崩壊するアリーナ:PCに宿る亡霊と現実の強襲
静寂。
一億人の罵声も、実況の叫びも、すべてが遠い世界の出来事のように思えた。
真っ白に焼き付いた視界が、ゆっくりと戻っていく。
アリーナの中央。九条レンだった「白銀のフルプレート」が、糸の切れた人形みたいにその場に膝をついていた。
「……九条?」
返事はない。
だが——俺のイヤホンが、聞いたことのない“デバイス接続音”を鳴らした。
ピッ、という乾いた音のあと、機械みたいに淡々とした声。
『ファイル転送完了……。整合性チェック……失敗。……司、そこ、狭いよ……』
「……は?」
同時に、現実のゲーミングPCが、聞いたこともない異音を上げた。
ファンが悲鳴を上げ、ケースの隙間から青白い火花が散る。延長コードが熱でぐにゃっと曲がって、焦げ臭い匂いが部屋に広がった。
「おい、冗談だろ!? これ以上PCがイカれたら、俺の全財産が火葬されるのと一緒だぞ!」
コメディみたいな悲鳴を上げたが、事態は笑えない。
画面上の九条のアバターが、ボロボロと砂みたいに崩れ始めた。
——パッチは“入った”。
ただし、綺麗にじゃない。
九条の意識を管理していたAIリンクを強引に引き剥がし、俺の端末のセキュア領域に作られた“隔離コンテナ”へ落とした。
亡命は成功。整合性は失敗。つまり——生きてるが、歪んでる。
そしてそれは、運営にとっての「最高機密の紛失」を意味する。
『警告。マスターユニット【S-GHOST】のロストを確認。……セッションを強制終了します。——査察部、対象を物理拘束せよ』
無機質なシステムボイスがアリーナに響き渡る。
上空のモニターに、鬼の形相をした遠藤が映し出された。
「佐藤司ィィィ! 貴様、何をした! 九条のコアをどこへ隠した!」
「知らねぇよ! 俺が殴ったら、勝手にあいつが壊れただけだろ! 欠陥品を俺のせいにするな!」
精一杯の屁理屈を叩きつける。
アリーナの地面が、パッチの余波——いや、リンク切断の演算エラーでひび割れ、下の階層のワイヤーフレームが露出していく。
実況席では、カレンがわざとらしく頭を抱えていた。
『ああ、なんてこと……! 私の聖剣が、彼の悪しきノイズに飲み込まれてしまったわ!……警備員! 早くその不浄な男をアリーナから引きずり出して!』
一見すれば、俺を糾弾している。
だが——彼女の指先が指し示したのは、アリーナ端の「非常用脱出口」のハッチだった。
逃げろ。
捕まれば、九条ごとフォーマットされる。そう言っている。
「……最高だよ、お嬢様。あんたの演技、アカデミー賞もんの『クソ女』だぜ!」
俺は操作不能になりかけたアバターを、最後の気力で動かす。
『ヘイト・コンデンサー』の代償で、現実の心臓がバクバクと暴れている。視界が一瞬、暗く縁取られた。
——時間がない。
その時。
バタン!
現実の俺の部屋のドアが、外から激しく叩かれた。
「佐藤司! 査察部だ! ドアを開けろ、さもなくば強制執行する!」
現実とゲーム、両方の死神が同時にやってきた。
俺は熱を帯びたキーボードから手を離し、足元に転がっている「緊急用ポータブルSSD」を掴んだ。
中身はデータ本体じゃない。
亡命コンテナを解くための“退避鍵(暗号キー)”と、今起きている不整合の診断ログ。——これがないと、九条は俺のPCの中で腐って消える。
「九条、しっかり掴まってろよ……いや、掴まるのは俺のほうか。俺のPC、今にも吐きそうなんだが」
『……司、走って……。あと……息、うるさい……』
「文句言える元気があるなら、まだ生きてるな。よし」
アリーナの床が崩れ、光の粒が舞う。
運営がセッションを潰す。証拠を消す。俺ごと。
俺は、消えゆくアリーナの光の中で、ログアウト・コマンドを叩き込んだ。
——現実へ。
同時に、ドアの向こうの足音が増える。
金属が当たる音。工具。ため息。執行の準備。
「ニートの逃走劇、第二ラウンドだ」
俺はSSDを握りしめ、部屋の中で一番“逃げ道っぽい”場所を睨んだ。
窓か。ベランダか。それとも——
次の瞬間、ドアが軋んだ。




