第79話:18円の祝杯:バグたちの長い夜
うどんが、伸びる前に。
俺たちは、ようやく並んで座ることができた。
地下街は、依然として暗闇の中だ。
地上では、MASTIFFという神を失った人々が、自分たちの「名前」を取り戻すための混乱の中にいる。だが、この18円のうどん屋だけは、世界の終わりから切り離された、小さなシェルターのようだった。
「……しょっぱいわね、……やっぱり」
カレンの声が、隣で響く。
ズルズルと、無作法に麺を啜る音。かつての鳳凰院家の令嬢なら、決して許されなかったであろうその音が、今は最高の音楽のように聞こえた。
「……だろ。……バグの味だよ。……俺たちが、……必死に守った……最低で最高の、……生存の味だ」
俺も、手探りで箸を取り、うどんを口に運んだ。
視力がない俺にとって、その味は、かつてないほど鮮明だった。
小麦の香り。出汁の塩分。そして、刻みネギの微かな苦味。
九条が最期に守り抜いた、この「キャッシュ」の味が、喉を通るたびに、凍りついていた俺の心が、ゆっくりと解けていくのを感じた。
「……ツカサ、……あんた、……私のこと、……見えないのよね」
カレンが、不意に箸を止めて尋ねてきた。
「……ああ。……真っ暗だ。……お前が、……今、……どんな顔してるのか、……想像するしかない」
「……そう。……なら、……教えてあげるわ。……今の私はね、……煤だらけで、……鼻先が赤くて、……ひどい顔よ。……鳳凰院の看板があったら、……間違いなく不合格ね」
カレンが、クスクスと笑う。
その笑い声の中に、微かな震えが混じっているのを、俺は見逃さなかった。
「……だけど、……不思議ね。……鏡に映っていた頃より、……今の方がずっと、……自分が、……『私』だって感じがするの。……あんたが、……私の仕様書を読み上げてくれたからかしら」
「……バカ言え。……俺は、……事実を、……並べただけだ」
俺は、最後の汁を飲み干した。
器をカウンターに置くと、カレンの手が、そっと俺の手の上に重なった。
「……ツカサ。……これから、……世界は、……どうなるのかしら」
「……さあな。……管理は、……死んだ。……みんな、……自分の足で、……自分の規約を、……書かなきゃならなくなる。……自由っていう名の、……クソゲーの始まりだ」
俺は、空っぽの脳内モニターを見つめるように、顔を上げた。
九条はいない。
遠藤も、もういない。
だけど、九条が遺した「一億人のバグ」は、今も地上の端末の中で、人々の意識の中で、脈打ち続けている。
完璧な神が支配する世界は終わった。
これからは、不完全な人間たちが、エラーを出しながら、それでも生きていく日々が始まる。
「……ねぇ、……ツカサ。……あんたの視力、……いつか戻るのかしら」
「……分からん。……だけど、……九条の野郎なら、……『司の脳には、まだ未知のセクタがある』とか、……調子いいこと言いそうだけどな」
俺がそう言うと、カレンは俺の腕に頭を預けてきた。
「……いいわよ。……戻らなくても。……私が、……あんたの目になってあげるって、……言ったでしょ。……鏡に映らない私が、……あんたの視界だけを、……独占してあげるわ」
「……贅沢な、……視覚補助だな」
俺たちは、しばらくの間、静まり返ったうどん屋で、寄り添っていた。
店主が、黙って新しいお茶を置いてくれた。
[BLACK] IDの光は、もう消えかけている。
地下の掃き溜めから始まった、一億人を相手にしたデバッグの旅。
俺たちが手にした報酬は、莫大な資産でも、国家の権力でもなかった。
ただ、隣にいる誰かの体温と。
18円の、少し伸びたうどんの余韻。
「……ツカサ。……もう一杯、……食べてもいいかしら?」
「……勝手にしろよ。……[BLACK] IDの残高、……まだ少しは、……残ってるだろ」
俺たちは、暗闇の中で、笑った。




