第53話:祝杯の味:18円の規約(ロジック)と査察官の私服
地下街の空気は、鉄錆と安物のオイル、そして行き場を失った人間たちの吐息が混ざり合った、特有の重さがある。
俺とカレンは、『スイート・コンテナ』のある区画を抜け、さらに隅にある『うどん屋・ハチ公』へと辿り着いた。看板は半分割れ、ネオンは虫の息で点滅している。だが、ここにはこの街で唯一、規約ではなく「出汁」で客を呼ぶ本物の飯がある。
「……ここなの? 私たちの勝利を祝う場所が」
カレンが、煤けた暖簾を潜るのを躊躇いながら尋ねる。彼女のHUDには、依然として俺の視界が共有されている。俺の目を通して見る自分自身のボロボロな姿に、彼女はまだ慣れない様子で、時折自分の肩を抱くようにして歩いていた。
「……ああ。……一億人に追われ、……属性を消され、……相棒が半分機械になった。……そんな最悪の夜を越えた後の飯は、……ここ以外に考えられない」
俺はボロい券売機に [GRAY] IDをかざした。
本来、この券売機は信用スコアD以下を「家畜」として扱う。だが、銀色に光る [GRAY] のパルスを受けた瞬間、機械は「ガガガッ」と奇妙な音を立て、優先処理のルートへ強引に割り込んだ。
『……いらっしゃいませ、……地下の閣下。……特別メニュー「極・ネギ盛り」……解放します』
「……閣下、だって。……ふふっ、……うどん屋にまで媚びられるなんて、……鳳凰院の看板があった頃より……なんだか愉快だわ」
カレンが少しだけ毒気のある笑みを浮かべる。
カウンターに座ると、すぐに出てきたのは、立ち上る湯気と、暴力的なまでのネギの量。
俺は、震える手で割り箸を割った。神経痛が走るが、出汁の香りがそれを一瞬だけ忘れさせてくれる。
「……食え。……これが、……俺たちの『生存権』だ」
カレンが、恐る恐る麺を啜る。
次の瞬間、彼女の蒼い瞳が大きく見開かれた。
「……熱い。……しょっぱい。……でも、……何これ。……鳳凰院の晩餐会で出たどのスープよりも、……喉に刺さるわ」
「……だろ。……バグにはバグの、……相応しいメシがあるんだよ」
俺たちは無言でうどんを啜った。
[GRAY] IDの特権で得た「ネギの追加」というささやかな贅沢。それが、俺たちがシステムから力ずくで奪い取った「自由」の象徴だった。
――その時だった。
隣の席に、一人の男が静かに座った。
地下に似つかわしくない、仕立ての良い――だが「私服」のアバター。
真っ白な官僚服でもなければ、武装した査察官の姿でもない。
ただの、どこにでもいる「仕事に疲れた男」の姿をした、遠藤だった。
『……司、……迎撃……?』
スマホの底で、九条の声が低く響く。白い「白(MASTIFF)」のアイコンが、殺意を孕んだ明滅を見せる。
「……よせ、九条。……こいつは、……飯を食いに来ただけだ」
俺は遠藤を見ずに、うどんの汁を飲み干した。
遠藤もまた、俺の方を見ることなく、券売機から出てきた「素うどん」を静かに受け取った。
「……佐藤司。……君が教えてくれたこの店だが……。……出汁の配合が、……旧パッチのアルゴリズムに似ているな。……非効率だが、……中毒性がある」
遠藤の声には、いつもの冷徹な「正義」がなかった。
ただ、自分の計算を狂わされた者だけが持つ、奇妙な空虚感だけが漂っている。
「……わざわざ、……私服で……俺を殺しに来たのか?」
「……まさか。……非公式な時間に、……非公式な場所で、……君という『バグ』が何を食べているのか、……確認しに来ただけだ。……プロジェクト・フェニックス。……それを抱えた気分はどうだ?」
「……最悪だ。……相棒が壊れかけ、……隣の女は鏡に映らない。……18円のうどんがなけりゃ、……今すぐシステムに身を投げてたところだぜ」
遠藤は、うどんを一口啜り、眼鏡を指で直した。
「……鳳凰院カレン。……君の属性を消したのは、……私なりの慈悲だったのだがな。……システムの外にいる限り、……君は『肥料』にはならない。……だが、君たちは……わざわざ火の中に飛び込んできた」
カレンが、遠藤を真っ向から睨みつける。
俺の視覚を共有している彼女の瞳には、遠藤の輪郭が「不安定な情報の塊」として映っているはずだ。
「……査察官。……私、……あなたに感謝なんてしないわ。……鏡に映らない世界は、……あなたが思うよりずっと寒いのよ。……だから、……私は私の『色』を取り戻す。……そのために、……あなたの誇るシステムを、……内側からバグらせてあげる」
遠藤は、ふっと自嘲気味に笑った。
「……そうか。……なら、……精々あがくがいい。……次に会う時は、……私は再び『MASTIFF』として、……君たちを処分する」
遠藤は器を片付け、立ち去った。
背後に残されたのは、冷めかけたうどんの湯気と、圧倒的な宣戦布告。
【スキル名:非公式会談(Private Tunneling)】
効果:敵対対象と物理的に近接している際、周囲の監視ドローンや録音デバイスに「環境ノイズ」を偽装パッチとして送信し、会話内容を完全に遮断する。持続180秒。
取得条件:最重要指名手配犯と公式管理者が、互いに武器を抜かずに3分間対峙する。
成長条件:本スキル発動中に、相手から「非公開の情報(本音)」を一つ以上引き出す。
代償:
社会:発動中、自身の [GRAY] IDの権限が一時的に「浮遊(Suspend)」し、発見されるリスクが上がる。
精神:敵対者と波長を合わせるため、解除後に激しい「自己嫌悪」または「相手への共感」による精神混乱が生じる。
「……行ったわね、あの死神」
カレンが大きく息を吐き、俺の袖を掴む力が強まった。
俺の視界の中で、彼女の指先が白く震えている。
「……ああ。……でも、……あいつ、……肝心な場所には触れなかった。……フェニックスは、……あいつにとっても……見たくない悪夢なんだろうさ」
俺は空になった器を見つめた。
祝杯は終わりだ。
ここから先は、拾った命を「弾丸」に変えて、国家の喉元へ叩き込む作業が始まる。




