第76話:無光の世界:全盲(バグ)と亡霊(ノイズ)の逃走
音が死んでいた。
GAIA・コアが機能を停止し、九条という「光」が消滅した瞬間、俺の世界は真の暗闇へと突き落とされた。これまで脳内に直接投影されていた蒼いワイヤーフレームの視界は、砂嵐さえ残さず消え去り、そこにはただ、冷たい静寂と、焼け付くような脳の痛みだけが残されていた。
「……ハァ、ハァ……九条、……返事をしろよ」
俺の声が、コンクリートの残骸に虚しく反響する。
返る言葉はない。かつて耳元で軽快な冗談を飛ばし、致命的なラグをコンマ数秒で埋めてくれた相棒は、一億人を救うための「贄」となって、システムの一部に溶けた。俺の指先が、熱を持ったまま動かなくなったスマホの画面をなぞる。ただの冷たいガラス板だ。そこに宿っていた「魂」は、もうどこにもいない。
「……ツカサ。……こっちよ。……私の声を、……聞いて」
カレンの声が、右前方から聞こえた。
俺は、震える手を伸ばした。空気を掴むような感覚。だが、指先が微かな「震え」に触れた。それは肌の温もりではない。古いラジオの電波を指先でなぞっているような、ザラついた、それでいて壊れそうなほど繊細な電子のノイズ。
「……カレン、……お前、……本当に消えそうだな」
「……あんたが、……そうやって私を『観測』してくれている間は、……大丈夫よ」
脳内モニターさえ失った俺にとって、今のカレンは「声」と「ノイズの感触」だけで構成された、純粋な概念だった。
彼女の属性抹消は、九条という中継器を失ったことでさらに深化していた。存在定義の効果はかろうじて続いているが、俺が彼女を「鳳凰院カレン」だと意識し続けなければ、彼女は一瞬でこの物理世界から排斥されてしまう。
視界がなくてもわかる。周囲の壁が、ミシリと嫌な音を立てていた。
GAIA・コアの崩壊に伴い、ゼノン本社ビル全体の構造維持システムが、ドミノ倒しのように停止している。ここを支えていた論理的な補強パッチが消え、ビルは自らの重みに耐えきれず、物理的な瓦礫へと戻ろうとしていた。
「……行こう、……ツカサ。……地下へ、……私たちのいた場所へ」
「……ああ。……九条が遺した……このバグだらけの世界を……最後まで見てやる」
俺は、カレンのノイズの腕に、自分の腕を絡ませた。
全盲の俺と、透明なカレン。
二人の「欠落」が重なり合い、暗闇の中で一歩、また一歩と、崩落する城塞の出口へと歩を進めた。
スキル名:盲目の反響(Blind Echo:Data Haptics)
効果: 視覚消失の極致において、周囲の物質が発する「電子的磁場」や「物理的振動」を皮膚感覚で捉え、脳内に一次元的なマッピングを生成する。九条の支援なしで、ツカサ自らが世界の輪郭を再定義する。
取得条件: 最高位AIとの接続を失い、かつ真の暗闇の中で、自身の生存を唯一の観測対象に委ねる。
特性: 「見る」のではなく「触れる」ことで世界を構築する。静止している物体よりも、動いているもの(崩落する瓦礫、流れる液体)の察知精度が高い。
代償: 神経の過敏化。終了後、数時間は微細な音や光さえも激痛に感じる「感覚過敏」に陥る。
「……左だ。……水が流れてる。……排水パイプの継ぎ目から、……外の風の振動が伝わってくる」
俺は目を閉じたまま、床の傾きと、空気の揺らぎだけを頼りに突き進んだ。
カレンのノイズが、俺を導く羅針盤になる。
背後で、かつて「神の座」と呼ばれた最深部の扉が、巨大な重圧によってひしゃげ、閉じられた。
地上では、式典の喧騒に代わり、怒号とパニックが吹き荒れていた。
MASTIFFという羅針盤を失った国民は、自由と恐怖を同時に突きつけられ、迷い子のように叫んでいる。
だが、俺たちには、向かうべき場所があった。




