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第78話:定義の零:名前を呼ぶというハック

湯気の匂いが、鼻腔をくすぐる。

 かつて九条が「非効率だが中毒性がある」と評した、あの安っぽくて力強い出汁の香りだ。

 だが、俺の目の前では、最悪のバグが起きていた。


「……ツカサ、……箸が、……持てないの」


カレンの声は、もはや空気の振動ですらなかった。俺の脳内に直接響く、かすれたデジタルノイズ。

 視力を失った俺には見えないが、彼女の指は、今やカウンターに置かれた割り箸をすり抜け、ただ虚空を掻いているのだろう。

 属性抹消アトリビュート・イレイザーの果て。世界から完全に認識を拒絶された彼女は、重力や摩擦といった物理法則からも、その「権利」を剥奪されようとしていた。


「……待ってろ。……今、……お前を、……連れ戻してやる」


俺は、震える指を[BLACK] IDの上に置いた。

 だが、キーボードを叩くためのリソースは、もう俺の脳には残っていない。九条という「演算器」を失い、全盲となった俺にとって、従来のハッキングは不可能だ。


なら、どうする。

 論理が通じないなら、規約ルールの根底にある「意味」を書き換えるしかない。


「……店主。……悪いが、……少し、……静かにしててくれ」


「……ああ。……閣下の注文だ。……最高の『静寂』を出すよ」


店主が、厨房の換気扇を止めた。

 地下街の静寂が、重く、深く、俺たちを包み込む。

 俺は、全盲の瞳を閉じた。見えないからこそ、研ぎ澄まされる感覚がある。


盲目の反響ブラインド・エコーを、自分自身の「内側」へと向ける。

 俺の脳内には、九条が遺した膨大な「鳳凰院カレン」のログが残っている。彼女が没落令嬢として俺の前に現れた瞬間、うどんを啜ってむせた時の心拍、地下で震えていた指の温度、そして――GAIA・コアの前で俺を支えた、あのノイズの感触。


「……カレン。……今から、……俺が、……お前の『仕様書』を読み上げる」


「……ツカサ? ……何、……言ってるの……」


「……お前は、……鳳凰院カレンだ。……身長は、……これくらい。……声は、……生意気で、……高飛車で、……でも、……時々、……消え入りそうに震える。……お前の右手の薬指には、……俺がつけた……小さな切り傷のパッチが、……まだ残ってるはずだ」


俺は、キーボードを打つのをやめた。

 代わりに、俺の「記憶」という名のキャッシュを、[BLACK] IDを媒介にして、世界そのものへ、物理的な音として叩きつけた。


スキル名:存在確定:魂のデバッグ(Soul Debugging:Personal Definition)

効果: システム上の属性ステータスではなく、個人の「記憶」と「観測」のみをソースコードとして用い、対象を物理世界へ強制的に再定義リアライズする。運営の権限やMASTIFFの論理を一切介さない、完全な「個」による「個」のための定義。

取得条件: 視力とAI支援を失ったハッカーが、自身の全人生ログを賭けて、一人の対象を「実在する」と証明し続ける。

特性: 物理法則(摩擦、重力、衝突判定)を、対象の「名前」に紐づけて復元する。

代償: ツカサの過去の記憶が、定義のリソースとして消費され、一部が永続的に消失する。


「……カレン。……お前が、……そこにいるって、……俺が知ってる。……一億人が忘れても、……世界がエラーだと言っても、……俺の指先が、……お前の重さを……覚えているんだ!」


俺の脳が、熱を持つ。

 思い出が、一つ、また一つと、光の粒子になって、暗闇の中へと溶け出していく。

 カレンと初めて出会った夜の色が消える。

 カレンが怒った時の言葉が、霧散する。

 

 だが、その犠牲と引き換えに、俺の目の前の「ノイズ」が、熱を持ち始めた。


「……あ、……あぁっ……!」


カレンの悲鳴。

 それは、ノイズではない。

 空気を震わせる、本物の、人間の少女の声。


ガタッ、と。

 箸が、カウンターの上に落ちる音がした。

 

「……ツカサ。……私、……今、……箸を、……触った……」


俺は、震える手を伸ばした。

 そこに、あった。

 

 冷たくて、汗ばんでいて、でも、驚くほど確かな、「人間」の手が。

 

「……おかえり、……カレン。……お前の『名前』、……ちゃんと、……世界に、……叩き込んでやったぜ」


俺は、笑った。

 視界は真っ暗なままだ。

 カレンの顔が、どんな風に涙で濡れているのかも、今の俺には見えない。

 だけど、握りしめたその手の温もりだけが、この崩壊した世界で、唯一の「正しいデータ」だった。

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