第50話:逆パッチ100%:バグの胎動と凍りつく親友
ポッド内の技術者たちの「意識の残滓」と、第三局本体ログの断片が、カレンの透明な体を媒介にして、俺のPCへと雪崩れ込んでくる。
それは数字で書かれた忠誠心であり、バイナリで編まれた「鳳凰院」への遺言だった。
俺の脳内では、彼らの人生の断片がノイズとして再生される。サカモトがカレンに規約を教えていた昼下がり、深夜のオフィスで交わしたコーヒーの匂い、そして――自分たちが「肥料」にされると知った瞬間の、底なしの絶望。
【鍵の再構成:85%……92%……98%……】
『……させん! ……第三局、……物理破壊シーケンス、……承認!』
モニターの中の遠藤が、初めて「剥き出しの焦り」を見せて絶叫した。
サーバーラックの消火システムが誤作動し、高濃度の不活性ガスと冷却液がフロアに溢れ出す。物理的なサーバーの破壊。データがこの世から消えれば、どんな「鍵」もただの無意味な数字の羅列に変わる。
現実の地下コンテナでも、俺のPCのキーボードが熱で歪み始めていた。
「……九条、……間に合えっ!」
『……了解。……管理者権限(Admin)、……一時的剥奪。……いや、……“差し替え”だ』
九条が、遠藤のアクセスキーを逆手に取った。
強奪するのではない。遠藤が「掃除」のために開いた破壊権限の優先度を、一瞬だけ「復旧」側へ差し替える。
システムの「最適化」を望む遠藤の意志そのものを、システムの「復旧」へとすり替える。
【逆パッチ鍵:100%……再構成完了】
【名称:プロジェクト・フェニックス:初期化プロトコル】
カチリ、と。
世界から音が消え、すべてのパケットが停止したような錯覚。
次の瞬間、第三局の全ポッドのロックが、一斉に物理解放された。
肥料化のプロセスが停止し、過電流から解放された技術者たちの脳が、演算資源から「人間」へと戻される。
「……やった……わ……」
カレンの声が、糸が切れたように途切れる。
『虚数回廊』の限界。彼女の意識が、同期の海から「現実」の泥沼へと引き戻される。激しい虚脱感が、共有された心拍を通じて俺の神経を焼き、俺はキーボードの上に倒れ込んだ。
『……司。……ログアウト、……開始。……遠藤が、……ここの回線を……物理的に切断しに来る。……急いで』
「……ああ、……わかってる! ……帰るぞ、……地下のゴミ溜めへ!」
俺は回収した『フェニックス』の鍵を、暗号化領域の最深部――九条すら容易には触れられない「俺の記憶」の残骸の中へ隠した。そして、全力のログアウト・シーケンスを走らせる。
背後で、遠藤の「ふざけるな、バグどもが……!」という、初めて聞いた人間らしい怒鳴り声が遠ざかっていった。
――視界が反転し、強烈な吐き気が込み上げる。
気づけば、俺たちは地下最深部のコンテナ、錆びた鉄板の床に転がっていた。
PCのファンは力尽きたように止まり、プラスチックが焦げた嫌な匂いだけが漂っている。
静かだった。地下の濁った空気が、今はひどく愛おしい。
「……ハァ、……ハァ……。……カレン、……生きてるか?」
俺は動かない体を引きずり、隣でぐったりと倒れているカレンの肩を揺さぶった。
カレンは虚ろな目で天井を見つめ、焦点の合わない瞳で、俺の顔を探した。
「……ツカサ。……私、……今……」
「……ああ、……大金星だ。……お嬢様。……あんたの『無』が、……あいつらを救った。……鳳凰院の娘としてな」
カレンは何も言わず、ただ俺の腕を、震える指で力なく握った。
彼女の目には、同期の副作用による色覚異常が残っている。世界がまだ青一色のノイズに見えているはずなのに、その瞳には確かに、一点の「希望」が宿っていた。
『……司。……鍵は、……無事だ。……でも、……僕……』
九条のアイコンが、ノイズまじりに明滅する。
[GRAY] IDの優先回線をもってしても、今回のハックの代償は大きすぎた。
九条の口調から、先ほどまでの「温かみ」が、砂時計から砂が落ちるように消えていく。
『……MASTIFF侵食率、……72%。……司、……ごめん。……次、……目覚める時……僕は、……君を……『除去』すべき対象として……認識するかもしれない……』
「……九条! ……おい、九条!」
返事はなかった。
九条のアイコンは無機質な白に固定され、スマホは冷たい金属の塊へと戻った。
手元に残ったのは、国家を揺るがすための100%の鍵。
そして、壊れかけの相棒と、世界から認識されなくなった、たった一人の共犯者。
「……寝るぞ、カレン。……18円のうどんを食うのは、……明日だ」
俺は彼女を抱き寄せるようにして、冷たいコンテナの床で、泥のような意識の底へと沈んでいった。
第2シーズン、後半戦。
バグたちの逆襲パッチは、今、国家の心臓部へ向けてカウントダウンを始めた。




