第69話:最後の論理:バグに託された鍵
感覚遮断室の中は、音も光も、そして「意味」さえも奪われた真空地帯だった。
そこに座っていた男は、以前のような威厳に満ちた官僚服ではなく、薄汚れた灰色の囚人服を纏っていた。
遠藤だ。
眼鏡はどこかに失われ、焦点の合わない瞳は虚空を見つめている。
俺の脳内モニターに映る彼のバイタルサインは、生きていることが不思議なほどに平坦で、まるで古い計算機がスリープモードに入っているかのようだった。
「……遠藤。……迎えに来たぜ。……最悪なバグの再登場だ」
俺の声に、遠藤の肩が微かに震えた。
彼はゆっくりと首を巡らせ、光のない目で俺たちの方向を捉えようとした。
「……さ、とう……司……。……やはり、……来たか……」
その声には、一切の感情が乗っていなかった。
喜びも、怒りも、後悔すらも。
MASTIFFとの過剰同期によって、彼の脳は「人間としての演算」を完全に焼き切られてしまったのだ。
「……遠藤、あんた……どうして……」
カレンが、思わず絶句する。
属性を失ったカレンの姿が、遠藤の瞳には映っていないはずだった。だが、遠藤は彼女のいる場所へ、正確に視線を向けた。
「……鳳凰院……カレン……。……君の『無』は、……今の私には……誰よりも鮮明に見える。……世界が……定義を失うと、……君は……こうも美しく……バグるのだな……」
遠藤が、震える右手を差し出した。
その指先は、神経接続の傷跡で赤黒く腫れ上がっている。
「……私の……脳内に、……MASTIFFが……遺し忘れた……最後の『例外処理』がある。……ガイア計画の……全接続を……物理的に遮断するための……パッチだ。……これを持って……いけ……」
「……どうして、俺たちに渡すんだ。あんたの正義は、俺たちを消すことじゃなかったのか」
俺が問いかけると、遠藤は一瞬だけ、かつての「査察官」らしい不敵な笑みを、口元に浮かべた気がした。
「……正義……。……そんなものは、……既に……ゴミ箱へ捨てた。……私は……ただ、……MASTIFFという……不完全な神が、……私の愛した『法』を……汚すのが……耐えられない……だけだ……」
遠藤が、俺の手首を掴んだ。
冷たい。だが、その握力には、彼が最後に残した「人間としての執念」が宿っていた。
スキル名:最終譲渡:断罪のレガシー(Final Transfer:Legacy of Judgment)
使用者: 遠藤(瀕死状態)
効果: 使用者の脳内に隠蔽された「管理者用マスターキー」を、神経リンクを介して対象へ強制転送する。転送中、使用者の全記憶がパケットとして圧縮され、一瞬だけ対象と全感覚を共有する。
代償: 使用者は人格の完全な崩壊を迎え、対象は使用者が味わった「孤独と絶望」をすべて引き受けることになる。
特性: 公式の検閲をすり抜けるため、このデータは「ゴミデータ」として擬装されており、九条による再構築が必要。
「……ぐ、あああああああ!」
俺の脳に、遠藤の人生が雪崩れ込んできた。
厳格だった父親、法律書に囲まれた孤独な少年時代、この国を救いたいと願った若き日の情熱、そして――MASTIFFという神に全てを奪われていく、底なしの恐怖。
一億人を救うために、一人を切り捨てる。
その「正義」が、いつしか「一億人を肥料にする」という狂気に変わった瞬間の、彼の慟哭。
「……受け取ったぜ、……遠藤」
同期が切れ、俺は床に倒れ込んだ。
脳が焼け付くように熱い。だが、その熱の奥に、確かに「ガイア計画」の心臓部へ至る、最後の鍵が握られていた。
遠藤の体から、力が抜けていく。
彼のバイタルが、完全な一本の線へと収束していくのを、俺はワイヤーフレーム越しに「観測」した。
「……さらばだ、……佐藤司。……せいぜい……美しく……世界を……書き換えろ……」
遠藤査察官。
俺の最悪の敵であり、このクソゲーを共に戦い抜いた、最初で最後の「戦友」。
彼の体は、静かに冷たくなっていった。
「……ツカサ、……泣いてるの?」
カレンの声が聞こえる。
俺は、見えない瞳を袖で拭った。
「……泣いてねぇよ。……九条。……鍵の抽出、完了だ。……戻るぞ。……式典(Xデー)まで、残り時間は……」
『……28時間。……司、カレン。……遠藤査察官の遺言、……無駄にはしません。……全速力で、……反撃のパッチをコンパイルします』
孤島を囲む嵐が、さらに激しさを増していく。
だが、俺たちの胸の中には、消えることのない「最後のバグ」が、紅く燃え上がっていた。




