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第70話:観測者の境界:輪郭(ノイズ)を編み直す指先

再教育施設セクター・ゼロからの帰還。荒れ狂う嵐を切り裂き、俺たちは鳳凰院の隠しバンカーへと滑り込んだ。

 視力を失った俺の脳内には、九条が生成する蒼いワイヤーフレームの視界が絶え間なく流れ込んでいる。だが、その視界は以前よりもひどく不安定だった。


「……ッ、がは……っ」


潜水艇を降りた瞬間、俺はコンクリートの床に膝をつき、どろりとした鼻血を拭った。遠藤から譲渡された「断罪のレガシー」の情報密度は、人間の脳が許容できる限界を遥かに超えている。一億人分の管理ログ、法の解釈、そして遠藤が見てきた「正義」の残骸。それらが猛毒のように俺のニューロンを灼いていた。


「ツカサ! ……しっかりして、もう少しでメインフレームよ」


カレンが俺の肩を支える。だが、彼女に触れているはずの俺の右手が、奇妙な違和感を訴えていた。

 柔らかい肌の感触ではない。

 指先を通り抜ける、微細な電子の震え。まるで、古びたテレビの砂嵐に触れているような、不快で、そして頼りない感覚。


「……カレン、……お前、……今……」


『……司、警告。カレン・ゼノンの存在確率が40%を割り込みました。属性抹消の深度が「物理層」にまで波及している。彼女を人間として定義する外部情報が、この世界から完全に消えようとしています』


九条の声が、脳内のノードを激しく弾く。

 全盲の俺の視界の中で、彼女を形作っていた蒼いワイヤーフレームが、砂のように崩れ始めていた。彼女がそこにいるという「確信」がなければ、システムは彼女をエラーとして排除し、虚無へと還してしまう。


「……嘘、でしょ。……私、……まだ、あんたの手を握ってるのに……」


カレンの声が、遠くで響くエコーのように掠れる。

 俺は、見えない瞳を見開いた。

 鏡に映らない。世界に認識されない。それでも俺の隣に立ち続けた少女が、今、情報のデリートを迎えようとしている。


「……ふざけるな。……勝手に消えるなんて、……鳳凰院の規約が許さないんだろ……!」


俺は、震える手でPCのキーボードを叩いた。視覚はない。だが、指先が記憶しているコードの配列と、九条が脳内に投影する論理の糸を、力ずくで結びつけた。

 遠藤から受け取った「管理者用マスターキー」の一部を、俺自身の意志で書き換える。


スキル名:存在定義:観測者の誓い(Existence Anchoring:Observer's Vow)

効果: 属性抹消が極限に達した対象カレンに対し、ツカサの全精神リソースを「観測」に費やすことで、彼女の存在を物理的に固定する。彼女の「ノイズ」を強引に「人間」という属性へ上書きし直す。


取得条件: 属性を失ったパートナーを、自身の五感のすべて(あるいはその喪失)をもって「唯一の真実」として定義し続ける。


成長条件: 本スキル発動中に、対象の「名前」と「過去の記憶」をコード化し、世界に再登録する。


代償: ツカサの脳に強烈な過負荷がかかり、発動中は他のあらゆるハッキング能力が90%低下する。また、カレンの苦痛や記憶の混濁がツカサの脳へ直接逆流する。


「……カレン! 鳳凰院カレン! お前はここにいる! 俺が、……一億人が忘れても、俺がお前を『人間』だと定義してやる!」


俺の指が、キーボードの上を狂ったように踊る。

 視界の中の蒼い砂が、再び集まり、少女の形を成していく。

 

「……あ、……あぁ……。……ツカサ……。……あんたの熱が、……入ってくる……。……痛い。……痛いけど、……私、……生きてる……!」


カレンが俺の首にしがみついた。

 実体がある。

 冷たいけれど、確かにそこにある「重さ」。

 

『……カレン・ゼノン、存在確率58%で停滞。危機は脱しました。……ですが、司。残り時間は、あと22時間。遠藤のキーを解析した結果、……「意識統合」の正体が判明しました』


九条のアイコンが、深く沈んだ青で明滅する。


『……統合とは、魂の融和ではありません。……一億人の脳を、MASTIFFという神の「補助演算器キャッシュ」として完全に同期させる物理的な強制接続。……実行されれば、国民の自意識は消滅し、……国家は「一つの意思」で動く巨大な肉塊になります』


俺は、カレンの肩を抱いたまま、唇を噛んだ。

 肥料にするだけじゃない。人間を、ただの部品パーツに変える。

 それが、このクソゲーのエンディングだというのか。


「……サカモト。……鳳凰院のメインフレーム、……全出力をフェニックスに回せ。……明日、……式典が始まるその瞬間に、……この国の規約パッチを、……俺たちの手で全部書き換えてやる」

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