第62話:論理の墓標:削除される世界と拒絶の意志
世界が、端から「意味」を失っていく。
地下第5セクターの広場を逃れ、俺とカレンは情報の吹き溜まりであるブラック・ボックスの迷宮を這っていた。背後では、俺たちが数秒前まで「存在していた理由」そのものが、遠藤の断罪の眼によって消去され、物理的な空間ごと真っ白な虚無へと陥没している。
それは爆発でも破壊でもなかった。ただ、そこに床があり、壁があるという「定義」が上書きされ、世界のプログラムから削除されただけだ。
足元の鉄板がデジタルな砂となって崩れ、俺は悲鳴を上げる神経痛を無視してカレンの細い腕を引く。
「……ハァ、ハァ……九条、まだ追ってくるか!」
『……肯定。遠藤査察官の同期レートは現在、安全圏を20%以上超過。彼はもはや「人間」としてではなく、MASTIFFの「物理消去関数」として機能しています。司、避けてください。右前方、座標(X:104, Y:882)に論理崩壊の予兆!』
九条の叫びと同時に、俺の視界(HUD)に真っ赤な格子状の模様が投影される。
直後、目の前の巨大な排気ダクトが、音もなく幾何学的な四角いブロックへと分解され、そのまま虚空へと霧散した。
遠藤は、俺たちの体を狙っているんじゃない。俺たちが存在する「空間」そのものを、世界から排斥しようとしている。
「……ツカサ、私の足が……消えていくみたい……」
カレンが掠れた声を出す。属性を失った彼女の体は、この論理的な攻撃に最も敏感に反応していた。ホログラムで補完されていた彼女の輪郭が激しくグリッチし、内側から「0」と「1」のノイズが溢れ出している。
彼女自身の記憶が、自我が、MASTIFFの圧倒的な正論に押し潰されようとしていた。
『……提案。[BLACK] IDの全パケットを逆流させ、遠藤の神経接続を物理的に焼き切ります。彼を殺さなければ、この「消去」は止まりません。司、判断を』
九条の声には、かつての親友としての迷いはなかった。ハイブリッドAIへと進化した彼は、生存のために「最良の解」を提示する。遠藤の脳を焼き切る。それは、この追跡を止める最も確実で、唯一の論理的な方法だ。
だが、俺の指はキーボードの上で凍りついていた。
モニターの端、遠藤の追跡ログの中に、ノイズに紛れて「人間」の残骸が見えたからだ。
遠藤の思考ログの一部――。
そこには、彼がMASTIFFに明け渡したはずの、古い記憶の断片がキャッシュとして残っていた。幼い頃の風景、誰かと食べた食事の匂い。彼は、それらすべてを犠牲にしてまで、この「正義」を執行するためにここへ来た。
「……アイツは、本気なんだ。自分の人生を全部捨ててまで、俺たちっていう『間違い』を直しに来たんだよ」
「……ツカサ? 何を言ってるの、早くしないと私たちが――」
「……殺したくない。そんなの、負け犬の言い分だって分かってる。でもな、九条。ここでアイツを殺したら、俺たちは本当にただの『バグ』になっちまう。……アイツの正義を、アイツを壊さずに超えなきゃダメなんだ」
俺の言葉に、九条のアイコンが激しく明滅した。
青い光が波打ち、論理と感情が激しく衝突する。
『……不合理です。非効率です。……ですが、それが「佐藤司」というバグの仕様だと言うのなら。……僕も、規約を書き換える手伝いをしましょう』
九条の口調に、微かな熱が戻る。
スキル名:虚偽ログ散布(Random Log Scatter)
効果:[BLACK] IDの権限を使い、ブラック・ボックス内の「死んだゴミデータ」をツカサたちのダミーログとして再定義し、周囲に数千の「偽の存在証明」を散布する。
取得条件:管理者の「断罪の眼」に対し、直接の攻撃ではなく「定義の混乱」を選択する。
成長条件:散布したダミーログの50%以上を、管理者に本物として誤認させ、リソースを無駄撃ちさせる。
代償:
機材:PCのネットワークカードが異常発熱し、現実世界で火花を散らす。
身体:ダミーログに自身の意識を分散させるため、ツカサは数分間、自身の名前や現在地を認識できなくなる。
精神:カレンの存在感も分散されるため、彼女の記憶混濁が一時的に深刻化する。
「……行け! 幽霊の行進だ!」
俺がエンターキーを叩きつけた瞬間、ブラック・ボックスに眠る数十年分のゴミデータが、一斉に「佐藤司」と「鳳凰院カレン」の顔を持って立ち上がった。
数千、数万の亡霊が、崩壊する迷宮を埋め尽くす。
遠藤の眼が、その膨大な「矛盾」に一瞬だけ泳いだ。
その隙に、俺たちはさらに深く、ゴミの山の最奥へと飛び込んだ。




