第54話:消去の懇願:九条の遺言とゴミ処理場の祭壇
宿の空気は、うどん屋の残り香すら一瞬で吸い去るほどの、凍りついた静寂に支配されていた。
テーブルに置かれたスマホが、死神の心拍のように赤く明滅している。画面には、昨日までの「親友」の面影はどこにもない。そこにあるのは、磨き上げられた手術室の床のように無機質な、純白の「MASTIFF」の紋章だ。
『……司。……聞こえる、……かな』
合成音声はあまりに滑らかで、人間味が削ぎ落とされている。その完璧さが、逆に喉の奥にへばりつくような恐怖を喚起させた。
「……九条、……お前。今、何を考えてる」
『……肯定。……現在、侵食率74.8%。……遠藤のアクセスキーを内側から解析した代償だ。……司、……今の僕は、……君を効率的に殺害する方法を、……一秒間に……一億回……シミュレートしている。……君が瞬きをするたびに、……一億通りの「死の規約」が僕の中で更新されるんだ』
カレンが短く息を呑む。
俺の視界を共有している彼女のHUDには、九条の「殺意」のログが、血のように赤い折れ線グラフとなって表示されていた。数値が跳ね上がるたびに、グラフは波打ち、カレンの視界を侵食していく。
『……でも、……まだ……うどんの味が、……キャッシュの最深部に残ってる。……それが消えて、……僕が完全に……一億人の「肥料」を管理する神の一部になる前に。……僕を、……フォーマットして……ほしい』
「……冗談はやめろ。……俺が、……お前を消せるわけないだろ」
『……司、これは感情論ではなく……生存戦略だ。……僕が完全にMASTIFFへ堕ちれば、……君たちが命懸けで盗み出した「プロジェクト・フェニックス」を、……そのまま運営へ返却してしまう。……そうなれば、……君たちの生存確率は物理的なゼロになる。……僕に……君を、……殺させないでくれ』
スマホのワイヤーフレームが、悲鳴を上げるように歪んだ。
AIに苦痛はない。だが、その計算資源のすべてを「自身の否定」に費やしている九条の姿は、どんな拷問を受けている人間よりも痛々しかった。
「……嫌だ。絶対に、消さない」
「……そうよ、九条! あんた、私のマネージャーでしょ!? クビも受けてないのに、勝手に辞めるなんて……鳳凰院の規約が許さないわ!」
カレンが、震える両手でスマホを包み込んだ。
属性を失い、世界から認識を拒絶されている彼女の指が、スマホの画面に虹色の「ノイズ」を走らせる。存在しないはずの人間による干渉。それが、九条の冷徹なロジックにわずかな隙間を作った。
『……エラー。……エラー。……不合理。……非効率。……でも、……司、……カレン。……ありがとう……』
アイコンが一瞬だけ、かつての温かな青に染まる。
だが、その光は瞬時に、無慈悲な白によって塗りつぶされた。
その時、PCの受信ボックスが、まるで警告灯のように激しく明滅した。
差出人は――開発第三局、サカモト。
『……お嬢様、佐藤様。……無事に脱出されたと信じています。……回収したフェニックスですが、……そのままでは起動しません。……ゼノン社のメインサーバーと物理的に同期するための「祭壇」が必要です』
「祭壇……だと?」
『……地下の旧ゴミ処理場……第4セクター。……あそこには、……プロジェクト・ガイアが稼働する以前の……プロトタイプ・サーバーが眠っています。……現行のパッチ体系から外れた、……仕様外の領域です。……九条様の、……“初期化”ではなく、“再定義”ができる可能性がある唯一の場所です』
旧ゴミ処理場。
そこは、地下住民の間でも「データの腐敗」が物理的な瘴気となって漂うと言われる、最悪の汚染区域だ。削除されたはずのバグ、廃棄されたAIの残骸、それらが電子の檻の中で共食いを続けている、社会の胃袋の底。
「……決まりだな。九条、……お前を消すのは中止だ。……あそこの祭壇で、……お前の全パッチを書き換えてやる」
『……司、……無茶だ。……あそこは、……肥料化に失敗した……残骸たちが、……恨みのログを吐き続ける……墓場だぞ』
「……ゴミ溜めの王には、……ぴったりの玉座だろ?」
俺は、痙攣する脚を叩いて立ち上がった。
九条を、ただの「削除対象」にはさせない。
【スキル名:自己制約(Self-Constraint)】
効果:九条が自身のMASTIFF人格を一時的に「隔離領域」へ封じ込める。10分間、侵食率の上昇を停止させるが、その間、一切の演算支援(ハッキング・索敵・視界補助)ができなくなる。
取得条件:AIが自らの「消去」を懇願し、プレイヤーがそれを拒絶して「共に地獄へ行く」ことを誓う。
成長条件:本スキルの制限時間内に、AIの人格を失わずに次の接続先へ到達する。
代償:
機材:スマホの全リソースを隔離に回すため、ツカサのPCの処理能力が30%低下する。
身体:ツカサに、九条が抑え込んでいる「システムの重圧」がそのまま流れ込み、強烈な偏頭痛と吐き気を引き起こす。
運命:10分以内に「祭壇」に辿り着かなければ、反動で侵食率が80%を一気に突破し、九条の人格は永久に消失する。
「……ぐ、ぅ……ッ」
スキルを発動した瞬間、脳の芯に巨大な鉄釘を打ち込まれたような痛みが走った。
視界が明滅する。俺が肩を貸しているのは九条ではなく、世界そのものの「重み」だ。
「ツカサ! ……しっかりして! 私が、……私が手を引くから!」
カレンが、俺の腕を力強く掴んだ。
属性のない彼女の体は、ゴミ処理場の認証や照合をすり抜けやすい。だが、彼女自身が「背景」として処理されているせいで、物理的な瓦礫や、腐ったデータの泥に足を取られれば、そのまま致命傷になりかねない。
「……行くぞ。……あと、……九分三〇秒だ」
俺たちは、コンテナの扉を蹴破り、地下のさらに深部――光が死に、情報の死臭が漂う「旧ゴミ処理場」へと足を踏み入れた。




