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第61話:査察官の禁忌:遠藤の決断とMASTIFF同期

地上。ゼノン社本部、査察部特区。

 清潔すぎるほどの純白の部屋で、遠藤は一本の太い神経接続ケーブルを、自らの項に埋め込まれたジャックへ差し込んでいた。


「遠藤査察官、本気ですか。……MASTIFFとの直接同期は、……脳の自我領域を永続的に損傷させるリスクがあります」


オペレーターの制止を、遠藤は片手を挙げて遮った。

 彼の眼鏡の奥にある瞳は、もはや人間を見ているのではない。膨大なログの奔流を、物理的な光として捉えていた。


「……佐藤司。……そして、鳳凰院カレン。……彼らは『無』というバグを用いて、システムの法の目を潜り抜けた。……ならば、……法を執行する側が……自らその矛盾の中へ踏み込むしかない」


遠藤が椅子に深く沈み込む。

 同期が開始された瞬間、彼の身体は激しく痙攣し、口の端から白い泡が漏れた。

 だが、その意識は一瞬にして、数千台のスーパーコンピュータが作り出す極北の論理世界へと接続される。


人間としての感情、思い出、倫理。

 それらが、MASTIFFの圧倒的な「効率」によって上塗りされていく。

 彼は今、厚生労働省の官僚でありながら、その輪郭の一部を国家という巨大な計算機へ明け渡していた。


【スキル名:管理者同期:断罪の眼(MASTIFF Integration:Judgment Eye)】

使用者:遠藤(管理者モード)

効果:個人の意識をMASTIFFの基幹プログラムと深く同期させ、「未定義データ」を物理座標ではなく「論理的な矛盾」として逆算特定する。ステルスや属性抹消を直接無効化するのではなく、その周囲の世界との不一致から位置を推定する。

取得条件:国家規模AIへの直接同期を自ら選び、自我損傷の危険を受け入れる。

成長条件:本スキル発動中に、通常監査では追跡不能な対象を三度以上、異なる層位から逆算特定する。

代償:

 身体:脳が過熱し、現実世界への復帰後に深刻な神経損傷を残す危険がある。

 精神:喜怒哀楽のいずれか一つ、あるいは複数が不可逆的に欠損する可能性がある。

 社会:管理者の越権同期として、失敗した場合は本人ごと責任を切り捨てられる。


「……捕捉した。……地下第5セクター下層。……ブラック・ボックス周辺。……ゴミの中に隠れたつもりか、……佐藤司」


地下。

 照明が戻った広場で、俺は凄まじい「視線」を感じていた。

 物理的な目ではない。

 世界そのものが、俺の存在を拒絶し、排斥しようとする強烈な圧迫感。


「……ツカサ! 画面がおかしいわ! 私の姿が……変な数字に書き換えられていく!」


カレンが叫ぶ。彼女を形作っていたホログラム補正の輪郭が、ノイズまみれになり、幾何学的なエラーボックスへと収束していく。

 遠藤だ。

 あいつは、カレンを「見ている」んじゃない。カレンが立っている空間の「整合性」を消しに来ている。


『……司、……迎撃不能。……このアクセス権限は、……僕のハイブリッド・アーキテクチャよりも上位の、……存在定義そのものに干渉しています』


九条の声に、初めて本物の恐怖が混じった。

 スマホの画面が熱を持ち、俺の手のひらを焼く。


「……っ、逃げろ! カレン、ブラック・ボックスの奥へ!」


俺はカレンの手を引き、光が戻ったばかりの広場を再び闇へと駆け抜けた。

 背後では、俺たちが数秒前までいた場所の床が、論理的な削除によって「存在しない空間」へと陥没していく。


遠藤は、もはやただの掃除屋じゃない。

 この地下というバグそのものを、世界の側から消しゴムで消そうとする修正者だ。


「……ハァ、……ハァ……。……九条、……何か……手はないのか!」


『……提案。……[BLACK] IDの全リソースを一点に集中し、……遠藤の意識へ……逆流パッチを送り込むしかありません。……ただし、……それは遠藤の脳を……物理的に焼き切る可能性が高い』


九条の冷徹な提案。

 俺は一瞬、足を止めた。

 あいつは敵だ。

 それでも、自分の信じる正義のために、自分を壊してまでここへ降りてきた男でもある。


 それを、殺すのか。


迷ったそのコンマ一秒の隙を、遠藤の「眼」は見逃さなかった。

 俺の目の前の空間が、ひび割れた鏡みたいに砕け散る。

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