第77話:廃墟の残り香:18円の約束
地上は、雨が降っていた。
ゼノン本社から這い出した俺たちの顔を打つのは、浄化システムが停止した、ひどく泥臭くて冷たい、本当の雨だった。
「……ツカサ、……見える? ……空が、……真っ赤よ。……燃えてるんじゃないわ。……全てのモニターがエラーを吐き出して、……世界が、……あの九条と同じ色(蒼)に染まろうとしてる」
カレンの声には、どこか晴れやかな響きが混じっていた。
一億人の「自意識」が、強制的な統合から解放され、それぞれの場所でバグを出し始めている。
国家という巨大なOSは、再起動も不可能なほどにクラッシュし、人々は自分の足で、地面を踏みしめ始めていた。
「……いや、……見えないな。……真っ暗だ。……だけど、……耳が痛いくらいだぜ。……世界が、……自分勝手に叫んでやがる」
俺は泥濘に足を取られながらも、カレンに引かれて歩き続けた。
向かうのは、かつて俺たちが逃げ出し、そしてゼノン社によって物理的に埋め立てられたはずの、あの「地下街」の入口だ。
数キロの道のりを、俺たちは「亡霊」のように進んだ。
暴徒と化した群衆も、動かなくなった警備ドローンも、属性を失った俺たちの存在を認識できない。
俺たちは、自由の極致にいた。
世界から忘れられ、世界を壊した。ただ二人だけの、透明な共犯者。
ようやく辿り着いた、旧地下第1セクターの地上連絡通路。
そこは、第64話で見た通りの、無慈悲なコンクリートの壁で塞がれていた。
かつての賑わいも、18円のうどん屋への階段も、すべては数十万トンの石の下に沈んでいる。
「……やっぱり、……ダメね。……物理的に、……塞がれてるわ」
カレンが、コンクリートの壁に手を触れた。
彼女のノイズの指が、石の表面をすり抜け、また弾かれる。
「……いや、……九条が、……最後に言ってたんだ。……『バグは、……隙間に宿る』ってな」
俺は、壁の前に膝をついた。
盲目の反響を最大出力で回す。
コンクリートの塊の中に、微かな、本当に微かな「隙間」を見つけるために。
あった。
埋め立ての際、急激な硬化によって生じた気泡の連なり。
論理的には完全な封鎖でも、物理的にはそこにある、ただの「施工ミス」。
「……カレン、……[BLACK] IDの残りのリソースを……全部ここに注ぎ込め。……ハッキングじゃない。……ただの『振動』だ。……共振させて、……この石の継ぎ目を、……こじ開ける」
俺たちは、二人で壁に手を当てた。
「……九条、……見てなさい。……あんたの遺したこの力を、……こんな贅沢なことに使ってあげるわ!」
カレンが叫ぶ。
[BLACK] IDの黒いパルスが、彼女のノイズを媒体にして、コンクリートの奥深くへと叩き込まれた。
ズゥゥゥゥゥン……。
腹に響くような、重厚な震動。
次の瞬間、無機質な壁に、一本の、蜘蛛の糸のような亀裂が入った。
そこから、温かくて、埃っぽくて、そして――。
「……出汁の、匂い?」
カレンの声が弾んだ。
亀裂が広がり、コンクリートの破片がパラパラと落ちる。
そこから漏れ出してきたのは、地下街の奥深く、奇跡的に生き延びた「うどん屋・ハチ公」の、あの安っぽくて、強烈な出汁の香りだった。
「……フッ、……あいつ、……まだ営業してやがるのか」
「……当然よ。……私のマネージャー(九条)が、……あそこの在庫データを……最後まで死守してたんだから」
俺たちは、その狭い亀裂を潜り抜けた。
目の前に広がるのは、崩壊し、静まり返った、かつての「掃き溜め(地下街)」。
街灯は消え、人影もない。
だが、暗闇の奥、一軒の店のカウンターにだけ、自家発電の微かな明かりが灯っていた。
俺は、カレンに引かれながら、その暖簾を潜った。
視力のない俺の鼻孔を、立ち上る湯気が優しく包み込む。
「……いらっしゃい。……こんな日に来るなんて、……あんたたちくらいだよ、……閣下」
店主の声。
俺は、震える手でカウンターに [BLACK] IDを置いた。
「……一番、……高いやつを。……二人分だ」
「……あいよ。……『極・ネギ盛り』、……二丁」
カウンターに置かれた、二つの器。
俺は、見えない瞳で、その湯気を感じた。
第5期、中盤。
世界を壊した二人のバグは、ついに「18円の約束」へと辿り着いた。
だが、カレンの手は、うどんの箸を掴もうとした瞬間に、透き通って空振った。
「……あ、……ツカサ……。……私、……やっぱり……」
カレンの存在が、急速に「零」へと向かっている。
最後のハックで、彼女を繋ぎ止めていた全エネルギーを使い果たしたのだ。
「……食え、カレン。……鳳凰院カレン。……俺が、……お前を今から……完全に『書き換えて(定義して)』やる」
俺は、最後の一歩。
九条も、遠藤も、父親もなしえなかった「奇跡」へのハックを、うどんの湯気の向こうで開始した。




