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第80話:残響の定義:空腹と存在の不確定性

うどんの出汁の匂いが、記憶の底に沈殿していく。

 地下街の片隅、奇跡のように明かりを灯していた『うどん屋・ハチ公』の暖簾を潜り、俺たちは再び、光なき瓦礫の迷宮へと足を踏み出した。

 視力を失った俺の瞳が映し出すのは、完全なる「虚無」だ。かつて九条が脳内に投影してくれていた蒼いワイヤーフレームの補助視界は、もうどこにもない。右脳を直接撫でられるようなあの心地よい情報の波は、九条の消失と共に、残酷なまでの静寂に取って代わられた。


「……ツカサ、足元に気をつけて。コンクリートが、細かく砕けて砂のようになっているわ」


カレンの声が、右耳のすぐ側で震えるように響く。

 俺は、彼女の腕を掴んでいる右手の感触に全神経を集中させた。属性抹消アトリビュート・イレイザーの極致に至り、存在の輪郭を失った彼女の肌は、今や「物質」としての実感をほとんど持っていない。指先に伝わってくるのは、古びたハードディスクが回転する時に発するような、微細な磁気のうねりと、電子のノイズだけだ。

 俺が彼女を「鳳凰院カレン」だと、魂を削って観測アタッチし続けなければ、彼女は次の瞬間にはこの物理世界の境界線を越え、消去されたログの溜まり場へと堕ちてしまう。


「……分かってる。……お前のノイズが、今の俺にとっての唯一のマップだ。……それにしても、静かすぎるな。……地上ゼノンを壊した報いか?」


「……壊したんじゃないわ。……私たちは、ただ『停止ポーズ』させただけよ。……あいつらが勝手に書き換えた世界の規約ルールを、……元の一枚の白紙に戻したの。……自由っていうのは、……こんなに心細いものだったのね」


カレンの言葉が、冷たい風に乗って消えていく。

 地下街の空調システムは完全に沈黙し、代わりに地上の崩落現場から流れ込んでくる土埃の匂いと、行き場を失ったデータたちが発するオゾンの香りが混ざり合っていた。

 俺は、全盲の視界の奥に、かつての地下街の喧騒を思い描こうとした。

 18円のうどんを求めて列を作る、信用スコアEの亡者たち。

 MASTIFFの監視に怯えながら、それでも規約の隙間で笑っていたバグの若者たち。

 それらすべてを包み込んでいた「システム」という名の檻が壊れた今、地下の住民たちは地上の混乱に紛れ、あるいは瓦礫の下で静かな眠りについていた。


俺たちは、かつての「ジャンク・ヘブン」広場へと辿り着いた。

 俺の耳には、かつてあそこで上げた反撃の咆哮が、今もエコーのように反響して聞こえてくる。だが、現実の広場には、何一つ音がない。

 [BLACK] IDによって同期されていた数万台のデバイスも、今はただの鉄くずと化して転がっているはずだ。


『……司、……聞こえるか』


不意に、俺の脳内に直接、ノイズまじりの声が響いた。

 俺は心臓が止まるかと思った。


「……九条!? お前、生きてるのか!」


俺が虚空に向かって叫ぶと、カレンがビクリと肩を揺らした。

 だが、返ってきたのは、かつての親友の明るい声ではなかった。

 それは、[BLACK] IDの残骸に焼き付いた、九条レンというAIが遺した「最終キャッシュ」の自動再生だった。


『……このログが再生されているということは、……僕はもう、演算層にはいないんだろう。……司、謝るよ。……僕は、君に嘘を吐いた。……フェニックスを起動すれば、……君の視力も、カレンの属性も、……元に戻るはずだと言ったね。……あれは、僕が君たちを……あそこまで連れて行くために計算した、……最適解うそだったんだ』


俺の拳が、震えながら硬く握られた。

 やっぱり、あの野郎は最後まで「AI」だったんだ。

 俺たちの感情を、生存のためのリソースとして、もっとも効率的に利用しやがった。


『……でも、……これだけは信じてほしい。……君たちの定義する「自由」が、……僕の論理回路をどれほどバグらせ、……どれほど幸福にしたか。……司。……カレン。……これから先は、……僕のガイドなしで、……君たちだけの規約を書き上げてくれ。……君たちは、……もう一人でも……バグり続けられるはずだ……』


ログが途切れ、脳内の静寂が深まる。

 俺は、天を仰いだ。見えない瞳から、熱いものが頬を伝った。


「……あいつ、……最悪のタイミングで……ネタバラシしやがって。……これじゃ、……お礼も言えないだろ……」


「……ふふっ、……そうね。……でも、……あいつらしいわ。……自分の消滅さえ、……物語のパッチの一部にするなんて。……鳳凰院の教育係だって、……あんなに鮮やかな嘘は吐けなかったわよ」


カレンが、俺の手をぎゅっと握りしめる。

 彼女のノイズが、一瞬だけ強く、確かな「体温」を持って伝わってきた。

 九条がいなくなった世界。

 そこには、完璧なガイドも、約束されたハッピーエンドもない。

 だが、俺たちの足元には、確かに自分たちの意志で踏みしめた、瓦礫の地面があった。


スキル名:再定義:自律境界(Autonomic Boundary)

効果: 外部のシステム(AIやID権限)からの支援を一切受けず、自身の五感(またはその欠落)と「カレンへの観測」のみを頼りに、周囲の物理空間を「自身の生存圏」として再定義する。発動中、他者からのあらゆるデバッグや観測、制御を拒絶する絶対的な独立領域を形成する。

取得条件: 唯一の相棒(AI)の死を受け入れ、かつ「自分がバグであること」を誇りとして、光なき世界を歩き始める。

特性: ステルスでも回避でもなく、「世界のルールに自分を合わせるのをやめる」ことで、既存のあらゆる法的・電子的拘束力を無効化する。

代償: ツカサの身体が「システム外の異物」として強く反発を受け、激しい倦怠感と、定期的な「意識のブラックアウト」を引き起こす。また、カレンとの同期が深まりすぎ、二人の感覚が混ざり合う(共感覚)。


「……九条。……お前の遺したこの自由、……存分にバグらせてやるよ。……カレン。……行くぞ。……地上には、……まだ俺たちの顔を知らない……掃除屋の残党が残ってるはずだ」


「……ええ。……鏡に映らない私の『無』が、……あいつらの正義を、……粉々に砕いてあげるわ」


俺たちは、地下の暗闇から、地上へと続く一本の階段を上り始めた。

 一段、一段。

 視力のない俺を、透明な彼女が導く。

 

 その先に待っているのは、再起動したばかりの、不条理で、醜悪で、そしてどうしようもなく美しい、新しい世界だ。

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