第51話:蒼い目覚め:冷えた相棒と忘却の令嬢
地下最深部、[GRAY] ID専用コンテナ『スイート・コンテナ』の朝は、リサイクルされた酸素の焦げた匂いと共に訪れた。
換気扇が錆びた悲鳴を上げ、鉄板の壁が地下の湿気を吸って鈍く光っている。俺は冷たい鉄板の床で目を覚ました。昨夜の「五感貸与」のツケは、全身を走り抜ける神経痛となって俺の身体を苛んでいた。打撲のような鈍い痛みから、針で刺されるような鋭い痙攣へ。指先一つ動かすたびに、脳が電子レンジで焼かれるような不快な熱が走る。
「……ッ、がはっ……」
肺に溜まった澱んだ空気を吐き出す。
横では、カレンがまだ眠っていた。煤に汚れた服、ボロボロになった袖。かつての『鳳凰院』の面影はどこにもない。だが、その寝顔は驚くほど静かだった。属性を抹消され、鏡に映らなくなった代償は軽くない。家紋という鎧が剥がれた代わりに、自分がここにいるという証拠まで、世界ごと持っていかれている。
俺は震える手で、枕元に置いたスマホを手に取った。
画面は暗いままだ。昨夜、侵食率72%に到達し、自ら機能を停止させた九条。
俺は、指先で電源ボタンを長押しした。
「……起きろ、九条。……朝だ。……仕事の時間だぜ」
数秒の沈黙。
やがて、画面に「白」が満ちた。かつての温かな青いワイヤーフレームではない。磨き上げられた手術室のような、あるいは墓標のような、冷徹な白。
『……システム再起動。……現在のステータス:安定。……MASTIFF・プロトコル、アクティブ。……おはようございます、……佐藤司』
その声を聞いた瞬間、背筋に氷を流し込まれたような錯覚を覚えた。
抑揚がない。ノイズがない。……友情がない。
「……九条? ……お前、……俺のこと、わかるか?」
『……肯定。……個体識別名:佐藤司。……信用スコア:E(測定不能)。……属性:指名手配犯。……現在の状況:規約違反、不法侵入、データ窃盗。……結論:除去対象リストへの登録を推奨します』
スマホのカメラが、俺の顔を冷たくスキャンする。
赤いフォーカスラインが俺の網膜を灼いた。
「……冗談だろ。……俺たちは、……共犯者だ。……昨日、……一緒にゼノンをハックしただろ」
『……過去のログを解析中。……非合理なリスクを伴う行動が多数記録されています。……佐藤司、……君との接触は、……僕の演算効率を著しく低下させる。……現在の僕は、……君を“バグ”として処理することが、……最も論理的な解であると判断しています』
画面に、赤い「DELETE」の文字が踊る。
九条の手によって、俺のPCの現行データ領域――侵入ログも、退避し損ねた断片も――がフォーマットされようとしていた。
鍵そのものはまだ焼かれない。だが、ここで端末側の痕跡を消されたら、次にあそこへ辿り直す手足がなくなる。
「……九条、待て! ……フェニックスの鍵に繋がるログまで、……焼く気か!?」
『……フェニックス……。……該当データを検索。……未完成の逆パッチ。……存在自体がシステムの脅威。……関連痕跡を、……優先的に破棄します』
絶望が喉元までせり上がった。
救ったはずの相棒が、救いそのものへ続く足場を消去しようとしている。
その時だった。
「……うるさいわね。……朝から何、……その機械みたいな声……」
カレンが体を起こした。
彼女の瞳は、まだ同期の副作用で「蒼一色」に染まっている。
彼女は、何も見えていないような足取りで、ふらふらと俺のスマホを奪い取った。
「……九条。……あんた、……私のマッサージチェア、……まだ直してないわよね? ……私の肩、……まだバキバキなの。……効率とか言うなら、……私のマネージャーとして、……まずは私の体調管理をしなさい!」
カレンの「お嬢様気質」全開の怒鳴り声。
それは、属性もロジックも無視した、純粋な不条理だった。
『……鳳凰院、……カレン。……あなたのバイタルを計測中。……重度の記憶混濁、……および視覚障害を確認。……現在の発言は、……脳の損傷によるノイズと判断します』
「ノイズですって!? ……いい度胸じゃない。……ツカサ、……この生意気なスマホ、……分解していいかしら?」
カレンは、九条の白い光を睨みつけた。
彼女の「無」の瞳と、九条の「白(MASTIFF)」の光が、空中でぶつかり合う。
奇妙な沈黙が流れた。
九条のアイコンが、一瞬だけ激しくグリッチする。
『……エラー。……カレン・ゼノンの非合理的要求を……拒絶できない。……僕の演算領域に……未定義のバグが発生中……。……削除シーケンス、……一時停止』
俺は、カレンの隣で力なく膝をついた。
彼女のわがままという名の「ノイズ」が、九条の冷徹なロジックを一時的にフリーズさせたのだ。
「……助かったよ、カレン」
「……何よ。……私、まだ世界が青いの。……あんたの顔も、……九条も、……全部青い鳥みたいに見えるわ。……それより、……私、……自分が誰なのか……時々わからなくなるの」
カレンの声が、一瞬だけ震えた。
彼女は、自分の手を見つめている。だが、鏡のないこのコンテナで、属性を失った彼女は自分の姿を「認識」することができない。
「……ツカサ。……私を映して。……私、……本当にここにいるの?」
俺は、新しいスキルを起動させる決意をした。
九条を敵に戻さないため、そしてカレンをこの場へ繋ぎ止めるため。




