツカサ、お茶を淹れたわよ。……湯気で、……あんたの眼鏡が曇っているわ。……もう、……視力を通さないのにね」


隣に座るカレンの声が、耳元で鈴の音のように響く。

 彼女の指が、俺の手に触れる。

 属性抹消アトリビュート・イレイザーの果てに、俺という観測者がいなければ存在を維持できなくなっていた彼女の身体。だが、プロジェクト・フェニックスの起動によって、世界そのものが「属性」という定義を失った今、彼女は皮肉にも「何者でもない一人の人間」として、この世界に物理的な重みを取り戻していた。

 俺の脳内モニターはもう二度と起動しないが、触れ合った肌の温もり、微かに混じる彼女の体温と、雨に濡れたコンクリートの匂い。それらが、俺に「鳳凰院カレン」という存在の正解を教えてくれる。


「……曇ってるか。……ハッ、……習慣ってのは、……規約コードよりもしぶといもんだな」


俺は眼鏡を外し、煤けた袖で拭った。

 地上では、一億人の自意識がMASTIFFという神から解放され、未曾有の混乱が続いている。建国記念日の式典ジャックから数日。国家という巨大な演算機は、メインプロセッサを失ったことで無限ループに陥り、公的なサービスはすべて停止した。

 信号機は消え、通貨の信用は失墜し、人々は「自分が何者であるか」を証明する手段を失った。

 それは、自由という名の、最悪なバグ(不具合)だった。


「……ツカサ。……サカモトさんが、……入り口に来ているわ。……顔色が、……あまり良くないみたい」


カレンに促され、俺は杖にしている鉄パイプを突き、立ち上がった。

 店主に礼を言い、俺たちは店の奥の「相談所」へと場所を移す。

 サカモトの足音は、以前よりもずっと重く、引きずるような響きを帯びていた。彼もまた、肥料リソースにされかけた身体に鞭打ち、崩壊した世界の残骸を繋ぎ止めようとしている一人だ。


「……佐藤様。……お嬢様。……地上の状況は、……もはや、……言葉にできるレベルを越えています」


「……何が起きてる。……暴動か? ……それとも、……飢えか?」


「……両方です。……ですが、……もっとも深刻なのは、……『情報の禁断症状』です。……人々は、……MASTIFFに指示されないと、……自分が何を食べるべきか、……どこへ歩くべきかさえ、……分からなくなっている。……街の至る所で、……ただ、……動かなくなったスマホを抱えて、……泣き叫ぶ人々が溢れています……」


サカモトの声が震える。

 管理社会の檻は、壊された。だが、檻の中で生まれ育った家畜たちにとって、扉が開かれた後の荒野は、ただの「死の荒野」に過ぎなかったのだ。

 神という名のナビゲーターを殺した俺たちは、国民からすれば、救世主ではなく、平穏な夢を奪った「悪魔」に他ならない。


「……皮肉だな。……自由を配ったつもりが、……一億人の……迷子を作っちまったか」


「……司君。……それだけじゃない。……ゼノン社の残党が、……『旧・遠藤派』を名乗って、……物理的な武力行使を始めています。……彼らは、……混乱した民衆に対し、……『再教育による救済』を掲げ、……各地の拠点を武力で制圧し、……新たな……小さな……MASTIFFを……作ろうとしている……」


俺は、机の角を強く握りしめた。

 遠藤の意志を継ぐと言いながら、やっていることは、あの肉塊ガイアへの回帰か。

 

「……遠藤査察官が、……聞いたら、……絶望するだろうな。……あいつが最後に、……俺たちに鍵を託したのは、……そんな世界を……作るためじゃなかったはずだ」


「……ツカサ。……やるしかないわね。……私たちが、……『本当の管理ガバナンス』ってやつを、……あいつらに教えてあげるのよ」


カレンの声には、かつての没落令嬢としての弱さは微塵もなかった。

 彼女は、属性がないという「自由」を、すでに使いこなし始めている。

 

「……ああ。……九条も言ってたはずだ。……『バグは、……隙間に宿る』ってな。……サカモト。……鳳凰院のバンカーに残っている、……旧式の通信ドローンを、……全部出せ」


「……何を、……するおつもりですか?」


「……『信用スコアE』の……再定義だ。……俺たちの、……バグだらけの生き残る知恵を、……地上の迷子たちに……パッチとして……配ってやるんだよ」


スキル名:生存の規約(Manual for the Discarded)

効果: MASTIFFや公式なガイドに頼らず、瓦礫の街で水、食料、安全を確保するための「泥臭いサバイバル・ログ」を、地下の[BLACK] IDの残存帯域を使って全国の個人端末に強制送信する。


特性: ハッキングではなく「提案」。


取得条件: 視力を失い、AIの支援も失ったハッカーが、自身の「経験」と「他者への信頼」を信じて、最初の一行を書き上げる。


代償: ツカサの脳に、地下の全デバイスからの「逆流ノイズ」が流入し、数時間の激しい眩暈と吐き気。


「……まずは、……うどんの茹で方からだ。……腹が減ってちゃ、……自由を……謳歌することも、……できねぇからな」


俺は、見えない瞳でサカモトの方を向いた。

 

「……サカモト。……あんたたちの技術は、……もう神様を作るためのもんじゃない。……人間が、……今日を生き抜くための……『不器用な道具』に戻すんだ。……それが、……俺たちが……最後にできる……デバッグだ」


「……了解しました、……佐藤様。……いいえ、……デバッガー。……今すぐ、……鳳凰院の遺産を……解放します」


サカモトが、深く一礼して去っていく足音が聞こえた。

 シェルターの中には、再び俺とカレン、二人の静寂が戻る。


「……ツカサ。……また、……茨の道ね。……せっかく、……うどんを食べて、……ゆっくりできると思ったのに」


「……ハッ、……クソゲーの……エンディングの後には、……いつだって……もっとひどい……高難易度の……追加コンテンツ(DLC)が……待ってるもんだよ」


俺は、カレンの手を握った。

 彼女の指が、俺の指に絡みつく。

 全盲の俺と、属性のない彼女。

 

 世界を壊した二人の、終わりのない「再起動」が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ