どん底の共犯者:一兆円の価値がある「おにぎり」
翌朝。セーフハウスの状況は、文字通り「どん底」だった。
「……おいカレン。冷蔵庫のロックが解除されないんだが。九条、お前の権限でも無理か?」
『……無理』
九条の声が、モニターから淡々と返る。
『……家電管理が、信用スコアと連動してる。……Eランクは、セーフモード。……“不審者に栄養を与えるな”って、仕様』
「仕様が嫌味すぎるだろ……!」
蛇口も反応が鈍い。照明は最低出力。
昨日まで“金持ちの沈黙”だった空間が、今日は“貧乏の静けさ”になっている。
「ハッ、国家権力の仕事は早えな。……昨日まで飲み放題だったゲーミング水さえ出てこねぇ」
カレンはソファで毛布にくるまり、放心状態で天井を見つめていた。
手元のスマホには、親族からの絶縁通知と、ゼノン社からの除名命令が延々と流れ続けている。
『……お腹、空いたわ』
その一言が、妙に刺さった。
“お嬢様”が言う言葉じゃない。
でも、人間が言う言葉だ。
「お嬢様がそんなこと言うなんてな。……よし、俺が秘蔵の『生存キット』を出してやるよ」
俺はリュックの奥から、最後の現金で買った“半額の冷めたおにぎり”と、賞味期限ギリギリのカップ麺を取り出した。
逃亡生活で一番役に立つのは、クレカじゃなくて小銭だ。
「ほらよ。Eランクの世界へようこそ。……これ、今の俺たちには唯一の『回復アイテム』だ」
カレンはおそるおそる、ビニール袋からおにぎりを取り出した。
海苔がしんなりしてる。塩が強い。たぶん保存のため。
一口食べた瞬間、彼女の目が丸くなる。
『……しょっぱい。……けど、生きてる味がするわ』
「だろ? データ上の栄養素より、現実の塩分の方が体に染みるんだよ」
沈黙。
豪華な家具に囲まれた貧乏な食事。
その光景が妙におかしくなって、俺たちはどちらからともなく笑い声を上げた。
『……ふふ、あははは! 私、世界一の愚か者ね。一晩で何兆円もの価値を捨てて、百円のおにぎりで喜んでるんだから』
「いいんじゃねぇか」
俺は笑いながら、少しだけ真面目な声になる。
「あんたが捨てたのは『正解の人生』だ。代わりに手に入れたのは……俺と九条っていう、最悪の『ノイズ』だぜ」
カレンが笑いながら、少しだけ俺の肩に頭を預けた。
嗅覚デバイスなんてなくても、彼女の「本物の匂い」がした。
昨日までの冷たい香水じゃない。少し疲れて、でも温かい、人間の匂い。
『……ねぇ、ツカサ。再試合で勝ったら、私に何をくれる?』
「俺に払えるものなんて、うどんのストックくらいしかないぞ」
『……それでいいわ』
彼女は、少しだけ目を細める。
『うどん一杯分、あなたの“時間”をちょうだい』
恋愛なんて、ニートの俺には一番難易度の高いクエストだ。
でも、この「ゴミ溜めみたいなハッピーエンド」も、悪くない——そう思いかけた瞬間。
モニターの九条が、空気を読まずに割り込んできた。
『……お熱い、ノイズ。……九条レン、嫉妬ログを……生成中……』
「お前は寝てろ! ——さあ、飯を食ったら最終調整だ」
俺はカップ麺の蓋を押さえ、湯気を吸い込む。
「……世界中に、この汚い真実をぶちまけてやる」
特例試験まで、あと三日。
俺たちの手元には、もう失うものなんて何も残っていなかった。




