1mmの境界線:地下の宿屋の長い夜
「……ハァ、ハァ……。ここまで来れば、追手は巻けたか」
俺たちはジャンク・ヘブンのさらに深部、廃棄されたコンテナを積み上げて作られた『簡易宿舎』へと逃げ込んだ。
通路には剥き出しの配管が走り、汚水が垂れている。カレンの煤けたドレスが、その汚水に濡れるのを俺はただ見ていることしかできなかった。
「……ツカサ、これ。……起動して」
カレンが、震える手でチップを差し出す。
地下ID[BLANK]——本登録チップ。
俺はボロPCを起動し、カレンのウェアラブルデバイスにチップをスロットインした。
【地下ID:BLANK(本登録)——アクティブ】
【ステータス:社会のノイズ(確定)】
【機能開放:地下自動販売機/簡易宿泊施設/闇リーグ出場権(下位)】
「……これで、ようやく『不潔』とは言われずに済むわね」
カレンが力なく笑う。
俺は、彼女に手を貸して、割り当てられた『104号室』の重い鉄扉を開けた。
そこは、畳二畳分ほどのスペースに、湿ったシングルベッドが一つ置かれただけの「箱」だった。
「……ツカサ。……一つ、聞いてもいい?」
「なんだよ」
「……ベッドが、一つしかないんだけど。……どういう冗談?」
「地下のスタンダードだ、お嬢様。……不満なら、外の石畳で査察ドローンの子守唄でも聴きながら寝るか?」
カレンは顔を真っ赤にし、ボロボロの毛布を抱えてベッドの端に座り込んだ。
俺は床に座り、PCの熱を逃がしながら、スマホの中の九条を確認する。
アイコンはまだ赤黒い。吸収した『07』の残骸が、九条の中でまだ暴れている。
『……司。……カレンの心拍数が、上昇している。……不快感、あるいは……期待感のログ。……解析、不能』
「……黙れ、幽霊。お前は45%くらい機械に戻ってんだろ。黙って寝てろ」
『……合理的判断。……司、……おやすみ』
九条が沈黙する。
狭い部屋に、俺とカレンの呼吸音だけが響く。
「……ツカサ。……こっちに来なさいよ」
「……は?」
「……床で寝て、明日の試合でラグが出たら困るわ。……背中を向けなさい。……1mmでも動いたら、……この『解析補助パッチ』を無理やり消去してやるから」
俺は観念して、ベッドの端に背中を向けて横たわった。
カレンの温もりが、背中越しに伝わってくる。
嗅覚デバイスなんてなくても、彼女の「本物の匂い」がした。
俺たちは、一億人に追われるテロリストだ。
でも、この「1mmの境界線」だけは、どんなパッチでも塞げない気がした。




