第49話:属性除外:虚数領域の令嬢
開発第三局の閉域網は、もはやデータの海ではなく、燃え盛る計算資源の地獄と化していた。
無数に並ぶモニターのすべてに遠藤の「清潔な」アバターが浮かび、そのどれもが寸分の狂いもなく同期して言葉を発する。その光景は、一人の人間というよりは、巨大なシステムが人格を模倣しているような、吐き気を催すほどの均一性に満ちていた。
『……佐藤司。君の計算には常に「情」という不確定要素が混じる。それが君の限界だ。……ここにあるポッドの維持電力を、今からすべてMASTIFFの迎撃演算に回す。……彼らが肥料になるか、君たちがここで焼き切られるか。……その二択だ』
「……っ、遠藤! ……あんた、……人間をなんだと思ってるんだよ!」
俺の叫びは、物理的な音波ではなく電気信号として閉域網に霧散する。
フロアの赤い警告灯が、まるで断末魔の鼓動のように激しく明滅し、サカモトたちが収容されたポッドから不気味な排気音が漏れ始めた。強制的な演算資源化。脳内のシナプスに過電流を流し、その演算能力をシステムの一部へと統合する「処刑プロセス」が開始されたのだ。
九条に五感を貸し出している俺の脳に、ポッドの中の人間たちが味わっている「熱」が流れ込んでくる。神経を直接LANケーブルでこすりつけられるような、じりじりとした焦燥感。視界の端で、PCのCPU温度が100度に迫り、サーマルスロットリングの警告が真っ赤に点滅している。
『……人間は、……最適化されるべき情報に過ぎない。……それがガイアの結論だ』
「……非合理的ね、査察官」
その声は、驚くほど静かだった。
隣に立つカレンだ。『共犯同期(Criminal Sync)』の代償により、彼女の瞳からはかつての煌びやかな輝きが消え、無機質な白濁が広がっている。九条のMASTIFF人格が、彼女の意識の輪郭を冷徹に侵食し、その口調から「感情」という名の贅肉を削ぎ落としていた。
だが、その声の底に、わずかに残った「令嬢の矜持」が、猛毒のような反逆心として脈打っていた。
「……属性:無(Empty)。……ターゲット指定:不可能。……ログイン権限:非存在。……あなたが定義した『掃除』のリストに、……今の私は載っていないわ」
カレンが、一歩前に出る。
その足取りは実体のないノイズのように揺れ、フロアの輪郭からわずかに滑って見えた。
彼女は今、システム上では「存在しない背景」だ。遠藤がどれほど強固な「侵入者排除パッチ」を敷こうと、そもそも「存在しないもの」への照合と座標固定は成立しない。
【スキル名:属性除外:虚数回廊(Attribute Exclusion:Ghost Echo)】
効果:属性抹消状態のカレンが、自身の「存在しない情報」を盾にし、ツカサと九条のパケットを包み込むことで、30秒間、管理者権限による「追跡・照合・座標固定」系パッチを無効化する。
取得条件:システム上の「死」である属性抹消を受け入れ、かつ「自分を捨てたシステム」への純粋な反逆心を糧に同期する。
成長条件:本スキル発動中に、照合済みの管理者ログを10回以上「未定義」として空振りさせる。
代償:
身体:カレンの意識が「現実」から乖離し、解除後、数時間「自分の名前」すら思い出せなくなる記憶混濁。
機材:ツカサのPCのネットワークアダプタがオーバーフローし、通信ラグが500ms以上で固定される。
社会:使用した痕跡が「未定義のバグ」として、運営の最優先削除対象に登録される。
「……ツカサ、……九条。……道は、……私が作る」
カレンが虚空へ手をかざした瞬間、遠藤が張り巡らせた「ルート遮断パッチ」の格子状の光が、彼女の体をすり抜けて崩壊した。
存在しない座標。定義できないパケット。
最新のMASTIFFがどれほど「最適」を計算しても、カレンという「零」を掛け合わせれば、照合の式は崩れ去る。
『……なっ!? ……属性:無、だと……? ……そんなステータス、……想定されていない……!』
「……当たり前だろ、……遠藤。……あんたたちが『ゴミ』として捨てたものが、……あんたたちの計算を狂わせる。……それこそが、……システムの真理だ!」
俺は鼻から垂れる熱い液体を拭う間もなく、カレンが切り開いた「虚数の隙間」へ、魂を削り出すようにコマンドを叩き込んだ。
狙うのは救出だけじゃない。
48話で61%までしか組み上がらなかった逆パッチ鍵――残り39%を埋めるための、第三局本体ログだ。
九条が、俺の五感をさらに深くジャックする。俺の指先は、もはや俺の意志ではなく、AIの超高速演算によって操られていた。
コンソール画面を流れる文字列が、俺の網膜に焼き付き、視神経を灼く。
『……司。……鍵、……残り39%。……第三局本体ログへ接続。……カレンが、……僕を……支えてくれている。……あったかい、……バグだね』
九条の声に、一瞬だけ、泣きそうな人間性が混ざった。
その「温かさ」は、冷徹なMASTIFFの論理回路を一時的に麻痺させ、九条を「ただの親友」へと引き戻す。
俺は歯を食いしばり、限界を超えてファンの悲鳴を上げるPCを抱きしめるようにして、最後の鍵の断片へと手を伸ばした。




