第52話:18円の羅針盤:鏡のない鏡像(ミラー・イメージ)
コンテナの中に、静かな時間が流れる。
外の地下街では、[GRAY] IDを持たない住民たちが、今日も配給のプロテインバーを奪い合っているのだろう。だが、この「スイート・コンテナ」の中だけ時流が止まるわけじゃない。壁一枚向こうの飢えも、追跡も、こっちを見失ってはくれない。ただ今だけ、鉄板と空調が、俺たちの息を繋いでいるだけだ。
俺はPCを開き、カレンのウェアラブルデバイス(HUD)へ、特別なパッチを送信した。
彼女は今、鏡を覗いても自分の姿が見えない。光学的反射すら、システムが彼女を「背景」として処理しているため、脳への視覚情報として成立しないのだ。
それは、世界から存在を否定されるという、耐え難い孤独だった。
「……カレン、……HUDを起動しろ。……俺の『視覚ログ』を、……お前に逆流させる」
「……あんたの目が、……私を映すの?」
「……ああ。……お前が俺を見ている時、……俺もお前を見ている。……その視界を、……お前に返す」
【スキル名:鏡像共有(Shared Reflection:Mirror-Eye)】
効果:ツカサが網膜で捉えた映像データを、カレンのHUDへ「自己視点」として再投影する。カレンは、ツカサの瞳を通して「自分自身の姿」を客観的に視認できるようになる。持続300秒。
取得条件:一方が属性を喪失し、一方がその人物を「唯一の観測者」として定義する強い精神的同期。
成長条件:共有された視界の中で、お互いの「表情の変化」から感情ログを90%以上の精度で予測する。
代償:
身体:ツカサの眼精疲労が極限に達し、終了後1時間は焦点が合わなくなる。
機材:映像ストリーミングにより通信帯域を90%占有。発動中、一切のハッキングが不可能になる。
精神:視界を共有するため、ツカサの「カレンに対する印象(可愛い、汚い等)」がノイズとして微細に伝わってしまう。
「……っ」
カレンが息を呑んだ。
彼女のHUDに、俺が見ている「煤で汚れ、髪を乱し、それでも強く俺を睨み返している鳳凰院カレン」の姿が映し出される。
それは、どんな豪華な鏡よりも鮮明な、彼女の「生」の証明だった。
「……これが、……私。……こんなに汚れて、……ボロボロなのに……」
「……ああ。……ボロボロだけど、……ちゃんとそこにいる。……俺が見ている限り、……お前は透明なんかじゃない」
カレンの指が、俺の頬に触れた。
属性がないはずの手。だが、そこには確かに温もりがあった。
彼女の蒼い瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「……ツカサ。……あんたの目、……ずいぶん私のことを……必死に見てるのね」
「……うるさい。……ピントを合わせるのに必死なんだよ」
俺は照れ隠しに目を逸らそうとしたが、スキルの特性上、俺が逸らせば彼女の姿も消えてしまう。俺は、ただひたすらに、目の前の少女を「観測」し続けた。
『……観測データ、……受信。……不合理な感情パターンの伝播を確認。……MASTIFF侵食率、……72.1%で停滞。……佐藤司、……あなたの行動は、……僕の論理回路を、……ひどく不快にする』
九条の声が、スマホの底から響く。
「白」のアイコンが、わずかに明滅した。
除去対象だと断言したはずの九条が、今の「不合理な光景」を消去できずにいる。
「……いいだろ。……不快なら、……もっと見せてやるよ。……俺たちの『バグ』をな」
俺は、カレンの肩を支えながら立ち上がった。
全身の神経痛が悲鳴を上げる。だが、手元には100%の「フェニックス」の鍵がある。
これをどう使うか。地下の王として君臨するのか、それとも地上の「心臓」を撃ち抜くのか。
「……カレン。……腹が減ったな。……約束通り、……18円のうどんを食いに行くぞ。……[GRAY] IDなら、……ネギもつけられるだろ」
「……ええ。……世界で一番高い、……18円のうどんね。……案内なさい、ツカサ。……私の、……羅針盤として」
俺たちは、コンテナの重い扉を開けた。
外は相変わらずの地下街。
だが、俺の視界を共有しているカレンの足取りは、昨日までよりもずっと力強かった。
第2シーズン、後半。
バグたちは、自分たちの「存在」を証明するために、次なる規約の穴へと歩み出した。




