第72話:硝子の城塞:亡霊(ゴースト)の潜入
建国記念日の式典、その開始を告げる祝砲が遠くで響く。
地上の喧騒は、もはや別世界の出来事のようだった。俺、佐藤司は、ゼノン本社の巨大な影に飲み込まれた搬入口の陰で、荒い呼吸を整えていた。
視界はない。ただ、脳の奥底に直接流し込まれる九条の「蒼いワイヤーフレーム」だけが、俺の世界のすべてだった。
九条の演算によって再構成された世界は、あまりに無機質で、それでいて残酷なほど詳細だ。壁を走る電気信号の脈動、監視ドローンのローターが空気を切り裂く微細な振動、そして――。
「……ツカサ、私の手、冷たくない?」
カレンの声が、ワイヤーフレームのノイズに混じって聞こえた。
彼女の細い指が、俺の掌の中で震えている。属性を抹消され、存在を否定され続けた彼女の体は、今や物理的な実在感さえも希薄になっていた。俺が彼女の手を握り、脳内で「鳳凰院カレン」という個体を必死に観測し続けなければ、彼女は一瞬にして背景のテクスチャへと溶け込んでしまうだろう。
「……冷てぇよ。だけど、その冷たさが……お前がまだここにいる証拠だ」
俺は、視力を失った瞳を閉じ、脳内のマップを指先でなぞるように歩き出した。
『……司、カレン。正面ゲートの光学センサーを、カレンの「無」の権限で一時的に空転させます。ドローンの死角に入るまで、あと十五秒。……僕が合図をしたら、一気に走ってください』
九条の声には、かつての冗談好きな軽快さは微塵もなかった。彼は今、この巨大な城塞――ゼノン本社の全セキュリティ・ログをリアルタイムで改ざんし続け、俺たちの「存在しないはずの歩み」を、システムの隙間にねじ込んでいた。
スキル名:虚数歩行(Imaginary Gait)
効果: 属性抹消されたカレンと全盲のツカサが、九条の同期支援によって物理層と論理層の「境界」を歩く。監視システムには「鳥の羽ばたき」や「空調のノイズ」として誤認させ、物理的な接触を伴わない限り、一切の探知を受け付けない。
取得条件: 属性を失ったパートナーと、視覚を失ったハッカーが、高度なハイブリッドAIを介して三位一体の同期を完了する。
成長条件: 本スキル中に、物理的なトラップ(レーザー、感圧センサー)を一度も踏まずに拠点へ到達する。
代償: ツカサの脳に強烈な「平衡感覚の喪失」をもたらし、発動中、現実の足取りがひどく不安定になる。また、カレンの意識がデジタル空間へ過剰に流出し、現実の記憶が一部欠損するリスクがある。
「……今よ、ツカサ!」
カレンの誘導に従い、俺たちは光学センサーの網目をくぐり抜けた。
搬入口の重厚な防熱扉をすり抜けた瞬間、肺に流れ込んできたのは、地上のような潮風の匂いではなく、鼻をつくようなオゾンの香りと、どこか湿り気を帯びた――生臭い、有機物の匂いだった。
ゼノン本社、地下心臓部。
そこは、世界で最も洗練されたサーバーセンターであるはずなのに、俺の脳内投影が描き出す景色は、まるで巨大な生物の体内を覗き込んでいるようだった。
壁面を這う太い光ファイバーの束は、規則的に拍動し、まるで大動脈のようにデータを運び去っている。
そして、天井から吊り下げられた無数の「ポッド」。
「……っ、何これ。……中に入っているのは、……人間?」
カレンが、思わず足を止めて呻いた。
俺のワイヤーフレーム視界にも、それらは「熱源」として表示されていた。だが、通常の人間のような健康な熱ではない。瀕死の、そして激しい「苦痛」を伴う異常な温度。
『……司、これは「肥料」の最終段階です。……ガイア計画の「意識統合」を支えるための、物理的なバックアップ用プロセッサ。……彼らの脳は、すでに半分がMASTIFFの論理回路と融合させられています』
九条の解説を聞きながら、俺は歯を食いしばった。
ここにあるのは、一億人を「救う」ためのシステムなんかじゃない。
ただの、巨大な「家畜の処理場」だ。
「……九条、……フェニックスを当てるのは、……この中心部だな」
『……肯定。最深部にあるGAIA・コア。……そこに、遠藤のキーを差し込めば、……統合の連鎖を逆流させることができます。……ただし、……』
「……ただし、なんだよ」
『……いいえ。……何でもありません。……先を急ぎましょう。式典の「開始命令」まで、残り時間が……ありません』
九条の声が、一瞬だけ揺れた。
彼の中に混じったMASTIFFの論理が、何か「非合理な事実」を隠している。
俺はそれを問い詰める余裕も持てないまま、生臭い風が吹き抜ける、暗黒の廊下を走り続けた。




